「総火演」を陰で支えた被災地の弾薬メーカー。
8月28日、東富士演習場(静岡県御殿場市)で陸上自衛隊の富士総合火力演習が一般公開された。
この演習は、私に夏の終わりを告げてくれる。未曽有の大震災、そして民主党代表選・・・、この1年間を振り返りながら、この先、日本がどんな状況に置かれているのかは予測困難だとつくづく感じてしまう。
演習の花形と言っていい90式戦車には大きな120ミリ滑空砲があり、自ずと目が行くが、私はその後ろに控える12.7ミリ重機関銃をまじまじと見つめてしまった。
陰で大演習を支える関連企業
この重機関銃に注目したのにはワケがある。
銃砲弾メーカー、日本工機(東京港区)の白河製造所(福島県西白河郡)は3月11日に被災し、大きな被害を受けた。とりわけダメージを受けたのが、この12.7ミリ銃弾製造ラインだったのだ。
その話を聞いていたので、普段はあまり意識したことのなかった重機関銃が普通に使えることが改めてありがたく思えた。
総合火力演習では、関連企業の人々も「何かあった時」のために1~2週間は現地に泊まり込んでいると聞いたことがある。決して表舞台には出てこないが、こうした周囲の支えあればこその大演習なのだ。
今回の火力演習は、東日本大震災の痛手を負いながらもわが国の抑止力は健在ということを内外に知らせる意義は大きかったと思う。
そして、この「火力」を支えるのは、戦車や大砲のメーカーだけではない。弾薬メーカーも欠かせない存在である。
前述の日本工機も、その1つだ。12.7ミリ、20ミリ、25ミリ、35ミリといった各種機関銃砲弾などを製造し、金属加工から火薬の製造、填薬、火工品組み立てまでを自社で担っている。
弾火薬製造工場が最も恐れるのは「出火」
3月11日、その工場を大地震が襲った。尋常ではない揺れに、工場の2割を占める女性たちから悲鳴が上がった。発射薬を袋に入れてミシンで縫う作業は、高いスキルを持った女性たちが担っているのだ。
普段の訓練どおりに定められた場所に移動したが、女性たちは度重なる強い余震に震えが止まらない様子だったという。しかし、そんな中でも従業員たちは、常日頃、頭に叩き込んでいた緊急時の行動を冷静に取った。工場内には、爆薬が化学反応を起こしている時の緊急停止マニュアルが張ってある。この手順をいつも目にしていたため、あわてることなく対応できたという。
今回の震災を受けて苦労したのは、法に合致した従来の姿に速やかに戻す必要があったことだ。
弾火薬製造工場にとって「最も怖いのは火が出ること」である。出火という最悪の事態が発生しないよう、平素から火薬類取締法や武器等製造法などにより厳しい規制を受けている。
工場はゴルフ場が3つくらい入る敷地に、全長10キロにわたって有刺鉄線が張り巡らされている。保安距離は極めて厳密だ。しかし、近くに来る者を拒むことはできないので、隣にゴルフ場ができそうになった時は、この土地を買ってしまったという。
部屋の中のテーブルを動かすだけでも許可が必要だ。爆薬を作る場所は土手をつくって囲まなければならない。蛍光灯もコンセントもイスも特殊な防爆仕様で、1つあたり10万円くらいはかかっているという。安全管理上とはいえ、企業負担が非常に大きい分野なのだ。
次から次へと立ちはだかる障害
現状復帰は、ほとんど従業員の手によってなされた。同社は、1998年に福島県を襲った豪雨災害でも、甚大な被害を受けている。その経験から、災害時は他者に頼ることなく自分たちの手で復旧作業に当たれるよう重機の免許を取るなど、「自立型」を意識していた。
地割れで車が進めない、道に電柱が倒れている、製品は落下している、という状況であったが、猛スピードで復旧を進め、震災直後の見通しよりもかなり早い時期に出荷が可能となった。
ところが、好事魔多し。大地震から4カ月経った7月30日、今度は豪雨に見舞われることになる。さらには、収まることのない余震。次から次へと障害が立ちはだかり、電力も規制される中で、従業員は何度も復旧作業に取りかからなくてはならなかった。
逆境にくじけず、従業員が1日も早い復旧へ向けて黙々と作業を行えたのは、「自衛隊の訓練に支障をきたしてはならない」「国の防衛に影響してはいけない」という思いが大きかったからである。
「商売なんだから当然」と言われるかもしれない。だが、これが外国メーカーだったらおそらくそんなに必死になってはくれないだろう。
2010年度は震災によって残念ながら納期遅延が発生し、ペナルティーこそなかったものの大幅な売り上げ減少となった。しかし、「被災したんだからしょうがない」という言い訳は一切聞かれない。
防衛関連企業に限ったことではないが、わが国の産業は、やはり日本人気質に救われている部分が多いのだということを実感させられる。