文人・子規の武者震い。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

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【風の間に間に】論説委員・皿木喜久




今から116年前の明治28(1895)年3月3日は、俳人・正岡子規にとって特別な日となった。勤めていた日本新聞社の従軍記者として日清戦争の舞台となっていた清国の遼東半島に派遣されることになり、この日東京を出発したからだ。

 それを前に神田の社屋で壮行会が開かれた。折しも女の子のお祝い、雛(ひな)祭りの日であり、それをテーマに句を詠み合った。次は子規の句のひとつである。

 首途(かどいで)やきぬ●●をしむ雛もなし

 「きぬぎぬ」とは「衣衣」もしくは「後朝」という漢字を当てる。一夜をともにした男女が朝、それぞれ衣を身につけて別れる。「後朝の別れ」ともいう。だから「出発というのに別れを惜しむ彼女もいない」とちょっと拗(す)ねた句にもとれる。

 その一方では「オレは男一匹、戦場に行くんだ」という「武者震(ぶる)い」のようなものも感じさせる。

 しかしせっかくの武者震いも「空振り」に終わる。広島での待機が長く、大連に着いたのは4月初めだったが、すでに下関では日清両国の講和会議が始まっていた。日本軍の予想以上の快進撃のためだった。17日には下関条約が結ばれる。

 やむなく金州城、旅順など激戦の跡を訪ね、帰国の途につくが、その船上で激しい喀血(かっけつ)に襲われた。入院した神戸の病院で生死の間をさまよう。子規はその7年あまり後に世を去るが、結果的に「従軍」が命を縮めたと言えなくもない。

 だが従軍は子規のたっての希望だった。明治25年、東京大学を退学した子規は、明治を代表するジャーナリスト、陸羯南(くが・かつなん)に拾われるように彼の日本新聞社に入社する。

 そこで家庭向け新聞「小日本」の編集などにあたっていたが、2年後の27年夏、日清戦争が起きる。同僚をはじめ記者たちが次々と従軍したり、周りが戦いに行ったりするのを見て、羯南に従軍を直訴する。

 子規が結核に侵されていることを知る羯南は、にべもなく拒否する。だが2回、3回と懇願されて、ついに承諾してしまったのだ。

 「反戦平和」を売り物とする一部の現代人たちには気に入らないかもしれない。明治期を代表するインテリの子規が戦争に夢中になるとは信じたくないだろうからだ。

 確かに子規は文学の人だった。若いころ、政治や軍事にさほど関心があったとは思えない。だが戦争が始まるころになると強烈な危機感を抱く。司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』によれば、友人にあてて「もしか日本が亡びてしまいはすまいか」など思ったと書いている。

 さらに、後輩の高浜虚子と河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)にこんな趣旨の手紙を託す。

 「戦争で勝ったから、これから産業も起こる。学問芸術もさかんになる。われわれ文学者もぼやぼやしておられない」

 日清戦争は、清が朝鮮に勢力を伸ばすことに対し、日本が「異議申し立て」を行って始まったと言える。子規だけでなく多くの文学者やジャーナリスト、言論人もそのことの地政学的意味や日本への脅威を理解し危機感を共有していた。10年後の日露戦争のときもそうだった。

 北朝鮮を手なずけ、尖閣諸島など東シナ海に触手を伸ばす現代の中国の脅威は清の時代以上だ。それなのに、菅直人首相をはじめ民主党政権の人たちにはその危機感がほとんど感じられない。子規の時代に比べ異様に思える。

●●=くの字点に濁点をつけたもの