【産経抄】4月4日 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







東日本大震災は、日本経済を支える自動車産業にも大きな打撃を与えた。被災地にある100社近くの自動車部品メーカーが、供給不能に陥ったからだ。その自動車産業の歴史をさかのぼると、大正12(1923)年の関東大震災に行き着く。

 ▼外国製の自動車が復旧に大活躍するのを見て、トヨタグループの創始者、豊田佐吉が、息子の喜一郎に国産自動車の製造を勧めたといわれている。一方、ホンダの創業者、本田宗一郎は当時、東京都内にある自動車修理工場で、見習い奉公をしていた。

 ▼発生と同時に近所から火の手が上がり、預かった自動車を安全な場所へ運ぶように主人からいわれた。自動車を運転する初めての機会を得て、本田少年は内心しめたと思う。同僚の修理工はほとんど田舎に帰り、あらゆる修理をまかされたおかげで、随分腕も上がった。そんな青春の日々を、後年懐かしそうに語っている。

 ▼菅直人首相は先週末、有識者や地元関係者からなる復興構想会議を設置する考えを表明した。くれぐれも行政側の押しつけによって、民間のエネルギーをそぐようなことはやめてほしい。戦後、業界を統制しようとする旧通産省に徹底抗戦した本田なら、クギを刺しておきたいところだろう。

 ▼防災計画についても、一家言あったはずだ。昭和20年の終戦前には、故郷の浜松市でも大地震に遭い、自分の工場を失った。震災の恐ろしさは身にしみている。

 ▼東京・南青山にあるホンダの本社ビルは、全部の階にバルコニーがある、ユニークな形をしている。「どんな地震が起こっても、ガラスが外に落ちて迷惑がかからないようにしてくれ」。これが本田がつけたたったひとつの注文だったという。