「夕刻の備忘録」 様のブログより。
近隣諸国は好き勝手にやっている。大陸、半島、北の果て、何れも人の弱みに付け込んで、火事場泥棒よろしく自らの本性をさらけ出している。その性根の卑しさ、醜さは唾棄すべきものである。大震災で国家的な危機にある中、支援の口約束だけを免罪符に一人前の文化国面をする。僅かばかりの義捐金を差し出して、大きな顔でやってくる。
民主党には、何処まで「負の逸材」が揃っているのか。これは酷い、言語を絶する酷さだと感じ、ようやく代わりが収まったかと思ったら、前任者よりもさらに数段凄まじいクズだったという話ばかりである。外国人献金問題でようやく「口先番長」の首を獲ったぞ、と喜んだのも束の間。後任の松本某は現政府の中でも飛び切りの無能者であった。
★ ★ ★ ★ ★
北方領土にロシアの許可の下、外国の閣僚が訪問すれば、それは明確な我が国の主権侵害であり、違法入国であり、現在進行形の侵略行為である。この問題は事件発生以前に堂々と「予告」されたものであった。にも関わらず、外務省は何も動かず、外務大臣は居眠りを決め込んだ。首相は首相で、尖閣事件の時と全く同様に、ちょうど同じタイミングで相手国のトップと会談する機会がありながら何も訴えなかった。
そして、外相は佐藤正久議員の質問に対して、「彼等の領土訪問は我が国の立場として受け入れられない」と他人事のように全く平坦に語り、事前の予告に対して、実際に訪問が行われることを想定していたか否か、との質問に対しては何と、「受け入れられないものを想定することはない」と言い切った。
まさに「憲法九条の申し子」の如き発言である。私が起こらないと思うことは起こらないから準備はしない、戦争を放棄しているから戦争は起こらない、だから有事の想定もしないし、国民に準備をさせることもない、ということである。
今や純粋に国内問題のみを担当する大臣職などありはしないが、それにしても外務と防衛は、諸外国との関係で日本の立場が左右される、最も国際感覚を必要とする職務である。それが揃いも揃って、途方も無い木偶の坊である。
こうした問題が発生すると必ずマスコミから、「厳しい外交の場で云々」との発言が出る。どれだけ相手が卑劣な振る舞いをしても、「厳しい現実」の一言で終わりである。
そして国民もまた、こうした論調に乗せられて、人の弱みに付け込み、相手国を凹ますことが外交であり、火事場泥棒もまた外交上手の表れであると肯定的に理解する。さらに、そのように理解しない人を説得までし、だから日本の外交も斯くの如くあるべきだと主張する。そしてそれが出来ない日本の外交を批判し、「日本ダメ論」のお先棒を担ぐのである。
またしても相手にしてやられた、だから日本はダメなんだ、何時まで経っても日本は成長しない、本当の外交が出来ないと嘆くのである。しかし、こうした人達は自分達がどれほど倒錯した立場から発言しているか、ということを認識していない。
★ ★ ★ ★ ★
国民はもっと強かになり、国際社会の基準を知り、外交の怖さを感じるべきである、という主張は何処かが狂っている。まるで泥棒に入られた被害者が、それは自宅のセキュリティが低かった為であり、管理システムの脆弱さの一事をもって執拗に批判されているようである。何故、加害者が批判されず、被害者が批判されるのか。全くオカシイではないか。
「外交の本質」や「国際社会の常識」が、卑劣な火事場泥棒を少しでも肯定するものであるならば、そんなことを国民が一々知る必要はなかろう。その為に専門職があるのではないか。外交官や政治家、そして企業経営者が知っていれば済む話ではないか。
何故我々一般国民までもが、そんな穢れた発想で生きなければならないのか。火事場泥棒を肯定したところで、日本がその清さを擲って、自らも火事場泥棒になれという訳でもあるまい。我々はもっと素直にシンプルに考えればよいのである。
そうだ、単純に怒りを爆発させればいいのだ。何故一般国民までもが外交の機微を捉えて苦悶しなければならないのか。これでは泥棒に対して「敵ながらアッパレ」と称賛しているようなものではないか。
火事場泥棒は絶対に許さない。見付けたら平時の十倍百倍の力で打ち据える。盗人猛々しい義捐金詐欺の常習犯のような国家とは付き合わない。それで充分である。そして留学生や企業の研修で来ている某国の連中には、しっかりと相手国の非を指摘する。イヤミの一言も言ってやる。それも出来ない人は徹底的に無視をする。どんな形でもいい、相手にこちらの怒りが伝わるようにすればいいのだ。
その留学生がどんなに好い人間でも、その研修生がどんなに立派な人間でも、そんなことは関係がない。日本国民が、普通の日本国民がどれほど怒っているかということを彼等に感じさせねばならないのである。好い人間であり立派な人間であればあるだけ、我々のこの憤りを素直に伝えれば、彼等もまた本国でそのことを周囲に伝えるだろう。
それこそが「民間外交」というものである。日本中に怒りが充ち満ちている、マスコミなどの表面的な情報からは分からないが、普通の国民の怒りは既に頂点に達している、と相手国の隅々に我々の声が響き渡れば、泥棒もまた逃げ出すのである。
個人と個人の関係だから、政治的な発言は互いに慎んでいるから、などいって躊躇しているから、双方の国民同士の本当の遣り取りが始まらないのだ。日本国民がマスコミ論調に乗せられ、自らを一段高見に置いて、「そもそも外交とは力と力が鬩ぎ合う修羅場であって」などと分かったような態度を取るから、連中もトコトン調子にのるのである。
国民の怒りを素直に表し、「国交断絶も辞せず」「攘夷当然」「不買の促進を!」との声が日本中に拡がった時、はじめて泥棒連中も仕事を止めるだろう。泥棒に同情したところで、彼等は決してその天職を捨てることはないのだ。
賢き日本人を演じる偽善を止め、怒れる日本人として相手を制する。
これこそが本当の「世界基準」のはずである。
民主党には、何処まで「負の逸材」が揃っているのか。これは酷い、言語を絶する酷さだと感じ、ようやく代わりが収まったかと思ったら、前任者よりもさらに数段凄まじいクズだったという話ばかりである。外国人献金問題でようやく「口先番長」の首を獲ったぞ、と喜んだのも束の間。後任の松本某は現政府の中でも飛び切りの無能者であった。
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北方領土にロシアの許可の下、外国の閣僚が訪問すれば、それは明確な我が国の主権侵害であり、違法入国であり、現在進行形の侵略行為である。この問題は事件発生以前に堂々と「予告」されたものであった。にも関わらず、外務省は何も動かず、外務大臣は居眠りを決め込んだ。首相は首相で、尖閣事件の時と全く同様に、ちょうど同じタイミングで相手国のトップと会談する機会がありながら何も訴えなかった。
そして、外相は佐藤正久議員の質問に対して、「彼等の領土訪問は我が国の立場として受け入れられない」と他人事のように全く平坦に語り、事前の予告に対して、実際に訪問が行われることを想定していたか否か、との質問に対しては何と、「受け入れられないものを想定することはない」と言い切った。
まさに「憲法九条の申し子」の如き発言である。私が起こらないと思うことは起こらないから準備はしない、戦争を放棄しているから戦争は起こらない、だから有事の想定もしないし、国民に準備をさせることもない、ということである。
今や純粋に国内問題のみを担当する大臣職などありはしないが、それにしても外務と防衛は、諸外国との関係で日本の立場が左右される、最も国際感覚を必要とする職務である。それが揃いも揃って、途方も無い木偶の坊である。
こうした問題が発生すると必ずマスコミから、「厳しい外交の場で云々」との発言が出る。どれだけ相手が卑劣な振る舞いをしても、「厳しい現実」の一言で終わりである。
そして国民もまた、こうした論調に乗せられて、人の弱みに付け込み、相手国を凹ますことが外交であり、火事場泥棒もまた外交上手の表れであると肯定的に理解する。さらに、そのように理解しない人を説得までし、だから日本の外交も斯くの如くあるべきだと主張する。そしてそれが出来ない日本の外交を批判し、「日本ダメ論」のお先棒を担ぐのである。
またしても相手にしてやられた、だから日本はダメなんだ、何時まで経っても日本は成長しない、本当の外交が出来ないと嘆くのである。しかし、こうした人達は自分達がどれほど倒錯した立場から発言しているか、ということを認識していない。
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国民はもっと強かになり、国際社会の基準を知り、外交の怖さを感じるべきである、という主張は何処かが狂っている。まるで泥棒に入られた被害者が、それは自宅のセキュリティが低かった為であり、管理システムの脆弱さの一事をもって執拗に批判されているようである。何故、加害者が批判されず、被害者が批判されるのか。全くオカシイではないか。
「外交の本質」や「国際社会の常識」が、卑劣な火事場泥棒を少しでも肯定するものであるならば、そんなことを国民が一々知る必要はなかろう。その為に専門職があるのではないか。外交官や政治家、そして企業経営者が知っていれば済む話ではないか。
何故我々一般国民までもが、そんな穢れた発想で生きなければならないのか。火事場泥棒を肯定したところで、日本がその清さを擲って、自らも火事場泥棒になれという訳でもあるまい。我々はもっと素直にシンプルに考えればよいのである。
そうだ、単純に怒りを爆発させればいいのだ。何故一般国民までもが外交の機微を捉えて苦悶しなければならないのか。これでは泥棒に対して「敵ながらアッパレ」と称賛しているようなものではないか。
火事場泥棒は絶対に許さない。見付けたら平時の十倍百倍の力で打ち据える。盗人猛々しい義捐金詐欺の常習犯のような国家とは付き合わない。それで充分である。そして留学生や企業の研修で来ている某国の連中には、しっかりと相手国の非を指摘する。イヤミの一言も言ってやる。それも出来ない人は徹底的に無視をする。どんな形でもいい、相手にこちらの怒りが伝わるようにすればいいのだ。
その留学生がどんなに好い人間でも、その研修生がどんなに立派な人間でも、そんなことは関係がない。日本国民が、普通の日本国民がどれほど怒っているかということを彼等に感じさせねばならないのである。好い人間であり立派な人間であればあるだけ、我々のこの憤りを素直に伝えれば、彼等もまた本国でそのことを周囲に伝えるだろう。
それこそが「民間外交」というものである。日本中に怒りが充ち満ちている、マスコミなどの表面的な情報からは分からないが、普通の国民の怒りは既に頂点に達している、と相手国の隅々に我々の声が響き渡れば、泥棒もまた逃げ出すのである。
個人と個人の関係だから、政治的な発言は互いに慎んでいるから、などいって躊躇しているから、双方の国民同士の本当の遣り取りが始まらないのだ。日本国民がマスコミ論調に乗せられ、自らを一段高見に置いて、「そもそも外交とは力と力が鬩ぎ合う修羅場であって」などと分かったような態度を取るから、連中もトコトン調子にのるのである。
国民の怒りを素直に表し、「国交断絶も辞せず」「攘夷当然」「不買の促進を!」との声が日本中に拡がった時、はじめて泥棒連中も仕事を止めるだろう。泥棒に同情したところで、彼等は決してその天職を捨てることはないのだ。
賢き日本人を演じる偽善を止め、怒れる日本人として相手を制する。
これこそが本当の「世界基準」のはずである。