夕刻の備忘録 様のブログより。
コスモスの話をしたいわけではない。
大学の秋入学の話である。
毎度お馴染みのグローバリズムの話である。TPPも然り、この問題も然り、遅れている日本が、世界に追い付き「まともな国」になるために必要な、必須の要件であるとして、騒々しく論じられるグローバリズムの話である。「何分、グローバルな時代ですから」と妙ににやけた顔で語られるあの話である。
先進国に成りたがる国は先進国ではない。
先進国は先進国に「成ろう」とは思わない。
その意味で、「先進国の何たるか」が議論されないのは、「既に先進国であること」の充分な証になる。勿論、あらゆる努力を放棄し、何の興味も関心も無い国民性の国が、こうした対応を取ることは有り得る。しかし、日本はその時期を遙か昔の、ホンの一瞬で乗り越え、その後は心理的に追い詰められることの無い、落ち着いた暮しをしてきた。
未だに先進国云々と騒ぐのは、ここで指摘する「グローバリズムに狂奔する人々」のみである。その浅はかさは、世界に今なお生息する、極々近くに住まいする人々の、異常な熱狂振りを見れば明らかである。何でもかんでも他国と比較し、それが上か下かにしか興味がなく、無意味な争いを自ら起こして「勝った勝った」と騒ぐだけで、本質的な「成長」に何の興味もない。そんな「偉大な反面教師」を近くで見ながら、なお「グローバリズム」を叫ぶのは、国籍的にはどうであれ、遺伝子的にはどうであれ、心理的には明らかに「あちらの人」である。
グローバリズムという言葉に多少なりとも「まともな意味」を見出そうとすれば、それは「世界中が一様同質の無味乾燥な世界を目指すこと」を意味するものではないと分かるだろう。もし、そうならばそれは「世界政府の樹立」であり、世界共通言語の採用、言葉の一元化に他ならない。政治、経済、宗教の多様性の全否定である。
従って、それは極めて制限された範囲の中での「共通項を見出す作業」のはずである。もし、それを越えたレベルで主張する国家があるとすれば、それはまさにその国が自身の規範を他国にまで及ぼそうとする自国優先主義に他ならない。
しかし、現状ではこの異常な主張がその正体だと見て間違いがない。即ち、グローバリズムの訳語としては、「自国優先主義」を当てるのが適当だということである。そこには相手国の事情を勘案する余裕も、やさしさも無い。世界を自分達のルールにより平坦化させ、その中で自分達の利益が最も上がるようにするその工夫が、グローバリズムの名の下に行われる主たる行為である。
★ ★ ★ ★ ★
大学を九月入学にして、我々日本人が、特に大学入学を目指す高校生達が受ける恩典は何か。高校を二年半にするのか、三年半にするのか。中学からそうするのか。小学校入学にまで遡ってそうするのか。そこまで教育システムを変えて、何が得られるというのか。
桜は秋には咲かないのである。「季語」という偉大な文化を捨てることは、我々の文化観の極めて重要な一部を捨てることである。桜が咲く頃に入学し、厳しい冬を乗り越えて、春を待望するその気持ちのままに、新しい旅立ちの日を迎えるのが、日本の文化伝統である。
これにより、青少年が新たに巨大な恩典を受けるというのなら、それは「時代の移り変わり」として認めよう。ところが、実際にはそんなものは皆無なのである。留学する方も、それを受け入れる方も、相手国において半年程度の語学学習期間を設定するのが普通である。他のことはさておき、半年程度は語学学習だけに精進して、相手国の言葉で意思疎通が図れるように、徹底的に訓練する期間が必要なのである。
これで辻褄が合っている。その証拠に、これまでの日本からの留学生が、この半年の遅れをもって現地で不利益を蒙ったという話は聞かない。無理矢理聞かされるのは、日本に留学する外国人が、秋入学を希望し、そのシステムが日本に無いことを批判している、という話ばかりである。しかし、外国からの留学希望者でも半年程度の入学時期のズレは、日本文化に親しむためには好ましいと感じている者も数多くいるのである。
実際、それほど入学時期が大切なら、「世界の標準である」と主張する秋入学の国に行けばよい。「日本は春入学・春卒業だからこそ魅力がある」と感じる学生を主に受け入れればいい。日本文化を学び、日本の学問に接し、日本の学生達と交流をしたいのであれば、「日本流の春入学のシステムこそ、私達が求めるものの一つである」と認識している人達だけを入学させればいい。
世界は一様でも平坦でもないからこそ、それぞれの国にそれぞれの存在の意味がある。何処へ行ってもアメリカ風、何処へ行ってもフランス風では、「世界が存在する意味がない」。中でも我が日本は、他国と異なる特徴を数多く有する非常に存在価値のある国家なのである。その文化的な基盤の一つである教育システムを、馬鹿の一つ覚えである「グロバーリズム」の一言で穢してはならない。TPPに反対するのと同じ意味で、「秋入学制度の本格導入」、また「学内講義の英語化」という天下の愚策に徹底的に反対する。
「高等教育が母語で行われていること」こそ、先進国の証なのである。
何故あって、その証を捨てて後退させたいのか。
日本人が日本で暮らし、日本の学校に通いながら、日本の伝統文化を意図も簡単に破壊するような教師や役所の御蔭で、「日本を感じる機会」を奪われることは、決してあってはならない。「文科省の宗像直子」を引き摺り出す必要があろう。
大学の秋入学の話である。
毎度お馴染みのグローバリズムの話である。TPPも然り、この問題も然り、遅れている日本が、世界に追い付き「まともな国」になるために必要な、必須の要件であるとして、騒々しく論じられるグローバリズムの話である。「何分、グローバルな時代ですから」と妙ににやけた顔で語られるあの話である。
先進国に成りたがる国は先進国ではない。
先進国は先進国に「成ろう」とは思わない。
その意味で、「先進国の何たるか」が議論されないのは、「既に先進国であること」の充分な証になる。勿論、あらゆる努力を放棄し、何の興味も関心も無い国民性の国が、こうした対応を取ることは有り得る。しかし、日本はその時期を遙か昔の、ホンの一瞬で乗り越え、その後は心理的に追い詰められることの無い、落ち着いた暮しをしてきた。
未だに先進国云々と騒ぐのは、ここで指摘する「グローバリズムに狂奔する人々」のみである。その浅はかさは、世界に今なお生息する、極々近くに住まいする人々の、異常な熱狂振りを見れば明らかである。何でもかんでも他国と比較し、それが上か下かにしか興味がなく、無意味な争いを自ら起こして「勝った勝った」と騒ぐだけで、本質的な「成長」に何の興味もない。そんな「偉大な反面教師」を近くで見ながら、なお「グローバリズム」を叫ぶのは、国籍的にはどうであれ、遺伝子的にはどうであれ、心理的には明らかに「あちらの人」である。
グローバリズムという言葉に多少なりとも「まともな意味」を見出そうとすれば、それは「世界中が一様同質の無味乾燥な世界を目指すこと」を意味するものではないと分かるだろう。もし、そうならばそれは「世界政府の樹立」であり、世界共通言語の採用、言葉の一元化に他ならない。政治、経済、宗教の多様性の全否定である。
従って、それは極めて制限された範囲の中での「共通項を見出す作業」のはずである。もし、それを越えたレベルで主張する国家があるとすれば、それはまさにその国が自身の規範を他国にまで及ぼそうとする自国優先主義に他ならない。
しかし、現状ではこの異常な主張がその正体だと見て間違いがない。即ち、グローバリズムの訳語としては、「自国優先主義」を当てるのが適当だということである。そこには相手国の事情を勘案する余裕も、やさしさも無い。世界を自分達のルールにより平坦化させ、その中で自分達の利益が最も上がるようにするその工夫が、グローバリズムの名の下に行われる主たる行為である。
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大学を九月入学にして、我々日本人が、特に大学入学を目指す高校生達が受ける恩典は何か。高校を二年半にするのか、三年半にするのか。中学からそうするのか。小学校入学にまで遡ってそうするのか。そこまで教育システムを変えて、何が得られるというのか。
桜は秋には咲かないのである。「季語」という偉大な文化を捨てることは、我々の文化観の極めて重要な一部を捨てることである。桜が咲く頃に入学し、厳しい冬を乗り越えて、春を待望するその気持ちのままに、新しい旅立ちの日を迎えるのが、日本の文化伝統である。
これにより、青少年が新たに巨大な恩典を受けるというのなら、それは「時代の移り変わり」として認めよう。ところが、実際にはそんなものは皆無なのである。留学する方も、それを受け入れる方も、相手国において半年程度の語学学習期間を設定するのが普通である。他のことはさておき、半年程度は語学学習だけに精進して、相手国の言葉で意思疎通が図れるように、徹底的に訓練する期間が必要なのである。
これで辻褄が合っている。その証拠に、これまでの日本からの留学生が、この半年の遅れをもって現地で不利益を蒙ったという話は聞かない。無理矢理聞かされるのは、日本に留学する外国人が、秋入学を希望し、そのシステムが日本に無いことを批判している、という話ばかりである。しかし、外国からの留学希望者でも半年程度の入学時期のズレは、日本文化に親しむためには好ましいと感じている者も数多くいるのである。
実際、それほど入学時期が大切なら、「世界の標準である」と主張する秋入学の国に行けばよい。「日本は春入学・春卒業だからこそ魅力がある」と感じる学生を主に受け入れればいい。日本文化を学び、日本の学問に接し、日本の学生達と交流をしたいのであれば、「日本流の春入学のシステムこそ、私達が求めるものの一つである」と認識している人達だけを入学させればいい。
世界は一様でも平坦でもないからこそ、それぞれの国にそれぞれの存在の意味がある。何処へ行ってもアメリカ風、何処へ行ってもフランス風では、「世界が存在する意味がない」。中でも我が日本は、他国と異なる特徴を数多く有する非常に存在価値のある国家なのである。その文化的な基盤の一つである教育システムを、馬鹿の一つ覚えである「グロバーリズム」の一言で穢してはならない。TPPに反対するのと同じ意味で、「秋入学制度の本格導入」、また「学内講義の英語化」という天下の愚策に徹底的に反対する。
「高等教育が母語で行われていること」こそ、先進国の証なのである。
何故あって、その証を捨てて後退させたいのか。
日本人が日本で暮らし、日本の学校に通いながら、日本の伝統文化を意図も簡単に破壊するような教師や役所の御蔭で、「日本を感じる機会」を奪われることは、決してあってはならない。「文科省の宗像直子」を引き摺り出す必要があろう。