【記紀万葉の風景】師木の水垣宮(上)
再び三諸(みもろ)山、つまり三輪山に戻ってきました。古代の初期王権は、三輪山のあたりで成立したと考えられます。そのため、「三輪王朝」とよばれることもあります。
崇神天皇が実在した可能性があると、言われてきました。「古事記」には「所知初国之御真木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)」というとも書いてありますので、その意味は初めて国を治めた天皇ということです。神武天皇から欠史八代までは伝承的な書きぶりですが、崇神天皇からは、史実性を帯びるような印象はたしかに感じ取れます。
しかし、簡単に崇神天皇について書かれた内容を事実として信用するわけにはいきません。さらに、崇神天皇の時代についての絶対年代もわかりません。そのことを念頭におきながら、古事記の崇神天皇段を追ってみたいと思います。
宮の名前は古事記には「師木の水垣(みずかき)宮」とありますが、「日本書紀」は「磯城の瑞籬(みずかき)宮」と、用いられている漢字が異なります。いずれにしても「ミズカキノミヤ」という名は共通しますが、その所在地はどこかというと、全く見当がつきません。桜井市金屋の志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社あたりとする説が唱えられていますが、具体的な証拠がありません。
古事記によって崇神天皇の時代のことをみていくことにしましょう。この時代に疫病が流行して、多くの人が亡くなりました。憂えて、神意をうかがおうとしたところ、オオモノヌシ(大物主)の神が夢にあらわれて「オオタタネコ(意富多多泥古)なる者をして自分を祭らせば、たたりがなく、国は平穏になる」と御告げがありました。そこでオオタタネコを各地に探したところ、河内の美努(みぬ)村にいることがわかりました。美努村は、今日の大阪府八尾市の御野県主(みのあがたぬし)神社のあたりではないかと言われています。
天皇は「おまえは誰(だれ)の子か」とたずねると、「オオモノヌシの神が、スエツミミノミコト(陶津耳命)の娘であるイクタマヨリヒメ(活玉依毘売)を娶(めと)って生まれた子である」と名乗りました。天皇はたいそう喜んで、「天下が穏やかとなり、人々は栄える」と言って、オオタタネコを神主としてオオモノヌシの神を祭ることにしました。
三輪山の麓(ふもと)に初期の王権が成立したらしいことは、想定できるのですが、考古学的にそれを実証するのはむずかしい問題なのです。神の山に対して祭祀(さいし)したということをうかがわせる遺物が出土しても、それはあくまでも祭祀であって、政治的な権力を実証することはできません。
寺沢薫さんによれば、考古学の遺物によって、三輪山祭祀は4世紀中頃までさかのぼれるということです。祭祀と王権が関係あるとすれば、少なくとも4世紀中頃以前に、政治的な支配者がいなかったとみてもよいのではないでしょうか。
オオタタネコについては、古事記では、八尾市あたりの人物と記しましたが、日本書紀では、今日の堺市の泉北ニュータウンの造成に際して発掘調査された陶邑(すえむら)の人物と書かれています。古事記の場合も母方の祖母の名前に「陶」という文字が入っています。陶邑と三輪山信仰のつながりがあったことを示唆しています。
陶邑で焼かれた須恵器が三輪山の祭祀に用いられるのは5世紀の中頃だとされ、記紀にいうオオタタネコの登場はその頃のことが書かれたのでしょう。三輪山の祭祀と河内の勢力とのつながりが強くなってきたことを思わせます。
(奈良県立図書情報館長・帝塚山大特別客員教授千田稔)
師木の水垣宮があった可能性もある三輪山麓=奈良県桜井市