【国をたどりて~国境と領土の考古学】第2部(3)
「店内飲食禁止」。長崎・対馬のコンビニエンスストアには、ハングルによるそんな注意書きが目立つ。ホテルのロビーでは、大声で携帯電話をかける韓国人男性の姿も。
対馬への韓国人観光客は、韓国からの直行便増加に伴い、平成16年の2万人が、20年には7万2千人となり、対馬市の人口3万5千人の2倍に上った。
島民と韓国人の摩擦はマナーだけではない。「対馬も竹島も韓国だ」。島内の神社で2年前、ハングルで書かれた絵馬がつるされていた。市役所前では韓国の若者らが「対馬は韓国領」とシャツに書いてアピールすることもあった。
対馬が危ない-。4、5年前から、日本国内でそう言われ出した。「韓国人は対馬に対し、古代に米や先進文化を教えてやったという優越感がある。それが領土意識につながっている」。ある住民は朝鮮半島との微妙な関係を話す。
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対馬について最も古い記録は1800年前の魏志倭人伝。「山険にして深林多し。良田なく、船に乗って南北に市糴(してき=交易)す」。山林が島の90%を占め、稲作が困難なため米を輸入し海産物を輸出したことが記されている。
市教委によると、対馬の弥生時代の遺跡では、稲刈りに使う石包丁は2点しか出土していない。本州ではありふれた石包丁が少ないのは、稲作がほとんど行われなかった証しという。
「私の先祖は明治時代、釜山に米を買い付けに行っていた。島は常に米が不足していた」と、島で商店を営む太田憲三さん(63)。朝鮮半島に米を頼る生活は、昔話ではなかった。
かつて「米の道」だった朝鮮海峡は今、釣りや日本製家電目当ての韓国人観光客を運ぶ。友好の架け橋は、時代を超えて築くことができるだろうか。
「本土との140キロの距離は、いくら英知を結集しても縮まらない。交流なくして島の発展が望めないことは歴史が物語る」と言う財部能成(たからべやすなり)対馬市長。「先人が歯を食いしばって守り受け継いだ島のすべてが貴重な財産。隔絶された国境の島ならではの魅力を開拓したい」と強調する。
陸上自衛隊対馬駐屯地で警備にあたった郷土史研究家の小松津代志さん(63)も「魏志倭人伝では『市糴す』と書いている。しっかり国境を守りながら、韓国からどんどん人に来てもらう。それがこの島の生きる道なんです」。
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対馬の人々が暮らしの中で感じる「領土の重み」。それは国境の島だけに求められる意識ではない。
かつて対馬で大量の銅矛が発掘されたころ、本土では占領軍の厳しい監視下で遺跡発掘さえも制約されていた。日本の領土も民族のアイデンティティーも、危機にひんした時代であった。
対馬北端から望む朝鮮海峡。韓国・釜山の山々が見えることもある
(手前は航空自衛隊海栗島分屯基地)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110507/plc11050708010011-n1.htm