【消えた偉人・物語】徳川光圀
茨城県常陸太田市の西方、地元の人に「お西山(にしやま)」と呼ばれるところに西山荘(せいざんそう)がある。西山荘は、第2代水戸藩主・徳川光圀(1628~1700年)の隠居所である。光圀は元禄4(1691)年から73歳で亡くなるまでの10年間をここで過ごした。
光圀が特にこの地を選んで建てたのは、司馬遷の『史記』に由来しているのだろう。光圀は18歳のときにこれを読み、特に伯夷・叔斉兄弟の道義的行動に感激した。この兄弟の最期の地が首陽山。別名西山(せいざん)とも呼ばれたので、光圀は地名が同じであることを喜び、太田の西山に別荘を建てたというわけである。
国定国語教科書(第4期)に、「西山荘の秋」と題する名文が載せられ、次のように格調高く書き出されている。「三日ほど降続いた秋雨がからりと晴れて、今日は一だんと冷気が加り、かすかな寒さをさえ感じる。雨に洗われた築山のくまざさが、濃い緑の葉に白い筋を見せ、心字の池に枝をさしのべた楓(かえで)は、もう色づき始めている」
西山は秋がことによいとされる。別荘といっても西山荘は茅葺(かやぶ)き屋根の一般農家と変わらぬ質素な佇(たたず)まいである。ここで光圀は『大日本史』の編纂(へんさん)を監督したのである。「何年前のことであったろう、自分が江戸の屋敷で史記を読み、史書の力の偉大なことに感動したのは。それから歴史編纂を思い立ち、初め史局を置いて学者を集めた時の喜び、彰考館を設け、自ら其の額を書いた時の輝かしい希望、それらが今新たな感激となってよみがえって来る」
かつて光圀は不良少年であった。その少年に道徳の尊厳に気づかせてくれたのは、『史記』つまり歴史書であった。このときの感激感動は光圀の一生を貫いた。そして、光圀の精神はその後の水戸藩にも一貫して流れ、編纂に約250年の歳月をかけるという世界に比類なき史書『大日本史』全397巻は、明治39年に完成したのであった。
(皇學館大学准教授 渡邊毅)
国定国語教科書に掲載された「西山荘の秋」