野党・自由民主党に“自由”は要らない-3 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





「夕刻の備忘録」 様のブログより。



自民党は反省するな、と書いてきた。
それは自民党が自浄能力のある政党だからである。
国民がそれを自覚していないだけのことである。

今日もまた、その自浄能力が発揮されたではないか!

大昔は兎も角として、最近の自民党の自浄能力は凄まじい。色々な人間が、色々なことを言いながら、自ら党を去って行く。

田中真紀子然り、渡辺喜美然り、舛添要一然り、与謝野馨然り。
そして浜田和幸然りである。

彼等の最後の台詞は全て同じである。
曰く「自民党では自分の政策が活かせないから」。
曰く「自民党は自分の改革案を受け入れなかったから」。

冷静に考えて貰うと直ぐ分かることである。彼等の発言は、全て「自分」に終始している。税制改革や公務員改革、厚労省改革に、震災復興、テーマは人それぞれで違うようだが、パターンは共通している。日本の将来でも、党の将来でもない、自分の将来に暗雲が立ち込めたから、自民党から逃げ出しただけの話である。

自分の意見、自分の政策云々と二言目には吠え立てるが、そんなに貴重な意見なら、何故政党内に留まって多数派工作に徹しないのか。党内の主流意見になるまで、鍛え上げてその結果を「政党の見解」にまで高めないのか。

要するに党内の多数派工作に敗れたものが逃げ出すのである。そして、党内の多数派工作にすら敗れた者が、党を出て、世の中を相手に多数派工作をして勝てるはずがない。所詮民主主義とは言葉による多数派工作である。党内に居て、その人の意見をよく聞いてくれた人達すら説得出来ない者が、中身の議論を好まない大衆を説得出来るはずがない。

よって、彼等はポピュリズムに走る。あれだけ大切だ、大切だと言っていた自分の意見などドブへ捨てて、大衆の好むこと、大衆の望むことだけを連呼して、それで人気振りを演出するのである。そして、お定まりの自民党批判を付け加える。

政治家だけではない、企業でも同じである。「一本釣り」されるような人間は、そもそも人格的に劣るのである。金や地位で釣れると思うから、相手はそれをちらつかせる。その程度の人間だと値踏みされているからこそ、餌が垂れてくる。才能を見込んでのことではない、毛針に掛かる安い奴だと思われただけである。

能力があって、自分から古巣を見限った人間は、決して過去を暴かないものだ。古巣の悪口など言わないものだ。むしろ、口に出すのもおぞましいように、過去を封印するものだ。それが出来ない、何時までも何時までも過去に拘り、自民党批判でメシを食っているような輩は、元より何の才能もない人間なのである。見限ったのではない、見限られたのである。

こうして能力に欠けているにも関わらず、怪しげな看板だけで生きてきた連中は、自民党内での居場所を失い、消えていく。自らが消える、消されていく恐怖に耐えられない連中が党を出る。毛針に掛かって憤死する。それが自民党の持つ自浄能力である。

しっかりとした下働きをしない人間には、非常に住み難い組織なのだ。その体質を批判するのは自由だが、その長所が我が国の安定にどれほど寄与したかは計り知れない。異なる意見を包摂するのが「和の精神」なら、自民党ほどこの精神を体現し、その精神の故に苦しんでいる組織もあるまい。

欠点を批判して、病巣を「外科手術により切除」すれば、健康体に戻るなどという甘い考えでは、確かなことは何も為せない。何でも切り開けば、物事が明らかになると思ったら大間違いである。そのことを良く知っている政党であるから、今もなお、地道に地道に細かい政策を編み上げて、少しずつ改善しようと努力しているのである。

結果を焦ることが、どれほど国を誤るか。
そのことに国民は今こそ気づくべきである。