【本郷和人の日本史ナナメ読み】(9)
豊臣秀吉から近江水口(みなくち)4万石を与えられた石田三成は、その半分の2万石をさいて島左近を召し抱えた、というエピソードがあります(『常山紀談(じょうざんきだん)』)。島左近は名を清興(きよおき)といい、大和の筒井家に仕えて「左近・右近」と称された有名な侍大将でした。もう一人の右近は松倉重信で、彼の子の重政はのちの肥前島原藩主。苛酷(かこく)な取り立てとキリシタン弾圧を行って、島原の乱を引き起こした人物です。
ただし、調べてみると、これはどうやらフィクションらしい。まず三成は水口城主にはなってない。また左近が石田家に仕官した時点で、すでに三成は近江佐和山19万石を得ています。三成が左近を厚く遇したので、こういう話が出来上がったのでしょう。
似たような話は、もう一つあります。渡辺新之丞(しんのじょう)という豪傑がいて、10万石くれなければ仕官はしないと公言していた。いくら豪傑でも10万石はあり得ませんから、要するに「もう宮仕えはごめんです」という事実上の引退宣言ですね。いろいろなところから誘いはあったのですが、みな「10万石に足らない」と断っていた。ところがこの新之丞が、たった500石取りの若き日の三成の家来になった。
驚いた秀吉が三成に尋ねます。どういう手品を使ったのだ? 三成はすまして答えます。いやなに、わたしが将来100万石の大大名になった暁にはおまえに10万石やるから、と約束して、召し抱えたのです。ほう。では今のところはどれほどの禄(ろく)を与えているのだ? 500石です。ええっ、それはおまえの俸禄(ほうろく)のすべてではないか。はい。ですからただいま、わたしは渡辺の家に居候をしております。
こののち出世した三成がいくら加増しようとしても、殿が100万石の大名になったときに10万石いただきますから、と新之丞は500石のまま奉公し、関ケ原の戦いで奮戦し、討ち死にを遂げたそうです。この話ももちろん史実ではないでしょうが、家来を大事にする三成の様子を描いていて興味深い。関ケ原の戦いにおける石田隊の戦いぶりは凄(すさ)まじいものでしたから、三成は本当に良い主君だったのかもしれません。
この新之丞、『佐和山落城記』という史料には、関ケ原から落ち延びる三成に付き従う家来の一人、渡辺勘兵衛としてでてきます。渡辺勘兵衛といえば、もう一人有名な豪傑がいた。槍(やり)の勘兵衛とうたわれ、さまざまな合戦で武功を立てた渡辺了(さとる)です。
こちらの勘兵衛、実に転々と主家を変えている。生国近江の阿閉貞征(あつじさだゆき)を振り出しに、羽柴秀吉、中村一氏(かずうじ)に仕える。秀吉の小田原攻めに際しては伊豆の山中城の戦いで一番乗りの手柄を立てるも、恩賞が少ないと中村家を出奔し、増田長盛の重臣となる。関ケ原の戦いの後に増田家が改易(かいえき)されると、伊勢の大大名、藤堂高虎(たかとら)に仕え、2万石という破格の待遇を受けます。でも、結局ここも辞めて、浪人のまま京都で没しました。
江戸時代には「忠臣は二君にまみえず」「君、君たらずとも臣、臣たれ」などと堅苦しいことを言いますが、それ以前の主従関係では、主人と家来の人間的な結びつきが、決定的な意味をもっていたようです。
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その後の石田三成一族
石田三成の肖像画(東京大学史料編纂所蔵)。青森県の杉山家に伝来した肖像画を模したもの。石田三成の次男である重成は杉山源吾を名乗り、弘前の津軽家に重臣として仕えた。津軽家は2代藩主信枚が三成の娘、辰姫(秀吉正室、高台院の養女)を妻としてもおり、三成の血は津軽家に受け継がれている。徳川幕府が三成の血筋を断とうとしていない点は注目に値する。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。