wikipediaより。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)は、第二次世界大戦 時に行われた、アメリカ軍 による大阪 への戦略爆撃 ・無差別攻撃の呼び名である。
1945年 3月13日 深夜から翌日未明にかけてに最初の大阪空襲が行なわれた。大阪ではその後、6月1日 、6月7日 、6月15日 、6月26日 、7月10日 、7月24日 、8月14日 に空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。
第1回大阪大空襲-1945年3月13日・14日
1945年3月13日23時57分 - 14日3時25分(日本時間 )の約3時間半にわたり行われた。B29 が274機襲来。米軍 の照準点は、北区 扇町、西区 阿波座 、港区 市岡元町、浪速区 塩草。グアム からの第314航空団の43機が23時57分 - 14日1時にかけて大阪上空に達した。夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機がナパーム弾 (大型の焼夷弾 )を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した48個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアン から第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらにサイパン から第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区は米軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。この空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ奈良県 や亀岡盆地 側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。
地下鉄による避難
3月13日、14日の大空襲は深夜に行われた。難波、心斎橋は猛火に包まれており、既に避難の術がなかった。通常、この時間には地下鉄 は営業しておらず、駅の扉も開いていないはずであった。しかし、このときに心斎橋駅 や本町駅 [1] 、大国町駅 に入り、電車に乗って避難したという体験者が複数存在する[2] 。
この話は長く知られてこなかったが、1997年 3月に朝日新聞 の「声」欄に、京都大学名誉教授の村松繁による心斎橋駅から電車に乗って梅田に逃れた体験談が掲載された[3] 。これを受けて大阪市交通局 の労働組合 (大阪交通労働組合)が調査を開始した。しかし、交通局には戦争末期の市営交通に関する資料がほとんどなく、当時の証言を集めることとなった[4] 。この動きを知った毎日新聞 大阪社会部の記者が同年7月、記事を掲載するとともに、情報提供を呼びかけた。毎日新聞は同年10月23日に調査結果と分析を掲載した。組合は1998年3月に機関紙「大交」に2回にわたって記事を掲載した[5] 。
毎日新聞によると、電車に乗った時間帯は午前3 - 4時頃と5時前後に大きく分かれる。前者は心斎橋周辺で駅に逃げ込み、「梅田 の方は燃えていない」と誘導されて乗車。後者は空襲直後に駅構内に入り、「一番電車が出る」と言われて乗車したという(こちらは天王寺駅 行きに乗ったという証言もある)。駅構内に入ることができた経緯については、「憲兵 が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)、「駅員を説き伏せてシャッターを開けさせた」(大国町駅)、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)など状況は一様ではないが、駅員の判断により駅構内に避難させていたと推測された。また、大国町駅から「一番電車」と駅員に聞いて乗った証言者は「それまで電車は全く見なかった」としたため、同紙は午前5時頃の電車は始発電車、午前3~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」とした。
一方、「大交」の記事では当日に駅や列車で勤務した職員の証言は得られず、翌日の出勤だった関係者はいずれも「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」と証言した。また、終電のあと送電は止めることになっていたが、当日心斎橋変電所に勤務していた職員が「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」と証言したことで、少なくとも電車を動かすことが可能な状況であったことが判明した[6] 。避難列車について運転手の組長だった元職員は「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る『お送り電車』ではなかったでしょうか」という推測を述べている。
この避難列車については、NHK が1998年3月29日に「列島リレードキュメント」の中で「空襲の夜 地下鉄は走った」と題して放送[2] 。それから9年後の2007年7月25日深夜にフジテレビ がNONFIX で「千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか」と題して取り上げた[7] 。番組では証言や分析をふまえながら新たな検証を試み、運行に不可欠な運転手の確保については、(地下鉄構内を貯蔵場とする)非常用物資の移動のために、初電の前に業務用に電車を走らせた可能性もあるとした。また、終電後の送電については、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという元職員の証言を紹介した。そのうえで証言や記録から、空襲警報解除後の交通機関に対する救援指令で運行された電車[8] 、もしくは初電前の職員輸送用の電車が避難民を発見して輸送したのではないかという仮説を立てたが、決定的な証拠は得られなかった。関係者側の証言がほとんどないことについて、出演した元運転手は「人を助けるのは職務上あまりにも当然のことであり、特別のことではないから、当人達に特別な事をしたという意識がなく、そのため証言が出てこないのではないか」と語っている。
一方、1997年の調査にあたった組合内の公営交通研究所の担当者は、2009年の新聞記事で「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と述べている[9] 。