海自艦艇が初めて北方領土海域を航行した日。
平成22(2010)年11月1日、ロシア・メドベージェフ大統領が北方四島の1つ、国後(くなしり)島を訪問して以来、ロシア閣僚の北方領土視察が相次いでいる。本年2月にも、セルジュコフ国防相が択捉(えとろふ)島、国後島を視察している。
一方、我が国は、4島一括返還、2島先行返還などと国内向けの建前の論議を繰り返し、大臣が代わるたびに訪れる根室半島の納沙布(のさっぷ)岬から、北方領土を遠望し、「認識を新たにした」と言っているだけである。
戦後、65年以上にわたって、北方領土返還に向け採ってきた施策に事実上何ら成果がなかった。既成事実が積み重ねられてきただけである。領土問題は、我が国の主権に関わる最も基本的事項である。
このような状況に憂いを感じながら、海上自衛隊艦艇が、北方領土に面した根室海峡を、初めて航行した日のことを思い出した。
平成9(1997)年5月18日、大湊地方隊所属の輸送艦「ねむろ」が、戦後52年を経て、海自創設から45年、初めて我が国の領海でありながら航行していなかった海域を航行したのである。
この時、私は大湊地方総監部から陸上自衛隊の北部方面総監部(札幌)へ派遣された海上連絡官の配置にあった。今から14年も前のことであるが、記憶を辿りながら、海自艦艇が当該海域を航行した時の状況と航行に至った経緯を振り返るとともに、その意義などについても触れてみたい。
歯舞漁業組合員の嘆き
根室には根室半島の太平洋に面した花咲港と根室海峡に面した根室港の2つの港がある。海自艦艇の花咲港への入港実績は何回かあるが、根室港への入港は、それまではなかった。
根室港へ入港するには、太平洋からは、納沙布岬沖にある珸瑶瑁(ごようまい)水道を通峡するか、オホーツク海からは、知床半島を廻り、根室海峡経由で入港するかの2つのルートがある。
珸瑶瑁水道は、納沙布岬とその沖3.7キロにある貝殻島の間にある狭い水道である。貝殻島は、歯舞(はぼまい)諸島の1つで、現在ロシアが実効支配している北方領土の中で最も日本に近い島である。
前年の平成8(1996)年10月26日、函館基地隊所属の第17掃海隊(「ははじま」および「かみしま」)が同水道を通峡し、根室港に入港している。海自艦艇としての珸瑶瑁水道初航行である。
なお、この航海の目的は、根室港の港湾調査であり、訓練検閲の一環として実施されたためF函館基地隊司令も、検閲官として乗艇している。この時、第17掃海隊は、復路も同水道を通峡し、函館に帰投している。
珸瑶瑁とは、アイヌ語で“風がなくても常に白波がある”という意味である。つまり、この水道には、干出岩が多く、また可航域が狭いため、厳しく緊張した航海であったという(当時の第17掃海隊司令談)。
平成9年5月16日、「ねむろ」は、同じく珸瑶瑁水道を通峡し、根室港に入港した。艦名の由来の地に、初入港したのである。
大湊地方総監も来道し、根室市、根室商工会議所主催の「ねむろ」根室入港歓迎会が行われた。盛大な歓迎会で、当時の根室市長自ら、2次会、3次会と案内するほどであった。
道東の港への入港手続き、曳船の手配、地元への説明などは、海上連絡官である私の役割である。私も歓迎会に参加した。
その時、地元の参加者、歯舞漁業組合員の方であったが、その方の言葉が、今も記憶に残っている。
「昨年、ちゃっこい(小さい)灰色の船(掃海艇)2隻が軍艦旗を掲げて沖合を走っているのを見て、本当に頼もしく、心強かった。今年も「ねむろ」が来てくれて、嬉しい。なぜ、今まで海上自衛隊の船が来てくれなかったのか。我々が命がけで、この海で昆布や魚を獲っている実態を分かってほしい」と涙ぐんでいた。
その方は戦前、歯舞諸島の1つ、志発(しぼつ)島(とう)に住んでいたが、戦後、強制的に島を追われたとのことであった。
歯舞諸島は、北方四島の一番南に位置し、いくつかの小さな島からなる群島である。歯舞漁業組合の事務所は、根室半島・納沙布岬の近くの歯舞(歯舞諸島の歯舞と同じ地名、この辺りの地名は、ほとんどアイヌ語に由来している)にあるが、組合員の中には戦前、歯舞諸島で漁業に従事していた人たちも含まれている。
その人たちの所有していた土地は、今もそれらの島に登記されたままである。
根室海峡航行
「ねむろ」艦長は、私の幹部候補生学校の同期生であった。私は、艦長に便乗を依頼し、快諾を得た。当該海域の航行は、私の海上自衛隊入隊動機にも関わる永年の懸案であった。
「ねむろ」の航海計画上の航路は、根室港から北上し、野付(のつけ)水道、根室海峡を通峡、知床半島を左に見ながら周回し、網走へ向かう航路である。
全航程133海里、当日の当該海域における日没時刻は18時38分であり、日没前に知床半島をかわしてオホーツク海に入る予定である。
5月18日8時55分日曜の朝であったが、大勢の根室市民の見送りを受けて、根室港の岸壁を離れた。航法上、最も警戒を要する水域は野付崎と国後島のケラムイ崎を結ぶ野付水道である。
陸地間は約9海里あるが、可航幅は狭く、暗礁も多い。最も狭い可航域での水深は、海図上で6.3メートルである。しかも、海図には、印刷は大正年間、海軍水路部作製とある。補正が加えられるとはいえ、心配である。幸い視界は良く、国後島をはっきり視認できた。
野付水道通狭30分前、早めに航海保安の部署についた。水深の読みが刻々と艦橋に上がってくる。水深が10メートルを切った時は、さすがに、船乗りとの評価の高いベテランの艦長も、やや緊張した面持ちであった。
確か、最も浅い水深として7.8メートルまで数えた後、報告される数値が上がり、最浅部を渡ったことを確信し、安堵したのを覚えている。
私は、この時、思ったのは、もし地殻が6.3メートル隆起すれば、北海道と国後島は陸続きになり、国後島は島ではなく北海道の一部となる、ということである。同時に護衛艦は、やはり航行できないと、確認できた。
もちろん、根室海峡航行に際し、最大の懸念はロシア(旧ソ連)側の対応である。現在、日本もロシアも領海は12海里である。
仮に北方四島がロシアの国土とすると、北方四島と北海道の間の距離が24海里未満の箇所は、両国の中間線が国境となる。根室海峡は、両国の距離は24海里以内である。
我が国は、北方四島の主権を主張しているため公式には中間線を認めていない。しかし実態として中間のラインは存在し、ロシアはこの中間のラインを日本漁船の捕獲ラインとして支配している。
北海道は、中間のラインの内側に漁業規制ラインを引き、規制ラインよりロシア側への漁船の立ち入りを自主規制している。したがって、この規制ラインを越えると道の条例で罰せられるし、それよりも何よりもロシアの警備艇に拿捕(だほ)される。
危害が加えられ、抑留後は法外な保釈金が待っている。「ねむろ」は、中間のラインの内側約2~5海里に航路を設定していた。
11時30分頃、水上レーダーに国後方面から近接する映像を捉えた。間もなくその方向に船影を視認した。ソ連国境警備隊(現ロシア国境警備局)所属のスベトリャク級警備艇「104」号である。一瞬緊張が走った。
目標を識別したのは、艦の見張りではなく、「ねむろ」に便乗していた陸上自衛官である。彼は、監視を主任務とする知床半島・羅臼(らうす)の部隊に所属していた。彼は、「私は長いこと羅臼で北方四島を監視していましたが、こんなに近くで国後を見たのは、初めてです」と感慨深げに語っていた。
警備艇は、中間のライン付近を反航状態で近接した後、反転、国後方面へ離れた。最近接距離は6海里であった。
のちに、警備艇の運動について、海上保安庁に聞いたところ、警備艇の通常の監視行動であり、特別な対応ではない、とのことであった。14時30分、警備艇がレーダーの映像から消えた。
「ねむろ」は知床岬をかわし、オホーツク海へ入り、網走へ向け、通常の航行態勢へ移行した。私は、満ち足りた気持ちで知床連山の景色を眺めることができた。海自艦艇として、唯一我が国の領海でありながら航行していなかった海域を航行した1日が終わった。
ちなみに、この日、海上保安庁は洋上において、陸上自衛隊は沿岸において、不測の事態の備え、警戒体制を敷いていた。海保は3隻の巡視船を根室海峡の3箇所に配置していた。陸自は、拠点での監視と併せ、沿岸伝いを車輌で移動しながら監視していた。
珸瑶瑁水道、根室海峡航行に至った経緯
北方四島と北海道の中間のラインが、実質的にロシアとの国境ということで、この線を越えてロシア側で操業すると、ロシアの警備艇に拿捕される。戦後、ソ連時代も含め、ロシアの警備艇に拿捕された漁船は1330隻以上、乗組員は1万人近くいる。
銃撃により、命を落とした者も30人以上いる。しかも、船は返還されず、漁民の解放に際しては莫大な保釈金を要求される。これに対し、巡視船は、漁船に警告する、漁船と警備艇の間に割り込み、その間に漁船を逃がす程度の対応しかできない。
北海道で育った私には、幼い頃から拿捕のニュースは頻繁に聞いており、父の友人も抑留されたことから、他人事ではなかった。海上自衛隊は何をしているのだろうと素朴な疑問を持っていた。
平成6(1994)年8月、私は、念願が叶い、余市防備隊司令の職を得た。隷下の戦力は、魚雷艇1隻と50トン型ミサイル艇2隻である。平成7年度の地方隊指揮官会議で、ミサイル艇での北海道周航を願い出た。
周航の目的は、災害派遣などに備え、海域航行の実績を積むことであったが、本音は根室海峡、珸瑶瑁水道を通峡して道東方面での海自艦艇のプレゼンスを示すことにあった。
この時は、「時期尚早」とのことで承認が得られなかった。しかし、この会議に参加していたF函館基地隊司令が、この話を覚えてくれていた。
平成8(1996)年10月、私は既に余市防備隊司令の職を離れていたが、F函館基地隊司令が、大湊地方総監の承認を得て、先に述べた第17掃海隊の珸瑶瑁水道初航行が実現したのだ。
私のような一現場指揮官から提言されるまでもなく、本案件は、既に海上幕僚監部、大湊地方総監部も検討していたとは思われるが、後にF司令から、「お前のアイデアを俺が買った」と言われた時は嬉しかった。
この時期、海自艦艇が同海域を航行できる幾つかの環境条件が醸成されていた。1つは、東西冷戦が終わり、ソ連の経済的困窮からか、国境警備の態勢も緩和されていた。