ハングルの唱歌も作られた朝鮮。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【歴史に消えた唱歌】(11)




昨年8月、日韓併合100年に合わせて菅直人首相の談話(菅談話)が発表されたとき、当時の仙谷由人官房長官は記者会見で日韓併合について、「植民地支配の過酷さは言葉を奪い、文化を奪い、韓国の方々に言わせれば土地を奪うという実態もあった」と述べ、波紋を広げたのは記憶に新しい。

 もとより、統治した側と、された側が共通の歴史観を持つことなど不可能に近い。それを承知で言うが、日本は朝鮮統治において、鉄道を敷き、鉱工業を興し、学校を建て、「近代化」に大きく貢献した。生活が豊かになって人口は倍増し、識字率も大きく向上したことは紛れもない「事実」である。

 とりわけ、現在の北朝鮮の地域には、東洋一の規模をうたわれた水力発電の水豊ダム、その電力を利用した巨大なコンビナート・興南工場、さらには鉄鉱石鉱山、炭鉱などが集中していた。北朝鮮が戦後の一定の時期まで工業力において韓国をリードできたのも、こうした日本時代の遺産を“居抜き”でせしめたからに他ならない(北朝鮮はそれを重油などと引き換えに“切り売り”し、現在は権利の一部を中国がもっている)。

 仙谷前官房長官が言う「言葉を奪った」についてはどうか。植民地教育である以上、「同化」を目的にした日本語化が進められたのは仕方がない。しかし、朝鮮人児童が通った普通学校などにおいて、朝鮮語の教科は1938(昭和13)年まで必修科目であったし、41年までは随意科目として残っていた。さらに家庭では普通に朝鮮語が使われていたのである。

◆作詞は朝鮮人の子供たち

 唱歌の例を見てみよう。これまでの連載で、日本統治時代の台湾や日本が影響力を持っていた満州(現・中国東北部)で作られた独自の唱歌について書いてきた。台湾では「台湾語による唱歌を作るべきだ」という意見があったものの、結局、実現していない。満州唱歌は、歌詞の一部に現地の言葉を使う例があったにとどまっている。

 ところが、日本統治時代の朝鮮ではハングル表記の朝鮮語による唱歌が多数作られているのだ。「保護国」時代の1910年、韓国統監府の監督の下、韓国学府が編纂(へんさん)・発行した「普通教育唱歌集 第一輯(しゅう)」は27曲すべてが朝鮮語(主に内地の唱歌を翻訳したもの)。また、14年発行の朝鮮総督府による「新編唱歌集」(全41曲)にも、6曲の朝鮮語の唱歌(翻訳)が収録されている。

 さらに、融和が前面に打ち出された「文化政治」期の1926(大正15)年に、やはり朝鮮総督府から出された「普通学校補充唱歌集」は全60曲中、日本語歌詞が39曲に対し、朝鮮語歌詞の歌も21曲ある。これらの曲には、内地の唱歌の翻訳ではなく、公募によって新たに作られた「独自の唱歌」が目立つ。朝鮮人児童作の詞も数多く採用されたから、現地の景観や風俗、歴史などが盛り込まれた郷土色豊かな内容が多い。

 “親日的”といわれる台湾でも1930年代に公募による唱歌集が作られたが、こちらはほとんどが日本人の作である。これだけを見ても、日本がどれだけ朝鮮語に「配慮」していたのが分かるではないか。

 拓殖大学客員教授の藤岡信勝はかつて産経新聞紙上で、「韓国人が使っている文字、ハングルを学校教育に導入して教えたのは、ほかならぬ日本の朝鮮総督府なのである」(2010年8月18日付「正論」など)と指摘したが、ハングルで書かれた朝鮮語の唱歌もまた、普及に貢献したのである。

◆朝鮮は「反日」だったのか

 台湾は「親日」、朝鮮は「反日」という決めつけも、あまりに一面的であろう。統治初期の1919年に起きた「3・1運動」に代表される激しい抗日・反日の動きは、中期以降には沈静化している。少なくとも一般市民レベルでこうした感情が噴出することはまれであった。

 朝鮮南部の豊かな両班(ヤンバン=貴族階級)の家に生まれ、後に、北朝鮮へわたってヨーロッパ部長などを務めた(後に脱北)朴甲東(92)はこう話す。「子供の頃は、日本への反発心なんてなかった。(統治体制が)当たり前のことだと思っていたからね。勉強を頑張り、優等生になることしか考えていなかった。僕が『反日』になったのは留学で日本へきてからですよ(苦笑)」

 「武」より「文」を重んじる儒教の影響が強い朝鮮では教師が尊敬された。朴も普通学校(小学校に相当)時代の担任だった「井上」という名の先生のことを今でも覚えている。「大阪から(朝鮮に)赴任してきた若い男の先生でね。野球が得意だった。よくかわいがってもらったなぁ」と懐かしそうだ。

 『日本統治時代を肯定的に理解する』を書いた朴贊雄は、こうつづっている。「当時の朝鮮人は日本人に対して、尊敬はしないものの、軽蔑や敵愾心(てきがいしん)は殆(ほとん)どなかった」と前置きした上で「今の若い連中は『当時の朝鮮人は皆、日本を敵国と見なし、ことあるごとに命を投げ出して独立運動をした』という自己陶酔的な瞑想(めいそう)に耽(ふけ)っているが、これはウソである」と。そして、やはり日本人教師との良き思い出を著書の中で書いた。

 もちろん、何にでも例外はある。朝鮮人を蔑視し、差別した日本人教師もいたであろう。だが多くの教師は、前回紹介した「理想の唱歌集」作成に取り組んだ京城師範の教師らのように、高い志と情熱を持って、海を渡ってきた。これは台湾や満州と変わりはない。

園田恒明(75)の父・竹次郎(故人)もこうした教師の一人である。1934(昭和9)年に朝鮮へ渡り、釜山、平壌、公州の女学校や師範学校で教師を務めた。「父は日本人と朝鮮人を平等に扱い、絶対に差別しなかった。『人間として大切にしなさい』と教えられたものです。だから、戦後、父とともに韓国を訪問したときには、多くの元教え子が集まって、歓迎会を開いてくれました」

 戦時中、公州の国民学校(小学校)に通った園田は、学校で習った朝鮮独自の唱歌をいくつか覚えている。『九勇士』『山本五十六元帥の歌』というタイトルの歌だ。すでに内地、外地を問わず、皇民化教育が強まっていたころで、こうした戦意高揚を目的とした軍国調の唱歌も教師が作ったという。

 だが戦後の韓国では、『九勇士』『山本五十六元帥の歌』といった軍国調の曲はもちろん、朝鮮人児童が公募に応じて作った郷土色豊かな唱歌も、日本時代のものは公式上、すべてタブー視され、封印された。

 それだけではない。盧武鉉政権時代に本格的に始まった、極めて政治色の強い「親日派追及」の中で日本時代に活躍した朝鮮人の音楽家らも、やり玉に挙げられた。戦前、朝鮮独立運動のシンボル的な歌として広く親しまれた『鳳仙花(ほうせんか)』の作曲者、洪蘭坡(1898~1941)もそのひとりである。

 日本統治時代に東京音楽学校(現・東京芸大)に留学し、朝鮮初の管弦楽団を作った洪は、「文化政治」期を代表する音楽家であり、「鳳仙花」を原曲とする『子守唄』は、1935年に京城師範が発行した唱歌集「初等唱歌」6学年用に収録された。こうした“業績”が後に「親日派」として糾弾されることになるのである。

 洪だけではない。日本統治時代に活躍した名テノール歌手、永田絃次郎(げんじろう)も、「半島の舞姫」と称えられた舞踊家の崔承喜もしかりである。今頃になって、「日本時代のこと」が問われるとは、泉下にある彼らにとっては心外であろう。少なくとも作品に罪はないのである。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)


草莽崛起  頑張ろう日本! 

            朝鮮・公州の国民学校の運動会 (1942年、武藤文さん提供)



草莽崛起  頑張ろう日本! 

    1926年に朝鮮総督府が発行した「普通学校補充唱歌集」にはハングル表記の歌が目立つ 

                                         (東書文庫蔵、大西正純撮影)