【土・日曜日に書く】論説副委員長・渡部裕明
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110730/plc11073003370004-n1.htm
◆四国霊場を巡る約束
「私にはお遍路さんを続けるという約束も残っている」
6月2日に開かれた民主党の代議士会で、菅直人首相は遠くない先の「退陣」に言及したあと、このように続けた。
平成16年に発覚した年金未加入問題で党の代表を辞任した菅氏が、四国八十八カ所霊場巡りを始めたのは聞いていた。しかしその後、53番札所まで終えていたことを知らなかった。
四国遍路を再開したら最初に巡拝することになる第54番札所は、愛媛県今治市にある真言宗豊山派(ぶざん)「延命寺(えんめいじ)」である。筆者の菩提(ぼだい)寺で子供のころには、境内の一角を借り、野球などをしたものだ。今でも時おり、亡き父母らの法事で訪れる。
四国八十八カ所霊場は、讃岐(香川県)出身の弘法大師空海(774~835年)がこの地で修行を重ねたことにちなむ寺院というゆかりを持っている。
四国は弘法大師信仰の強い土地柄だ。筆者も幼いころから、意味を知らないまま「南無大師遍照金剛(へんじょうこんごう)」の宝号(ほうごう)をとなえていた。男女を問わず50歳前後になると、八十八カ所巡拝をする人が多かったことも思い出す。
このように信仰は大切なものだが、日本国首相である菅氏に求められるものはそれではあるまい。この国を間違いない方向に導いてゆくことこそ、首相に課せられたただひとつの責務である。それができなければ、いくら霊場を巡拝しても国民は冷たい視線しか浴びせないだろう。
空海は真言宗の開祖で延暦23(804)年、国家公認の僧として遣唐使に加わり、日本に本格的密教を伝えた。加持祈祷(かじきとう)により即身成仏をめざす密教は当時、最先端をゆく仏教で、嵯峨天皇ら朝廷有力者の篤(あつ)い帰依を獲得した。
仏教が東アジアの普遍的価値で、すべてを総合する文化だった時代である。空海は詩文や書、医学、土木工学など幅広い知識を学んでいた。人々が幸福になるため何が必要なのかが分かっていた。困窮した人を救い、初めての庶民のための教育機関(綜芸智種院(しゅげいしゅちいん))を設けたのもその一環である。
◆人間的魅力持った天才
この人は天才であったが、一方で人間的魅力を持ち合わせていた。同じ船団で入唐したライバル、伝教大師最澄の愛(まな)弟子・泰範(たいはん)が師を捨て、空海の元に走ったエピソードはよく知られている。
空海が唐から持ち帰った経典や仏具、彼が著した書物や書状、作らせた仏像などは、いくつか伝わっている。いま東京国立博物館で開催中の「空海と密教美術展」で、その多くを目にすることができる。
中でも特筆すべきは、空海が嵯峨天皇から賜(たまわ)った東寺(教王護国寺、京都市)の講堂に安置されている仏像群だろう。今回は21体のうちの8体が出展され、密教美術の神髄を伝えている。
1200年後に生きる私たちは、空海の人生からどんなことを汲(く)み取れるのだろうか。
◆権力にしがみつく醜さ
10代の後半、彼は地方出身の俊才の通例として都(長岡京)に出て大学に入り官吏となる道を選んだ。しかし、やがてそうした人生に疑問を抱いて退学する。これを青臭いと批判するのは簡単だ。
空海は目の前の課題や疑問を、そのままにしておかなかった。徹底的に追い求め、あらゆる努力を惜しまなかった。仏教を究めるため山野で修行を積んだのもそうであり、危険覚悟で唐に渡ったのもその延長だった。
「長い間、あなたが来るのを楽しみに待っていた…」
唐では密教の正統を継ぐ高僧、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)にこう声をかけられるほど、才能と情熱を高く評価された。密教は、東シナ海を越えてはるばる訪ねてきた僧に、その将来を託されたのである。奇跡のような話ではないか。
東日本大震災という未曽有の災害を経験して、日本人は一人一人が価値観の確認を迫られている。「自分は何をめざし、どう生きるのか」という根元的な問いが胸に迫ってくる。
空海の生涯には時代的な制約があるとはいえ、学ぶべき点は少なくない。不屈の精神や楽天性、本質にまっすぐに迫って言い訳しない実行力など、どれもが魅力にあふれている。
お盆も近づいたし、と延命寺に電話してみた。
「菅さんの話題では、新聞やテレビからの問い合わせが多くて…。でも四国八十八カ所は地位も名誉も関係なく、ただの人となってお参りをしていただくところ。菅さんも早く、さっぱりされて参拝されればいい」
女性住職の池口照順さんは、電話口で笑いながら言った。
(わたなべ ひろあき)