「夕刻の備忘録」 様のブログより。
既に「お台場革命」なる名称が与えられているようであるが、一昨日のデモはまさに大成功というに相応しい盛り上がりを見せた。およその参加人数すら把握しきれていないことが、逆にその多さを物語っている。お台場デモの大成功を祝う!
主催者発表、警察発表、参加者の体感人数など様々な尺度があって、梯団数以上の詳しいことは分からない様子である。その数を少なく見積もりたい連中は、数百人規模だといい、同じデモを台湾のマスコミは八千人と伝えている。
様々な情報を合わせると、遂に「万のオーダー」に届いたであろうことは容易に想像出来る。さて、問題はこうした実人数ではない。デモの参加者数ではなく、お台場周辺の「デモ観覧者数」こそが最大の問題なのである。
近くで見ている人に、何のデモか上手く伝わらず歯がゆい思いをされている方も、かなりの数おられるようであるが、全く心配は無用である。伝わらなかったことが、逆に「最大の効果」を齎すのである。全てはマスコミの御蔭、彼等がこのデモを報じない御蔭である。
当日、お台場に遊びに行った人達は、如何なる疑問を持つか。
「大きなデモがあったなあ、あれは何のデモだったのか」と疑問を抱き、先ずはニュースを見る。何処も何も報じていない。一夜明けて新聞を読む、何処にもそうした記事が出ていない。まるで夢でも見ているかの如く、「あれは一体何だったのか?」「何故あれだけの規模の人の集まりをマスコミは報じないのか?」。次から次へと疑問が湧いてくるのである。
その総数はおそらく十万人近くに達するものと思われる。ゆりかもめの車内からも明らかに見える大規模デモに関して、我が国のマスコミは全く何も報じないのである。ところが、ネットを少しでも見る習慣のある人は、そこで初めて真相を知る。
そして、これまで漠然と聞かされていた「マスコミ不信」「偏向報道」を、まさに自分の目と耳で確認するのである。自分自身が「動かざる証拠」となるのである。
この人数が問題である。一万人の規模で、十万人のマスコミ不信者を作り出せたとしたら、これほどの成功は無いだろう。フジテレビ云々というよりも、一人でも多くの人が今のマスコミに対して疑問を持つことが重要なのである。
そして、実数十万人規模のデモが企画出来たら、いよいよ全ての国民が「何故あれを報道しないのか?」という疑問を持つようになるだろう。駅を占拠し道路を封鎖し、人の波が日本中に木霊する。それでも彼等は報じない。その時、まさにその御蔭で我々は勝利するのである。
唯の一社も抜け駆けをせず、横並びに無視を決め込んだのは、全てのマスコミが後ろめたいからである。「潔白な会社」が唯の一社も存在しないからである。もし仮に存在したら、これほど価値のあるニュースは無いのであるから、筆頭で取り上げる筈なのである。それが無い、そのことがフジ一社ではない、全マスコミの汚染振りを見事に証明している。彼等に自浄能力が無いことを明確に示しているのである。
自らを律し、自らに最も厳しく出来ない者に、他者を批判する権利は無い。「報道しない自由」を行使したことで、彼等は「報道の自由」をも失ったのである。言論の持つ社会的義務を果たさぬ者に、「言論の自由」は無い。
★ ★ ★ ★ ★
長く我々はマスコミの「報道しない自由」に翻弄されてきた。
しかし、ここに来て遂にその戦略が破綻した。
報道しなければしない程、真実が明らかになるのである。
マスコミが起こした事件に対して、我々が行動を起こせば、彼等は「報道しない自由」、その権利を行使する。そして、それが彼等を破滅に導く。自らの矛盾をさらけ出すのである。
ここにマスコミ最大の弱点がある。
スポンサー不買運動と共に、マスコミの犯した諸問題を徹底的に洗い出し、それを追求し、デモを仕掛けて観覧者達に不信感を伝播させればいい。デモに参加して貰う必要も無い。不信感を共有して貰えば、それを拡散して頂ければそれでいいのである。
「抗議文受取問題」を見ても分かるように、彼等は対抗策を全く持たない。その不遜な態度が何処までも通用すると甘く見て、上から見下ろす態度を変えようとしない。
それが有難いのである。
それが次の火種になるのである。
そのことに彼等は全く気づいていない。
そして、もし気づいても、もはや戻れない場所にいる。
インターネットの黎明期から言われている格言がある。「ネットを利用する側と、しない側なら、100%利用する側に賭けるべきである」と。ネット側が負けることなど、有り得ないのだ。
ネット通販に、ネット講義、そして選挙へと歩は進められている。経済も教育も政治も、如何にネットを活用するかが勝負になっている。そして、本来なら最もネットに近いはずの報道が、これを敵視し、自らの既得権益の中に逃げ込んで、旧来の大衆操作に没頭しているのである。「原子力村の閉鎖体質が云々」などと他人を批判する権利など彼等には無い。「電波村の住人」こそ、今最も閉鎖的で利権絡みの薄汚れた亡者達ではないか。
我々は放射線を恐れない、「電波」を恐れる。何故なら、福島では自らの命を捨ててまで、その抑止に懸命に働く人々がいる。「電波村」にそんな英雄はいない。歪んだ電波を垂れ流しに流して、むしろ意気揚々としている狂人達を恐れるのである。国家を貶めて平然としている輩は、自らの足場をハンマーで打ち砕いて喜んでいる高所作業者である。それはまさに狂人のみが為し得る自殺行為である。一刻も早くその場所から引き摺り降ろす以外に、他に方法は無い。
主催者発表、警察発表、参加者の体感人数など様々な尺度があって、梯団数以上の詳しいことは分からない様子である。その数を少なく見積もりたい連中は、数百人規模だといい、同じデモを台湾のマスコミは八千人と伝えている。
様々な情報を合わせると、遂に「万のオーダー」に届いたであろうことは容易に想像出来る。さて、問題はこうした実人数ではない。デモの参加者数ではなく、お台場周辺の「デモ観覧者数」こそが最大の問題なのである。
近くで見ている人に、何のデモか上手く伝わらず歯がゆい思いをされている方も、かなりの数おられるようであるが、全く心配は無用である。伝わらなかったことが、逆に「最大の効果」を齎すのである。全てはマスコミの御蔭、彼等がこのデモを報じない御蔭である。
当日、お台場に遊びに行った人達は、如何なる疑問を持つか。
「大きなデモがあったなあ、あれは何のデモだったのか」と疑問を抱き、先ずはニュースを見る。何処も何も報じていない。一夜明けて新聞を読む、何処にもそうした記事が出ていない。まるで夢でも見ているかの如く、「あれは一体何だったのか?」「何故あれだけの規模の人の集まりをマスコミは報じないのか?」。次から次へと疑問が湧いてくるのである。
その総数はおそらく十万人近くに達するものと思われる。ゆりかもめの車内からも明らかに見える大規模デモに関して、我が国のマスコミは全く何も報じないのである。ところが、ネットを少しでも見る習慣のある人は、そこで初めて真相を知る。
そして、これまで漠然と聞かされていた「マスコミ不信」「偏向報道」を、まさに自分の目と耳で確認するのである。自分自身が「動かざる証拠」となるのである。
この人数が問題である。一万人の規模で、十万人のマスコミ不信者を作り出せたとしたら、これほどの成功は無いだろう。フジテレビ云々というよりも、一人でも多くの人が今のマスコミに対して疑問を持つことが重要なのである。
そして、実数十万人規模のデモが企画出来たら、いよいよ全ての国民が「何故あれを報道しないのか?」という疑問を持つようになるだろう。駅を占拠し道路を封鎖し、人の波が日本中に木霊する。それでも彼等は報じない。その時、まさにその御蔭で我々は勝利するのである。
唯の一社も抜け駆けをせず、横並びに無視を決め込んだのは、全てのマスコミが後ろめたいからである。「潔白な会社」が唯の一社も存在しないからである。もし仮に存在したら、これほど価値のあるニュースは無いのであるから、筆頭で取り上げる筈なのである。それが無い、そのことがフジ一社ではない、全マスコミの汚染振りを見事に証明している。彼等に自浄能力が無いことを明確に示しているのである。
自らを律し、自らに最も厳しく出来ない者に、他者を批判する権利は無い。「報道しない自由」を行使したことで、彼等は「報道の自由」をも失ったのである。言論の持つ社会的義務を果たさぬ者に、「言論の自由」は無い。
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長く我々はマスコミの「報道しない自由」に翻弄されてきた。
しかし、ここに来て遂にその戦略が破綻した。
報道しなければしない程、真実が明らかになるのである。
マスコミが起こした事件に対して、我々が行動を起こせば、彼等は「報道しない自由」、その権利を行使する。そして、それが彼等を破滅に導く。自らの矛盾をさらけ出すのである。
ここにマスコミ最大の弱点がある。
スポンサー不買運動と共に、マスコミの犯した諸問題を徹底的に洗い出し、それを追求し、デモを仕掛けて観覧者達に不信感を伝播させればいい。デモに参加して貰う必要も無い。不信感を共有して貰えば、それを拡散して頂ければそれでいいのである。
「抗議文受取問題」を見ても分かるように、彼等は対抗策を全く持たない。その不遜な態度が何処までも通用すると甘く見て、上から見下ろす態度を変えようとしない。
それが有難いのである。
それが次の火種になるのである。
そのことに彼等は全く気づいていない。
そして、もし気づいても、もはや戻れない場所にいる。
インターネットの黎明期から言われている格言がある。「ネットを利用する側と、しない側なら、100%利用する側に賭けるべきである」と。ネット側が負けることなど、有り得ないのだ。
ネット通販に、ネット講義、そして選挙へと歩は進められている。経済も教育も政治も、如何にネットを活用するかが勝負になっている。そして、本来なら最もネットに近いはずの報道が、これを敵視し、自らの既得権益の中に逃げ込んで、旧来の大衆操作に没頭しているのである。「原子力村の閉鎖体質が云々」などと他人を批判する権利など彼等には無い。「電波村の住人」こそ、今最も閉鎖的で利権絡みの薄汚れた亡者達ではないか。
我々は放射線を恐れない、「電波」を恐れる。何故なら、福島では自らの命を捨ててまで、その抑止に懸命に働く人々がいる。「電波村」にそんな英雄はいない。歪んだ電波を垂れ流しに流して、むしろ意気揚々としている狂人達を恐れるのである。国家を貶めて平然としている輩は、自らの足場をハンマーで打ち砕いて喜んでいる高所作業者である。それはまさに狂人のみが為し得る自殺行為である。一刻も早くその場所から引き摺り降ろす以外に、他に方法は無い。