真珠湾攻撃はチャーチルを喜ばせたか。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【野口裕之の安全保障読本】(53)

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110807/plc11080719120006-n1.htm




布哇(ハワイ)海戦、いわゆる真珠湾攻撃から、今年で70年が経(た)つ。その記念年の1月、チュラポワスキ氏が亡くなった。氏は、ハワイの米海軍基地に勤務していた昭和16年12月8日未明、大日本帝國(こく)海軍に攻撃された。その際、氏が、米太平洋艦隊の全艦艇に打った電文はあまりに有名だ。

 「これは演習ではない。真珠湾が攻撃を受けている」

 この戦(いくさ)は、後世に残る電文が多い。例えば12月2日、大本営よりハワイに進撃中の帝國海軍空母機動艦隊に対し暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発信された。「ニイタカヤマ」は台湾の山の名。「一二〇八」とは「12月8日午前零(れい)時」の攻撃開始を命ずる符丁であった。さらに、12月8日午前3時19分、攻撃部隊総指揮官が各機に「全軍突撃」の「ト・ト・ト…」の「ト連送」を下達。4分後には旗艦・空母赤城に、映画の題名にもなった「ワレ奇襲ニ成功セリ」の符丁「トラ・トラ・トラ」を打電している。

 ところで「歴史にイフ(if)はない」と、人は言う。だが、安全保障分野では、過去を分析する過程で「イフ」が使われることがある。例えば「帝國海軍が真珠湾攻撃を敢行しなかったら…」その後の日本はどうなっていたであろうか。これなど、日米の専門家が問い続けてきた「イフ」だ。

異論もあるが、真珠湾攻撃は、米英などによる石油やくず鉄・ゴム・スズの対日禁輸措置「ABCD包囲網」により、日本国自体が滅亡の危機に陥ったことに起因する、ともいわれる。即(すなわ)ち、乾坤一擲(けんこんいってき)、米太平洋艦隊主力を激減させ、資源確保に向けたその後の蘭印(現インドネシア)進出を有利に導こうとする戦略を、帝國は描いた。

 これに対し一部専門家は、ハワイなど米英領(軍)には手出しせず、蘭印・油田地帯の「保障占領」こそ最善の策だったと主張。この戦略であれば、第二次世界大戦における中立を保ち、対米英戦争を回避しながら、市場開放を前提とする「大東亜共栄圏」という経済ブロックを形成できたと読む。この場合の「保障占領」とは、領土奪取ではなく、石油確保(対日輸出)に向けた、蘭印の油田地帯と輸出港を確保することのみに限定した軍事行動を意味する。その際、蘭印と諸外国との石油を含む交易承認や、国際社会に帝國の意図を宣言する必要はあるが、当時の「国際規範」に照らせば、それほど突飛(とっぴ)な行為ではない。

 実際、英軍は1940年にアイスランドを占領、翌年には第二次大戦に参戦していないはずの米軍も占領に加わっている。米英の軍事行動へのアイスランドの協力を強制するためであった。41年には、石油確保と親英政権樹立に向け英軍がイラクを、さらに、やはり石油と対ソ連支援ルート確保すべく、英・ソ連両軍がイランを占領した。いずれも、ドイツの先手を打った戦術だった。

確かに、蘭印の限定・目的的占領は容易だったはず。オランダはドイツに占領され、ロンドンに亡命政府を樹立しており、植民地経営もその防衛もほとんどできぬ状態だったからだ。

 一方、大戦の中立国だった16年末段階において、聯(れん)合艦隊は温存されていた。しかも、対米艦艇比率で8割を維持、特に太平洋海域では優位に立っていた。帝國による対米抑止力がある程度機能しことは否定できない。そもそも、ドイツの猛攻を何とかしのいでいた英国はともかく、第一次大戦後の米国では厭戦気運(えんせんきうん)が強く、米政府も英政府の度重なる参戦要請にもかかわらず、欧州戦線に我(われ)関せずの孤立主義を採(と)っていた状況は考慮に値する。真珠湾攻撃の一報を聞いたチャーチル英首相が、戦勝を確信したといわれるのは、こうした背景故だ。

 結局帝國は、蘭印が応諾した航空機燃料供給量が要求の4分の1だったことで交渉を打ち切った。米国が蘭印に圧力をかけた結果だろう。それでも尚(なお)「保障占領」実施と、それに伴う「大東亜共栄圏」樹立は米英との敵対を最小限度に抑え、むしろ黙認させることに成功した可能性は残る。

 しかし、後の開戦時、収容所送りされた在米の日系人と、通常の生活を許された独系人-恐らくは人種上の差別だった歴史を振り返ると、果たして「保障占領」「大東亜共栄圏」という帝國の生存権を米英が“許容”したか、大いなる疑問がわく。そもそも、ABCD包囲網構築それ自体が、人種差別によってエスカレートしていった一面を持っていたのだから。