【道奥(みちのく)記】
歴史をあるく。カッパ淵(岩手県遠野市)
■どこかに生活の実感を宿す数々の伝承
《山奥には珍しき繁華の地なり》
民俗学者の柳田国男は、明治43(1910)年6月に刊行した『遠野物語』の第1話に、そう書き記した。ご承知の通り、土地の伝承を聞き書きした説話集で、のちに日本における民俗学の幕開けを告げる文献と位置づけられることになった。多くの観光客がそうしているように、本を片手に岩手県遠野市を歩いてみることにする。
柳田は、地勢についての話から本文を書き進め、第2話に「七七十里(しちしちじゅうり)」という言葉を記録している。周辺の7つの渓谷の、それぞれ70里の奥から人馬が市(いち)に集まった、と。1里を単純に約4キロで計算すると青森から福島あたりまで入っちゃうから、これは比喩なんだろうけれど、かなり遠くから日常的に人が訪れていたらしい。
この地に立った誰もが気づくとおり、深い山に囲まれている。約100年前からにぎやかな場所だったというのは不思議な感じがするかもしれない。だけど地図をながめれば、遠野が“特別な場所”に立地していることがすぐわかる。三陸沿岸の宮古、釜石、大船渡、陸前高田の各市から線を延ばしてみると、遠野市はちょうど扇の要にあたる。交通の要衝なのだ。
馬車が自動車になっても、地理が変わるわけじゃない。沿岸部の交通網を寸断した東日本大震災の発生後、資材の輸送や人員の派遣などさまざまな面で遠野が支援の拠点になったことは、歴史と地勢を考えれば必然だった。
◇
遠野物語を印象づけるのは、さまざまな怪異譚(たん)だ。当時の人たちが、どこまで信じていたのかわからないけど、世相や風俗の話と、土俗の神々や幽霊の話が当たり前のように同居している。たとえば第55話の書き出しはこう。
《川には川童(かっぱ)多く住めり。猿ケ石川ことに多し》
魚がじゃんじゃん捕れるみたいにカッパを語る。59話まで続いていて、カッパの子を産んだ女の話、捕まえたカッパをにがしてやる話、よそのカッパの顔は青いが遠野のカッパは赤いという話…。
生息地(?)とされる猿ケ石川の支流に、「カッパ淵(ぶち)」と呼ばれる場所がある。遠野の市街地から北東に国道340号を3、4キロ走った、田園地帯の真ん中。室町時代の創建と伝わる「常堅寺(じょうけんじ)」というお寺のそばだという。
訪ねてみると、寺の境内には「カッパ狛犬(こまいぬ)」なるものが鎮座していた。狛犬の頭が皿のようにくぼんでいる。奇怪というよりは愉快。ニヤニヤしつつ寺の裏へ回ると、小川に橋が架かっていた。ちょっとした葉陰とせせらぎの音が心地よい。誰がぶらさげたのか、竹竿(たけざお)の先にカッパの好物、キュウリが揺れていた。
現代人には「のどかだなぁ…」と映る風景。だけど、山深き北国で、人々が厳しい自然と一体となって生きた時代に、説話を笑い飛ばす人は少なかったはずだ。数々の伝承は、どこかに生活の実感を宿している。物語を形成する知恵や想像力、背景を支える信仰や土地柄について考えさせてくれる。だからこそ、遠野物語は「民俗学の嚆矢(こうし)」として、参照され続ける。
◇
初訪問まで、私にとってこの地は「遠野物語の遠野」だった。だから無意識にそういうイメージを追いかけていた。手入れされたみずみずしい田畑が連なる風景は、柳田が《土肥(こ)えてよく拓(ひら)けたり》と記した面影をとどめている。とはいうものの、バイパス沿いに大規模チェーン店が立ち並んでいる現代の遠野に、カッパの居場所はない。
取材で遠野駅からカッパ淵に向かって車を走らせているとき、目に入ったのが遠く稜線(りょうせん)に並ぶ巨大風車の群れだ。聞けば、遠野市と釜石市、大槌町にまたがる丘陵地にある「ウィンドファーム」という施設で、風車43基が約4万2900キロワットの電気を生んでいる。ざっと3万世帯分の電気をまかなえるという。
運営会社の担当者によると、「年間を通じて風が吹くなど、諸条件を満たしている」のが当地を選んだ理由という。平成16年に完成し、東北電力に電気を販売しているそうだ。
国道283号沿いにある道の駅「遠野風の丘」も、風力発電設備をそなえている。自然とともに生きるための巨大な翼が、遠野の新しいシンボルだ。平成版の遠野物語があるとしたから、こんな書き出しはどうだろう。
珍しき風翼の地なり。(篠原知存)
カッパが多く住んでいたといわれるカッパ淵 =岩手県遠野市
独占スクープ!!野田佳彦、闇の悪行!!