【本郷和人の日本史ナナメ読み】(13)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110717/art11071707420001-n1.htm
前回取りあげた美濃の斎藤義龍(よしたつ)は、父の「マムシ」道三(どうさん)を討ったことを相当気に病んでいたのでは、と推測しました。すきあらば主人に取って代わり、親兄弟も信用ならないイメージのある戦国時代、何をいまさらと思わぬではありませんが、そのあたりをもう一度考えてみましょう。
調べてみると、兄弟と争い、殺害にいたった戦国大名は少なくない。三好長慶、毛利元就(もとなり)、今川義元、織田信長、伊達政宗、斎藤義龍などです。戦国時代ではありませんが、鎌倉幕府を開いた源頼朝は軍事に傑出した義経を、室町幕府を興した足利尊氏は行政を委ねていた同母弟の直義を滅ぼしています。
兄弟はすぐに、現当主に取って代われる。すぽっと入れ替えがきいて、すわりがいい。だから、もっとも手ごわいライバルになる。野心家の家来が周囲にいると、この弟君に家督を奪ってもらえればオレたちも出世できるぞ、などと考えていた。家臣たちを巻き込んで、兄弟の争いは家中を2つに割ってしまう。
こうなると家の権勢自体に深刻なダメージが生じるので、たとえばオスマントルコなどでは新しい皇帝が立つと、その兄弟はみな殺す、という苛烈な措置が取られました。
兄弟の争いに比べると、父を害した例はさほど多くない。大友宗麟(そうりん)、伊達政宗、斎藤義龍くらいでしょうか。ただし、宗麟と政宗の場合は事故ともとれる。正面から父と敵対し、これを討ち取ったのは義龍だけです。上皇(天皇の父)による院政や、徳川家康の大御所政治を思いおこしてみても、やはり伝統社会においては「父権」は強大だったに違いありません。その父を手にかけてしまった。義龍は世間からの非難を恐れたのでしょう。
鎌倉時代にこんな裁判があります。父Aから土地を譲り受けていた娘が、Aに先立って亡くなった。娘の夫Bは土地を娘の遺児に与えようとしたが、Aは土地を取り戻し、他の子供に譲ってしまった。それはひどい、とBが舅(しゅうと)であるAを訴え、幕府法廷の判断を求めます。すると幕府は何と言ったか。いったんは子供に与えても、父はその土地を無条件で取り戻すことができる。こうした行為を「悔い返し」というが、悔い返しの有効性は幕府の根本法典である『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』第18条、20条、26条に明らかだ。だからこの場合、Aのしたことには法理にかなっている。
現代ならばたとえ親子間であっても、ひとたび所有権が移転してしまえば、勝手に取り返すわけにはいきません。ところが武士社会では、取り戻せる。父親の権力がそれだけ強力だったのでしょう。
当時の社会は一夫多妻ですから、有力な武士にはたくさんの子がいて、その子供たちが何とか家督を継ごうとさまざまに活動し、父にアピールする。生き残りをかけての、熾烈(しれつ)な競争です。
一方で江戸時代には、とりあえず長男が家を相続する、というかたちが定着しました。家の継承において、一定のルールが確立した。相続についても戦国時代が終わり、無益な争いが避けられるようになったのです。
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政宗は父を殺したのか
二本松城(福島県二本松市)城主の畠山義継(よしつぐ)は、伊達政宗の父の輝宗(てるむね)を拉致し、城を目指して逃走した。一行を追跡した政宗(数え19)は、阿武隈(あぶくま)河畔で追いつき、一人残らず殺害した。自分もろとも義継を撃てと輝宗が命じた、政宗の父殺しの陰謀だった等々、解釈は分かれる。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。
伊達家菩提寺として知られる瑞巌寺(宮城県松島町)に伝わる伊達政宗の肖像
(模本、東大史料編纂所蔵)