満州育ちの「わたしたち」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【歴史に消えた唱歌】(9)




満州(現・中国東北部)にあった学校(大連、旅順など、関東州を含む)の同窓会で、必ずと言ってもいいほど、よく歌われる満州唱歌がある。園山民平が作曲した(作詞者不詳)『わたしたち』だ。

 1932(昭和7)年以降、順次改訂された第2期の「満洲唱歌集」第3学年用に収録されたこの唱歌が満州っ子に愛された理由は、その内容にある。

 満州生まれの日本人の子供たちは、内地(日本)を知らない。かといって、現地人とも違う。“どっちつかず”の満州っっ子にとって、心のよすがとなったのが、「まんしう(満州)そだちの わたしたち」と歌ったこの唱歌だった。

 元日銀副総裁で、幼いころ満州の興安街に住んでいた藤原作弥(さくや)(74)は、『わたしたち』に関するこんなエピソードを自著につづっている。1945(昭和20)年8月10日。突然、国境を越えてきたソ連軍から必死で逃げる汽車の中での話だ。

 「懐かしい興安嶺の山々や草原とは、もうお別れです。別れの歌を歌いたいと思います。(中略)誰かが『ボクたちの満州の歌を歌おう』と提案した。『そうだ。わたしたち満州の歌【わたしたち】を歌おう』」(「満州、少国民の戦記」)。年長の少年のリードで始まった車中の大合唱。『わたしたち』はまさに、満州っ子のテーマソングだった。

 ■自然や四季が見えてくる歌

 内地の巨匠に作詞、作曲を依頼した最初の「満洲唱歌集」(1924年~)の評価が芳しくなかったため、第2期の唱歌集では、園山ら、南満洲教育会教科書編集部(大連)の編集部員や現場の教師などが新たに、数多くの満州唱歌を作ったことは前回、書いた。
知名度では比べるべくもない彼らの作品が満州っ子に愛された理由は「郷土色あふれる唱歌」だったからである。現地のお正月やお祭りに登場するコミカルな踊りを歌った『たかあし(高脚)をどり』、子供たちが大好きだった地元のお祭り『娘々祭(にゃんにゃんまつり)』、満州っ子には欠かせないスケートの『リンク』…。見たこともない景色を歌った内地の唱歌を歌うのに比べて、どれほど楽しかったことか。

 教科書編集部員で、後には児童文学者としても活躍した石森延男(1897~1987年)は園山の作品集に寄せた一文でこう書いている。

 「園山民平さん もしあなたがあのころ(教科書編集部に)いなかったら、満洲の草も木もロバも娘々祭もコウリャンも豚も-これほどあざやかにわたしたちの心に残ってはいないだろう。(略)あなたの作られた曲をうたうと、遠く離れてしまった満洲のあの自然があの四季があの遊びが生き生きと眼に見えてくるからありがたい」(「園山民平作曲集」)

 園山は、女学校向けにもたくさんの唱歌を書いた。大連のすべての女学校が集まる『五月祭』、女学校版の『娘々祭』などだ。また、唱歌を作るだけでなく、大連の学校で音楽の授業を受け持ったほか、自ら音楽学校を経営し、ピアノの指導にも熱心だった。

 当時、大連の女学校に在籍していた船橋夏江(86)は、園山に音楽を教わった、教え子のひとりだ。「大連運動場で毎年開かれた『五月祭』が懐かしい。そのときは園山先生作曲のこの歌を歌って踊ったものですよ。園山先生はとても熱心な先生で、中国の言葉を織り込んだ歌まで作り、その発音をよく中国人の生徒に確かめていらっしゃったのを覚えています」

■満鉄の現地適応主義

 満州の、特に大連などの都市部では内地より、生活レベルも教育レベルもずっと高かった、という話がある。

 家には水洗便所や電話があり、女の子がいる家庭はこぞってピアノを習わせた。教育熱は高く、陸軍士官学校など難関校の合格率も内地の名門校を上回る中学校(旧制)が珍しくなかった。修学旅行で初めて内地を訪れた満州生まれの子供たちは、「決して豊かに見えない生活」に驚いたという。

 満州経営の主体となった南満洲鉄道(満鉄)の初代総裁、後藤新平は、その経営方針を「文装的武備」という言葉で表した。荒野であった満州の文明化、都市化に力を注ぎ、有事に備える基盤を作れ-といった趣旨であろう。満州唱歌に「シャタク」という歌詞が出てくるが、それは満鉄が社員のために建設した近代的な社宅のことだ。多くの日本人が住む鉄道付属地では、学校を経営するのも満鉄であり、教師もまた満鉄社員である。

 日本人児童に対する満鉄の教育は、徹底した「現地適応主義」だった。中国語教育を推進し、内地とは違う現地の事情に即した独自の教科書を作った。満州唱歌もその一環である。満鉄学務課長として、中心的な役割を果たした保々隆矣(ほぼ・たかし)(1883~1960年)は、こう書き残している。「(内地では)国定教科書制度を採用しているから、北海道の児童も琉球(沖縄)の子どもも同一時季に同一の事柄を教えられているが、自然の風物は相違しているから、児童には不可解な事実に対する努力に倦怠(けんたい)の色が見える」と。

保々はスポーツも奨励した。スケートや水泳である。寒冷地である満州では冬季になれば、校庭にまいておいた水が、翌朝、スケートリンクに早変わりする。当時からプールを備えている学校も珍しくなかった。

 ところで、満州唱歌と、台湾や朝鮮の唱歌とでは、決定的な違いがある。台湾などで作られた独自の唱歌が主に、現地人児童を対象としたのに対し、満州唱歌が現地に住む日本人児童を対象に作られたことだ。

 つまり、いずれは内地に戻るのではなく、満州経営の主体となり、この地に「骨を埋めてもらう」。そのためには、満州への郷土愛を持ってもらわねばならない。満州唱歌は郷土愛を育む役割も担っていた。まさに「現地適応主義」である。

 ところが、こうした自由でユニークな「満鉄の教育」も1937(昭和12)年、満州国への鉄道付属地(約5億2500万平方メートル)の行政権移譲によって終わりを告げる。

 独自の教科書を発行してきた南満洲教育会教科書編集部は、満州国日本大使館教務部と関東局(関東庁の後身)の共同経営となり、名称も在満日本教育会教科書編集部と変わった。同時に内地の意向が強くなり「満州色」は薄れてゆく。1942年「ウタノホン」が導入されるとさらにその傾向は強まった。

 1924年に最初の「満洲唱歌集」が作られてから終戦まで、満州唱歌の寿命はわずか約20年しかない。この間、作られた独自の唱歌は100曲以上。満州唱歌は、サクラのようにパッと花を咲かせ、短い命を散らせたのである。

多くの満州唱歌を作った園山は戦後、かつて教鞭(きょうべん)をとった宮崎に引き揚げ、宮崎民謡の集録に力を注ぐ。死後に作品集ができたとき、かつての同僚、石森はこう懐かしんだ。「園山流のリズムにひたりつつ、はるか国境を越えた満洲の天地に飛翔(ひしょう)して遊びたいと思う」=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)


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【プロフィル】園山民平

 そのやま・みんぺい 1887(明治20)年、島根県出身。東京音楽学校(現・東京芸大)師範科卒。沖縄、宮崎で教員を務めた後、1922(大正11)年、大連へ渡り、南満洲教育会教科書編集部員として、「満洲唱歌集」などの編纂を担当する。自らも多くの満州唱歌を作曲した。1955(昭和30)年、67歳で死去。



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               かつての満鉄線を走る列車(中国・瀋陽、喜多由浩撮影)



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