夕刻の備忘録 様のブログより。
玄関を開け、裏木戸を開け、人の出入りも自由な家で、さらにその上に開けと言われれば、もはや金庫を開けるしかない。察しの良い家人は、空気を読む主人は、「金が目当てなんだろうから」と相手の気持ちを忖度し、先んじて金庫を開く。周囲から「差別意識の無い素晴らしい国際人だ」と言われたい、唯々そのためだけに。
外圧がどうの、国際的な陰謀がどうの、と幾ら分析したところで、国の内部に巣くう「協力者」の正体は見えてこない。内側から鍵を開けなければ、所詮はどうなるものでもないのだ。その正体は「日本国民」である。誰かに褒められたい、世界中からの称賛を浴びたいとウズウズしている何処にでも居る日本人が、鍵を開けているのである。
半世紀を超えるその昔、「憲法を押し付けられた」とはいうものの、その実態は「押し戴いた」のである。その証拠が「憲法記念日・文化の日」である。自主憲法を奪われ、武装解除を為され、財閥を解体されて、得たものは「民主主義」という名の拘束着であった。それを今なお嬉しそうに着ている。それを記念し、それを祝っているのである。
マゾヒスト達はこう言うのだ、「窮屈さも慣れれば味ですよ」と。
元々が自由で闊達な議論がなされ、国民の大半が文字に明るく、そして、エリートと目される人々が率先して、苦難の先頭に立ってきた国で、今さら舶来の「民主主義」に平伏す必要もない。独自の民主主義、独自の文化を誇ってきた国で、「オマエ達は民主主義を知らない」と言われて、何故かそれを真に受けてしまった。日本の民主主義はダメで、そもそもそんなものは民主主義ではなくて、舶来の民主主義こそ真の民主主義だと「押し付けられて」、その結果、それを「押し戴いた」のである。
★ ★ ★ ★ ★
TPP推進派の主張を聞いた。毎度お馴染みのサディストばかりであった。こうした連中の言説に浸かっているから、何処にでもいる、ごく普通の国民にまでマゾが感染するのである。「虐められてこそ、成長するのだ」というマスコミ・キャンペーンに洗脳されて、ついつい危ない世界に入ってしまうのである。
政府・民主党は何と言っているか。「農業かTPPかではなく、農業もTPPもである」と主張し、その後段で「そうでなければ我々は責任が持てない」と断じているのである。時の政府の人間が、「そうでなければ責任が持てない」とは何たる言い草か。「責任転嫁が仕事」の民主党らしい台詞である。TPPに反対するなら、我々は国家経営の責任を負わないというのだ。ならば今直ぐ下野すればいいではないか。
これが暴言扱いされず、スルーされるところに、我が国の最大の問題が潜んでいる。政府が責任を負わず、国民に転嫁し、有識者なるものがテレビに出ては、「国民の努力に期待する」と宣う。全ては国民の肩に「押し付けられている」のである。
しかも、それが国民を勇気づけ、補助し、補完するように働くのではない。国民のやる気を失わせ、より厳しい環境に追いやることで、「国民の覚醒」を待つというサディストばかりなのである。それでも目覚めない奴は死ねということである。
好きで始めた農業である。親父がやっていた農業である。自給自足を目的に始め、それが隣近所にも喜ばれることを知って、家業にしてきた農業である。やがて物々交換が始まり、それが金銭の授受で置き換えられて、ようやくビジネスになった。安全で旨いものを作る、それだけに徹してきたからこそ「世界最高の美食国家」の礎となれた。それが「自然国家」における農業の歴史である。儲かるから始めた、穴場だから始めたというのではない。その種の発想は「人工国家」のものであって、我々には無いのである。
定住して生きていくために始めた農業が、長い年月を掛けて、今の仕組にまで発展したのである。それを何故、訳の分からん部外者どもに、「農業は遅れている」だとか、「外国と競争しなければならない」だとか、「外国人をもっと受け入れろ」だとか、「効率性を上げなければ生き残れない」だとか、勝手なことを言われ続けねばならないのか。
後の心配はするな、とにかく安全で旨いものを作ってくれ、そういってライバルに対抗するのが、官僚や政治家の仕事ではないのか。それが分業というものではないのか。
★ ★ ★ ★ ★
「開国論者」は常に同じである。「首を絞めて、もっともっと強く絞めて、そうすれば生まれ変われるから」、「そうすれば起死回生のアイデアが出るかもしれないから」と御主人様に嘆願するのである。主張はマゾそのものである、しかしその実態はサドである。
何故なら、彼等は自分達だけは常に議論の外に置いているからである。絞められる首は、それを主張する官僚でもなければ政治家でもない、「日曜討論」などという番組で、朝から寝言を垂れている似非学者でもない、我々国民なのだ。彼等は我々の首を差し出して、「もっと絞めなければ、此奴らは気付かないんですよ」とほざいているのである。
サディストの癖に、実行は他人に任せ、傍観者を気取る最悪の人種である。「マゾが居ますよ、ここにマゾが居ますよ」と外人サディストを勧誘し、自分達は決して手を汚さずに、その「ショー」を見学しようとする。
差し出す首は自分のものにしろ。そんなにマゾなら、自分の性癖は自分で始末しろ。マゾを広めて生贄を増やし、己の代償行為にするのは止めろ!
自分のマゾを他人に転写し、遂には「マゾ国家」を樹立させるつもりなのだ。自分達だけは実害を受けないように安全地帯に避難して、他人が苦しむのを楽しむ連中なのだ。
国民の生活を豊かにし、国民の作業効率、生産効率を上げる助力をするべき役職にある連中が、国民を苦しめ、その努力と改善を要求し、希望を挫き、心を折り、悩んでいる暇は無いぞ、外国が押し寄せてくるぞ、効率を上げねば滅びるぞ、と恫喝するのである。
サディストはマゾヒストを求めて、今日も彷徨っている。努力するのは常に国民である。努力しない国民はその名に値せず、「責任が持てない」存在だと公言している。
農業ばかりではない、工業においても、他の分野においても、全く同じ構図である。土を耕すことを知らず、ネジ一本絞められない、現場のことなど何も知らない似非学者、暴走官僚どもが、他人の首をオモチャにして、己の性癖を満たし、それをもって「心の宗主国」に対する忠誠心の証としているのである。宗主国など何処でもいいのだ。日本人が虐められているのを見ると快感が走る。その中に自分さえ入っていなければ、ずっとこの「ショー」を楽しめる。唯それだけのことである。
だからこそ繰り返し書いているのだ。日本が大国であること、「世界最強の自然国家である」ことの認識を持たずして、この世界を正面から見据えることは出来ないのだと。
他国と比較して「最強である」と主張しているのではない。
比較を超越した最高、最強の境地に至るべきだと言っているのである。それは単に自分達の行いに自信を持ち、過去の歴史と伝統を誇りに思い、他の誰にも引け目を感じずに、勇往邁進すればよい、と言っているだけである。マゾから脱せよ、と言いたいだけである。
謙虚が高じて自虐に至り、マゾに染まって快感を感じているようでは全てを誤る。全てを失う。マゾを脱却して、サディストどもの餌を無くすのである。餌を無くしたサディストどもは、遂には己の首を差し出すだろう。それが彼等の性癖なのだ。差し出さずとも、「本物のサディスト」どもに、「代わりが無いならオマエでいい」と言われて食われるに違いないのである。そしてその時、彼等は見事に自滅、消滅するのである。
外圧がどうの、国際的な陰謀がどうの、と幾ら分析したところで、国の内部に巣くう「協力者」の正体は見えてこない。内側から鍵を開けなければ、所詮はどうなるものでもないのだ。その正体は「日本国民」である。誰かに褒められたい、世界中からの称賛を浴びたいとウズウズしている何処にでも居る日本人が、鍵を開けているのである。
半世紀を超えるその昔、「憲法を押し付けられた」とはいうものの、その実態は「押し戴いた」のである。その証拠が「憲法記念日・文化の日」である。自主憲法を奪われ、武装解除を為され、財閥を解体されて、得たものは「民主主義」という名の拘束着であった。それを今なお嬉しそうに着ている。それを記念し、それを祝っているのである。
マゾヒスト達はこう言うのだ、「窮屈さも慣れれば味ですよ」と。
元々が自由で闊達な議論がなされ、国民の大半が文字に明るく、そして、エリートと目される人々が率先して、苦難の先頭に立ってきた国で、今さら舶来の「民主主義」に平伏す必要もない。独自の民主主義、独自の文化を誇ってきた国で、「オマエ達は民主主義を知らない」と言われて、何故かそれを真に受けてしまった。日本の民主主義はダメで、そもそもそんなものは民主主義ではなくて、舶来の民主主義こそ真の民主主義だと「押し付けられて」、その結果、それを「押し戴いた」のである。
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TPP推進派の主張を聞いた。毎度お馴染みのサディストばかりであった。こうした連中の言説に浸かっているから、何処にでもいる、ごく普通の国民にまでマゾが感染するのである。「虐められてこそ、成長するのだ」というマスコミ・キャンペーンに洗脳されて、ついつい危ない世界に入ってしまうのである。
政府・民主党は何と言っているか。「農業かTPPかではなく、農業もTPPもである」と主張し、その後段で「そうでなければ我々は責任が持てない」と断じているのである。時の政府の人間が、「そうでなければ責任が持てない」とは何たる言い草か。「責任転嫁が仕事」の民主党らしい台詞である。TPPに反対するなら、我々は国家経営の責任を負わないというのだ。ならば今直ぐ下野すればいいではないか。
これが暴言扱いされず、スルーされるところに、我が国の最大の問題が潜んでいる。政府が責任を負わず、国民に転嫁し、有識者なるものがテレビに出ては、「国民の努力に期待する」と宣う。全ては国民の肩に「押し付けられている」のである。
しかも、それが国民を勇気づけ、補助し、補完するように働くのではない。国民のやる気を失わせ、より厳しい環境に追いやることで、「国民の覚醒」を待つというサディストばかりなのである。それでも目覚めない奴は死ねということである。
好きで始めた農業である。親父がやっていた農業である。自給自足を目的に始め、それが隣近所にも喜ばれることを知って、家業にしてきた農業である。やがて物々交換が始まり、それが金銭の授受で置き換えられて、ようやくビジネスになった。安全で旨いものを作る、それだけに徹してきたからこそ「世界最高の美食国家」の礎となれた。それが「自然国家」における農業の歴史である。儲かるから始めた、穴場だから始めたというのではない。その種の発想は「人工国家」のものであって、我々には無いのである。
定住して生きていくために始めた農業が、長い年月を掛けて、今の仕組にまで発展したのである。それを何故、訳の分からん部外者どもに、「農業は遅れている」だとか、「外国と競争しなければならない」だとか、「外国人をもっと受け入れろ」だとか、「効率性を上げなければ生き残れない」だとか、勝手なことを言われ続けねばならないのか。
後の心配はするな、とにかく安全で旨いものを作ってくれ、そういってライバルに対抗するのが、官僚や政治家の仕事ではないのか。それが分業というものではないのか。
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「開国論者」は常に同じである。「首を絞めて、もっともっと強く絞めて、そうすれば生まれ変われるから」、「そうすれば起死回生のアイデアが出るかもしれないから」と御主人様に嘆願するのである。主張はマゾそのものである、しかしその実態はサドである。
何故なら、彼等は自分達だけは常に議論の外に置いているからである。絞められる首は、それを主張する官僚でもなければ政治家でもない、「日曜討論」などという番組で、朝から寝言を垂れている似非学者でもない、我々国民なのだ。彼等は我々の首を差し出して、「もっと絞めなければ、此奴らは気付かないんですよ」とほざいているのである。
サディストの癖に、実行は他人に任せ、傍観者を気取る最悪の人種である。「マゾが居ますよ、ここにマゾが居ますよ」と外人サディストを勧誘し、自分達は決して手を汚さずに、その「ショー」を見学しようとする。
差し出す首は自分のものにしろ。そんなにマゾなら、自分の性癖は自分で始末しろ。マゾを広めて生贄を増やし、己の代償行為にするのは止めろ!
自分のマゾを他人に転写し、遂には「マゾ国家」を樹立させるつもりなのだ。自分達だけは実害を受けないように安全地帯に避難して、他人が苦しむのを楽しむ連中なのだ。
国民の生活を豊かにし、国民の作業効率、生産効率を上げる助力をするべき役職にある連中が、国民を苦しめ、その努力と改善を要求し、希望を挫き、心を折り、悩んでいる暇は無いぞ、外国が押し寄せてくるぞ、効率を上げねば滅びるぞ、と恫喝するのである。
サディストはマゾヒストを求めて、今日も彷徨っている。努力するのは常に国民である。努力しない国民はその名に値せず、「責任が持てない」存在だと公言している。
農業ばかりではない、工業においても、他の分野においても、全く同じ構図である。土を耕すことを知らず、ネジ一本絞められない、現場のことなど何も知らない似非学者、暴走官僚どもが、他人の首をオモチャにして、己の性癖を満たし、それをもって「心の宗主国」に対する忠誠心の証としているのである。宗主国など何処でもいいのだ。日本人が虐められているのを見ると快感が走る。その中に自分さえ入っていなければ、ずっとこの「ショー」を楽しめる。唯それだけのことである。
だからこそ繰り返し書いているのだ。日本が大国であること、「世界最強の自然国家である」ことの認識を持たずして、この世界を正面から見据えることは出来ないのだと。
他国と比較して「最強である」と主張しているのではない。
比較を超越した最高、最強の境地に至るべきだと言っているのである。それは単に自分達の行いに自信を持ち、過去の歴史と伝統を誇りに思い、他の誰にも引け目を感じずに、勇往邁進すればよい、と言っているだけである。マゾから脱せよ、と言いたいだけである。
謙虚が高じて自虐に至り、マゾに染まって快感を感じているようでは全てを誤る。全てを失う。マゾを脱却して、サディストどもの餌を無くすのである。餌を無くしたサディストどもは、遂には己の首を差し出すだろう。それが彼等の性癖なのだ。差し出さずとも、「本物のサディスト」どもに、「代わりが無いならオマエでいい」と言われて食われるに違いないのである。そしてその時、彼等は見事に自滅、消滅するのである。