「西村眞悟の時事通信」 より。
三月十日に書きこまねばならなかったが、本日書き残しておきたい。
我が国家の再興の要は、歴史の回復である。従って、三月十日は如何なる日であったか、思い起こすべきである。
昨日の、午前六時台のNHKのラジオ番組「今日は何の日」は聞かなかったが、まず
「六十六年前の今日、アメリカ軍によって東京が爆撃され、民間人十万人以上が焼き殺されました」
そして、
「百六年前の今日、日露戦争におけるロシア軍三十一万人と日本軍二十五万人が東西百キロにわたる前線で激突した奉天会戦において日本軍が勝利しました」
という放送が為されたのであろうか。
本年一月七日の「今日は何の日」では、昭和天皇が崩御された日だと放送されていたが。
まず、明治三十七・八年戦役、即ち日露戦争における最後の陸戦である奉天大会戦は、世界陸戦史上最大規模の会戦となり、遂に三月十日午後三時、第二軍麾下の歩兵第三十七連隊第二大隊が奉天城に突入して城門に「日の丸」を掲げた。
日本軍二十五万人は奉天に集結したロシア軍三十一万人と三月一日から激突し、十日間にわたって押し続け、遂に奉天から退却せしめた。
乃木第三軍は、日本軍左翼からロシア軍を圧迫して奉天に迫ったが、ロシア軍が三十分ごとに貨車に兵員を満載して退却してゆくのを眺めるだけで追撃できなかった。弾薬がなかったからである。この無念、痛恨の思いが乃木将軍の明治天皇への殉死につながってゆくとも言われている。
とはいえ、三月十日、三十七連隊は奉天に日の丸を掲げた。
よって、以後、この日は「陸軍記念日」となった。
仮にこの日、我が軍が奉天においてロシア軍に打ち破られておれば、諸兄姉、我々は日本人として生まれてはいなかった。
日露戦争は、五百日に及んだ。日本陸軍は、奉天会戦に至るまでに、旅順要塞攻防戦で約六万人、遼陽及び沙河の会戦で四万四千、合計十万を超える兵員を失っていた。
そして、陸戦最後の奉天の会戦で一挙に七万の兵員を失っている。まさに記憶されるべき民族の運命の日ではないか。
また、奉天に最初に日の丸を掲げた三十七連隊を記憶されたい。
この連隊は、大阪の部隊で、戦後、自衛隊になっても同じ連隊ナンバーを引き継ぎ大阪・和歌山の「郷里の連隊」として、
現在、大阪府和泉市信太山に陸上自衛隊第三十七普通科連隊として駐屯している。
普通科とは歩兵のことである。
(では、初めから歩兵と言え。その通り)
なお、日露戦争が最終的な終結を迎えるためには、陸戦の勝利に加えて、海軍がロシアのバルチック艦隊を撃破しなければならなかった。
その日は、五月二十七日の日本海海戦、海軍記念日である。
次に、昭和二十年三月十日、東京はアメリカ軍のカーチス・ルメイという悪魔的な軍人の考案した絨毯爆撃を受ける。
この爆撃は、日本軍兵士の家族や家を焼き払い殺し尽くす為に考案された。ただ、敵の軍隊ではなく一般市民を殺すために考案された爆撃(虐殺)手法である。
まず、住宅密集地の回りを環のように火の海にして住民が逃げられなくした上で、環の中心部を爆撃して全てを焼き殺すというものである。そして、十万人が焼き殺された。
昨年の三月十日、私は、浅草公会堂の爆撃展示場の写真の前で合掌していた。
今年は、和歌山橋本のロータリーの例会で話す機会を与えられた。そこで話したことは、この東京大空襲を命に替えて阻止し、また遅らせようと戦っていた将兵がいたということである。もし、この将兵の鬼神も退く勇戦敢闘がなければ、東京都民は疎開の時間を与えられず、東京大空襲の死者は十万に止まらず、その何十倍に及んだであろう。
留守晴夫著「常に諸子の先頭に在り」(慧文社)より引用する。
突撃二日前の夜、海軍司令部付士官の松本巌は、海軍司令部守備隊の全滅を報告するために本部壕を目指して硫黄島の北地区を急いでいた。その途中で彼は中隊壕に入った。すると四十度に近い壕内からうめき声が聞こえた。そこは動けなくなった陸軍兵士が大勢集まっている壕だった。
突然、松本の足を一人の兵士がつかみ言った。
「水があったら、飲ませてくれ、もう四日も何も口に入れていない」
松本が水筒を渡そうとすると、入り口近くにいた下士官が、
「海軍さん、やめろ」、と叫んだ。
「あと二時間もすれば、俺たちは皆、火焔放射で焼き殺されて仕舞うんだ。死にかかった者に飲ます水があったら、その水をあんたが飲んで戦ってくれ。あんたは手も足もまだついている。やってくれ。我々のかたきをとってくれ。頼みます」
松本は、胸張り裂ける思いで、
「手も足もついている俺には、これからでも水を探すことができるのだから」と言って水筒を与え、後ろ髪を引かれる思いで壕外に出て半時間ほど歩いて本部号にたどり着き任務を果たした。
程なくして、中隊壕の百五十数名が火焔放射で全滅させられたという報告が本部壕に届いた。
なお、硫黄島の擂鉢山に星条旗がアメリカ軍兵士によって掲げられている写真がある。それは、昭和二十年二月二十三日のことである。
そして、この写真通りの硫黄島記念碑がワシントンのアーリントン墓地の入り口に建っている。
しかし、現実には、二十三日の擂鉢山の星条旗は、二十四日の朝には日の丸に替っていたのだ。
アメリカ海兵隊は、猛爆撃の上でその日の丸を下ろして星条旗に替えた。
ところが、二十五日の朝には、またも日の丸が擂鉢山に翻っていた。その日の丸の赤は兵士の血で染められていた。
二十六日の朝、アメリカの兵士は、固唾を飲んで擂鉢山を眺めた。しかし、三度目の日の丸は掲げられていなかった。
擂鉢山に留まって命に替えて日の丸を掲げ続けた兵士がいたのだ。
そして、硫黄島はこれから後、一ヶ月以上持ちこたえる。
三月二十六日、硫黄島守備隊栗林忠通中将は、陸海軍将兵四千名の先頭に立って最後の総攻撃を敢行し、戦死した。
日本軍戦死者 一万九千九百名、捕虜 千三十三名
アメリカ軍死傷者 二万八千六百八十六名
何故、水のない硫黄島で日本軍はここまで敢闘したのだろうか。
それは、アメリカ軍の本土侵攻を阻止して銃後の同胞を守るためである。
硫黄島が日本防御上、または日本攻略上、如何に重要な島であったか。元アメリカ海兵隊兵士に語らせよう。
元アメリカ海兵隊兵士チャールズ・ロブ上院議員は平成十年、ワシントンの硫黄島記念碑前の海兵隊発足二百二十三周年記念式典で次の如く演説した。
「硫黄島の激戦の名を口にしただけで、アメリカ国民の胸は、深い感動と愛国心故の興奮に満たされるのであります。
海兵隊の勇敢きわまる献身的戦闘によって、硫黄島の滑走路が占拠され、その結果、戦争が終わるまでに、故障した二千五百機以上の「空の要塞」が破壊を免れ、二万六千名以上の陸軍航空隊の搭乗員の命が救われることになったのであります。」
硫黄島における皇后陛下の御歌
平成六年
慰霊地は 今安らかに 水をたたふ
如何ばかり 君ら水を欲りけむ
終戦記念日における皇后陛下の御歌
平成八年
海陸の いづへを知らず 姿なき
あまたの御霊 国護るらむ
我が国家の再興の要は、歴史の回復である。
そこに英霊が今もおられる。
硫黄島の激戦の名を口にしただけで、日本国民の胸こそ、深い感動と愛国心故の興奮に満たされる!