ジュエロニモを思う。。。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





「西村眞悟の時事通信」 より。




ジェロニモ、
 あの狼と新撰組の近藤勇をくっつけたような顔をしたアパッチの戦士!
 ジェロニモの名を口にするとき、私は敬仰の思いが湧くのを禁じ得ない。
 彼は内に霊的なパワーを秘めた不屈の「戦争のシャーマン」であった。
 彼は、一九〇九年二月十七日に、投降して収容されていたシル砦で死んだ。
 死ぬ前にジェロニモは、愛馬に鞍をつけて木に繋いでくれと頼んだ。そして、影の体を去ってから三日後に馬を取りに来る、と言った。
 彼の影の体はシル砦のアパッチ共同墓地に葬られたが、アパッチの多くは、ジェロニモは、どこか別の所に旅立った、「高い山の中の盆地」へ行ったのだと言った。
 アパッチは、死の歌を歌って死ぬといわれるが、ジェロニモは、死が終わりであることを認めず、死の床で次のように歌った。
 オーハレ 
 オーハレ
 おれは 待っている
 おれは 今 生まれ変わる

 ジェロニモは、アメリカ合衆国がインディアンの土地を奪うために制定した「インディアン強制移住法」が連邦議会を通過した翌年の一八二九年六月十六日に生まれた。
 その時は、まだ平穏だったのだろう。彼には、ゴヤスレイ「あくびをする男」という牧歌的な平和な名が付けられた。
 現在のアリゾナやニューメキシコがアパッチの故郷であった。
 従って、そこに住むアパッチには、南のメキシコと北のアメリカと戦う運命が待ち受けていた。
 彼は、メキシコ兵に母と妻そして三人の幼子を殺された。
彼は、その時から終生、戦闘に明け暮れる戦士となった。
 故郷では、彼の家族のように、年々多くの仲間がアメリカとメキシコに殺されていった。
 南のメキシコは単純だった。ただ戦うだけだった。
 しかし、北のアメリカは、狡猾だった。アパッチを追い詰めておいて「弱者が生き残るための選択」を迫る。そして話し合いの為におびき出された大酋長をなぶり殺しにしてリーダーを奪い、残った者を砂漠の居留地に押し込めた。
 これは生かしておくだけましな方で、和平の為に星条旗を掲げてキャンプしていたシャイアン族をアメリカ騎兵隊が突如襲い、子供も女性もことごとく皆殺しにした。アメリカ兵達は、手柄を競うためにインディアンの男の頭皮をはぎ、耳と鼻を削ぎ、睾丸を切り取り、女性の性器をえぐり取って帽子に吊した。

 バッファロー・ビルは、「動物記」の作者であるシートンに次のように告白した。
「私は何度も遠征隊を率いてインディアンと闘ったが、そのたびに我が身を恥じ、我が政府を恥じ、我が軍の旗に恥ずかしい思いをしたものです。
 正しいのはいつも彼らインディアンであり、間違っているのはいつもわれわれアメリカ軍だったからです。
 彼らが協約を破ったことは一度もありません。我らが協約をきちんと履行したことも一度もなかったのです。」(シートン作「レッドマンのこころ」より)

 ジェロニモは、このような相手と戦い続けた。
 彼と三十数名のアパッチの戦士は、荒野を徒歩で一日百キロ以上移動することができた。
 そのジェロニモ率いる三十数名の戦士を、マイルズ准将は五千名の兵士、数百人の投降したアパッチ斥候そして、数千名の民兵を動員して何年も追いかけ続けた。ところが、彼らは一人のアパッチ戦士も殺すことはできなかった。
 しかし、一八八六年、六十歳近くになって終にジェロニモは投降した。時のクリーブランド大統領は、ジェロニモを縛り首にせよと命じたが、ジェロニモ投降の場に居合わせた勇気ある将校が、彼の投降の条件を公表したので縛り首の命令を撤回した。
 囚われの身となってからもジェロニモは仲間を助け続けた。
 彼は、万国博覧会やショーの出し物にされた。足鎖を付けられて「人間虎」として見せ物にされたのである。何十万という白人が彼を見物した。
 此の「人気」の故に、ジェロニモは、セオドア・ルーズベルト大統領の就任式に出席するよう大統領から要請された。その為、彼は、その就任パレードに護衛付きの乗馬で参加した。
 その後、ジェロニモは、大統領と会見するためにホワイトハウスに連れて行かれた。
 そこでジェロニモは、臆することなく、アパッチを故郷の南西部に返すように要求した。
 大統領が、それはできないと告げると、ジェロニモは、背を向けて歩み去った。
     以上、フォレスト・カーター著「ジェロニモ」より。

 私は、此のジェロニモを尊敬している。
 彼の闘魂、不屈の闘志、そして家族と部族への愛と誇り、
 日本人は、「戦争のシャーマン」であるジェロニモを見つめなければならない、一度、戦争に負けたからといって、何時までもアメリカにヘイコラするな、と、ジェロニモを見る度に思う。

 それをだ!
 アメリカという人種は、テロリストの首魁オサマ・ビン・ラディンという標的をジェロニモという作戦名で呼んでいたという。そして、ジェロニモ作戦成功を小躍りして喜んでいる。
 さらに、アメリカ人は、この作戦の成功は、山本五十六連合艦隊司令長官をブーゲンビルで殺害したのと同じ成功だと論評している。
 
 此処に私は、アメリカの一番嫌な独善を感じた。
 侮辱されたようにも感じた。
 彼らは、未だに、ジョエロニモという最も勇敢な戦士を、見せ物の「人間虎」として見ていることが分かったのだ。
 ここから、日本人として何を学ばねばならないのか。
 それは、アメリカ政府が、十九世紀に、インディアンを消滅させるために、如何に狡猾で陰湿で残虐な手法を用いたかということである。
 この手法に関して、アメリカ政府は、自らを美化することはあっても、反省は微塵もない。
 このことは、オサマ・ビン・ラディンを、ジェロニモや山本五十六と同列と見ていることで明らかだ。
 
 ここに、二十世紀から現在まで、アメリカが我が国に仕掛けてきたことの真意を見抜くヒントがある。
 アメリカは、投降した日本を、「日本国憲法」という不毛の「居留地」に押し込めた。そして、多くのインディアンと同じように、多くの日本人にもその居留地が安楽だと懐柔し思い込ませた。
 現在のアメリカのグローバリズムというもっともらしい理屈付けの対日要求、つまり、郵政民営化、自由化、そして、TPPの要求は、まさに、曾て、住みやすいインディアンの故郷を奪って自分達が住み着こうという、狡猾なやり方と同じである。
 
 なお、アメリカ軍が、インディアンキャンプを襲って男と女を皆殺しにして遺体の一部を切り取って弄ぶ光景は、
 第二次大戦中、南太平洋の戦場で、アメリカ軍兵士が日本軍兵士と日本人居留民にしていた光景とそっくり同じである。それを大西洋を単独で初めて横断した飛行士であるリンドバーグが報告している。「ヨーロッパでナチスがしていることを太平洋ではアメリカがしている」と。
 今でも、アメリカでは、南太平洋から「贈り物」として送られ持ち帰られた日本兵や日本人の頭蓋骨や骨から造ったアクセサリーが多くあるはずだ。
 
 また、アメリカは我が国の「戦犯」を多数殺したが、その遺体を遺族に引き渡さなかった。東条英機ら七名の遺体は灰にされ海に捨てられた。他の戦犯として処刑された人々の遺体もアメリカはどこかに投棄した。
 これと、同じことを、アメリカはオサマ・ビン・ラディンにした。遺体をどこかに捨て去るアメリカの理屈も全く同じだ。

 以上が、オサマ・ビン・ラディン襲撃殺害作戦に関し、思ったことだ。指の動くまま入力した。
 ジェロニモという名前が出なかったら此処まで書かなかった。
 しかし、アメリカがジェロニモを作戦名にしたことで、彼らのマインドの底にある本質が分かったのだ。
 アメリカは、狡猾で残忍な手法でインディアンを討伐していた時から変わっていない。アメリカこそ、要注意である。
 これだけでは片手落ちだ、嘘つきで狡猾で残忍なシナは、もっと変わっていない。アメリカ以上に、要注意である。

 同胞諸兄姉、我々は、実に、此の東西に「要注意」が位置するその真ん中に存在する。まことに、のっぴきならない状況である。
 しかし、西はチベット、ウイグル、モンゴルそして満州の無念を思い、東はインディアンの無念を思い、ジェロニモを見習って断固として独立自尊を貫く体勢を構築しなければならない。
 それが、日本民族の世界史的使命である。







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