陛下のご慰問 改めて教わった「声の力」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【国語逍遥】(13)清湖口敏



大震災発生前の先月初旬、東京都写真美術館ホール(目黒区)で『文楽 冥途の飛脚』という映画を見た。昭和54年にカナダ人監督が、京都・太秦の撮影所に人形浄瑠璃の舞台をしつらえて撮影したものだが、国内では一般公開されることなく幻のフィルムとなっていた。

 「文楽ファン待望のシネマ」と呼ぶにふさわしく、今は亡き吉田玉男さんや竹本越路大夫さんら人間国宝が懐かしい顔をそろえ、贅沢(ぜいたく)このうえない気分に浸ることができた。

 ご存じ近松門左衛門の世話物で、「新口村の段」は後世の改作『恋飛脚大和往来』を用いている。忠兵衛と大和新口村まで逃げ延びた愛人で遊女の梅川は、雪道で転んだ忠兵衛の父の孫右衛門を介抱する。すべてを察した孫右衛門が梅川に、わが子への思いや養母への義理を語る場面では、竹本文字大夫(現・住大夫=人間国宝)が腹に溜(た)めた切情を絞り出すように聞かせ、観客の涙を誘っていた。

 美しい浄瑠璃文や洗練された人形の動きに酔いながらも私は、聴衆の心の襞(ひだ)を震わせる義太夫節の語りの力、声の力に感じ入っていた。

 昨今はどちらかといえば、声の力が軽視される風潮が強まっているように思われる。今の子供は、国語の教科書も昔のように音読することが少なくなっているという。自らの声を自らの耳で聞けば、文章の内容がより深く情緒に刻まれていくことを忘れてしまっているのだろう。

 本来なら対面したうえで声を交わして話すべきことも、今では簡略なメールで済まされてしまう。絵文字で交わす挨拶の、どこに濃(こま)やかな気持ちが入り込めよう。

以前にも別のコラムに引いた話だが、司馬遼太郎は『菜の花の沖』にこう書いた。「浄瑠璃における詩的文章と語りと会話をないまぜた文学的言語の普及が、町人たちの日常語を豊富にしたし、洗練もさせた」

 浄瑠璃など芝居で使われる言葉は、目で読む言葉ではなく、耳に訴えかける言葉である。フランスの舞台女優、サラ・ベルナールは、メニューを読み上げるだけで人々の感涙を誘ったそうだ(山内志朗『哲学塾〈畳長さ〉が大切です』)。さすがにこれは極端な例としても、声がいかに人を感動させる力をもっているかについては疑う余地はなかろう。

 言葉は、文字列としての情報のみから真意がくみ取れるほど単純なものではない。「嫌い」という言葉も、文字列を読むだけでは辞書的な意味を超えてとらえることは不可能だが、声を伴う「嫌い」には、その高低や抑揚、間合い、響き、さらには口元に一瞬浮かべる喜怒哀楽の表情などから、時に「好き」の意味ももち得ることを私たちは経験的に知っている。現代人はもっと、声による気持ちの交流を大切にすべきである。

 今回の大震災に際して天皇陛下は、異例ともいうべきビデオメッセージを発表された。また皇后陛下とともに避難所を訪れ、被災者に気持ちを寄り添わせるように床に膝をつき、お声をかけて回られた。

 陛下からの直接のお声は、被災者にとって大きな励みになったことだろう。ありがたさに涙を浮かべる人もあったという。

 そんな記事を読みながら私は、声や姿勢も言葉そのものであるという真実を、あらためて陛下に教わったような気がしたのである。