【萌える日本史講座】 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





はるか福井から都入り、なぞ多い継体天皇。



 武烈天皇の後継として、はるばる福井県から呼ばれ、即位した第26代継体天皇のお墓とされている今城塚古墳(大阪府高槻市)が今春、公園として整備された。古墳時代の天皇で唯一、淀川流域に墓を築いた継体天皇は、どんな人物だったのだろうか。


                                        (栗井裕美子)




白羽の矢


 


 畿内を中心に勢力を持っていたこれまでの天皇家とはおもむきが異なる継体天皇。当時、王族内では、勢力争いが行われ、雄略天皇の次の清寧天皇が即位後まもなく亡くなり、王統の断絶の危機に見舞われた。

 そのあと、2代続けて履中天皇の血を引く皇子が継いだが、その次の武烈天皇に子供がおらず、再び王統の断絶の危機に直面した。そこで白羽の矢が立ったのが継体天皇だった。

 故郷の越前で大規模な治水工事を行って、豊かな穀倉地帯に変えた。7人(9人)の妃をめとり、近江、尾張、関東地方などに影響力を広げた。当時の政権の中枢にあった勢力とも手を携えたという。

 継体天皇は、即位を求める大臣らの懇願を数度断るが、結局、「みんな推してくれているのに背くわけにはいかない」と承諾した。




即位から約20年後に大和入り


 


 継体天皇は、天皇家との血筋を固めるため、仁賢天皇の娘、手白香皇女(たしらかのみこ)と結婚した。

 継体天皇は、まず大阪府枚方市の樟葉に宮を置き、数回遷宮した。磐余玉穂(いわれのたまのほ)宮(奈良県桜井市)を設けて、大和入りを果たしたのは、即位から約20年後で、崩御するわずか数年前だったという。死亡した年齢については諸説あるが、日本書紀は、82歳としている。

この点について、高槻市立今城塚古代歴史館の事務長、宮崎康雄さんは「継体天皇は、大和に入れなかったというより、淀川流域を支配してから大和入りをしたと考えることもできます」と話す。

 当時、大和盆地に築かれた宮から大阪湾に出るには、大和川か、淀川の2ルートがあった。大和川は、舟が通りにくい難所があり、大きな荷物を運ぶには、淀川ルートが重宝していたという。




伝統取り入れながら「自分らしさ」


 


 日本書紀には、継体天皇を「藍野陵(あいののみささぎ)に葬りまつる」と記述され、宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体天皇陵として指定している。

 高槻市教委によると、太田茶臼山古墳の近くに安威川が流れており、平安時代に周辺の地名が「摂津国島下郡安威郷」とされていたことなどが根拠という。

 実のところ、今城塚古墳は、慶長元(1596)年に発生した伏見大地震で墳丘が壊滅的な被害を受けた。

 陵墓指定を受けなかったことから、高槻市が、宅地開発の波から古墳を守ろうと、古墳を公園として整備。歴史館も併設して、今春オープンさせた。この事業に伴い、大王級の墓では珍しい大規模な発掘調査が行われた。

 今城塚古墳は、全長約190メートルで、二重の堀に囲まれた前方後円墳。6世紀前半に築かれた古墳のなかでトップレベルの大きさを誇り、継体天皇が強大な権力をもった人物であったことをうかがわせる。

 埴輪数百体を並べた祭祀場は、日本で最大級のもので、日本で最も大きい家形埴輪をはじめ、巫女、牛馬、水鳥、力士などさまざまな種類がそろえられていた。

 ほかの古墳では、小規模なものしか見つかっておらず、今城塚古墳のような大規模な発見は初めて。大王級の葬送儀礼の様子を知る手がかりになるとして、学会から注目されている。




古墳は市民の憩いの場に


 


 公園化された現在は、祭祀場は、レプリカで再現されている。厳かな雰囲気を漂わせており、秦の始皇帝の墓から見つかった兵馬俑(へいばよう)を思い起こさせる。

 兵庫県高砂産の竜山石、熊本県宇土産の馬門石、奈良県の二上山で採れる白石が見つかり、石棺は3つあったと考えられている。遠い国から、棺用の巨大な石を運ばせるのは、途方もない労力のいる作業。このような巨大な公共事業ができたとは、相当な権力だったことがうかがえる。

 古墳には、新旧の技術が織り交ぜて採用されている。横穴式石室を取り入れたが、従来の竪穴式石室の設計にならって、後円部の最上部に石室を置いた。最上部に置くと、石室の重みで墳丘が崩れるという危険性があるが、小石を敷き詰めるという最新技術を施した。

 さらに、墳丘が雨水で崩れないように、墳丘内に排水用の石組みの水路を設けた。一方で、前方後円墳のくびれ部の両側にステージ「造出(つくりだし)」を設けて、伝統的な前方後円墳のしきたりに習った。

 宮崎さんは、「新しい技術をとり入れて自分らしさを主張する一方で、伝統をとり入れることで『自分が正統な天皇である』ということをアピールしたかったのでは」と推測している。

 さまざまな謎が取り巻く継体天皇。天皇が残した古墳は、現在、市民の憩いの場となっている。

 古墳の周囲は遊歩道となり、内堀の一部は芝生がひかれていた。墳丘内は自由に散策でき、子供たちが探検ごっこをしていた。

 「子供たちが、今城塚古墳で遊んだ記憶を、いつか思い出してくれて、さらなる興味がふくらむかもしれない」と宮崎さん。

 古墳の大きさを体感し、古代に思いをはせることができる新スポットと言えるのではないだろうか。



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           埴輪の祭祀場がレプリカで再現されている=大阪府高槻市の今城塚古墳公園



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           今城塚古墳から出土し、復元された埴輪=高槻市立今城塚古代歴史館








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