「西村眞悟の時事通信」 より。
今朝の「産経抄」は、おもしろかった。
夏目漱石や正岡子規もカンニングをしていて、それをあっけらかんとして、後に明らかにしている。
思はず頬がゆるむ。そして、回想する。人は、一度はその経験があるからだ。
私もカンニングの経験がある。想い出した。
小学校六年の時、試験の時間に前に座っている生徒の答えが見えた。それが、自分の答えと違う。そして、悩んだ末、前の生徒の答えに合わせて自分の答えを書き換えた。結果は、自分の答えが正しくて前の生徒の答えが間違っていた。書き換えなければ百点満点のところ、書き換えた結果九十何点だった。
「産経抄」の正岡子規は、英語の試験である単語の意味が分からず四苦八苦し、隣の男に「ホーカン」だとささやかれたという。そして「幇間」とした。しかし、正解は「法官」だったという。「法官」を「幇間」と訳した子規の答案は意味不明、支離滅裂だったのではないか。
私も子規と同じように、一つの単語に四苦八苦した末に、奇妙きてれつな答えを書いてしまった経験がある。
昭和四十三年三月の京都大学の入学試験だ。
その英語の試験にでてきた「デューク オブ ウエリントン」の「デューク」が分からなかった。脂汗がでてから、奇妙な訳に修まらざるを得なかった。
それは「アヒルのようなウエリントン」。
おかしな訳だとは分かっている。絶望の思いだった。今でも悔しい。何故、頭に「侯爵」つまり「ウエリントン侯爵」と出てこなかったのか、と。私の訳は、「侯爵」が「アヒル」になっていたのだから、子規の「法官」が「幇間」になっていた以上に無茶苦茶で、採点の教官は笑ったであろう。と、今でも思う。
ところで、漱石や子規のカンニングは素朴な時代のカンニングだったと思う。あくまで試験場の中の牧歌的な七転八倒の末の武士の情け的なカンニングだ。見かねた隣にいる同類が一言ささやく、またはこっそり覗かしてくれるというやつだ。私の時代もそうだった。
しかし、この度為された携帯電話で試験会場の外にいる者との通信で解答を得るというカンニングは、もう許容されるものではない。
次に、牧歌的な今想い出しても笑いたくなる例を挙げておく。
私は、大学時代、学生寮に住んでいたが、そこの○○部(武道系)の猛者で理工系の学部の寮生の一人が私とよく飲んだ。
ある日彼は準備もせずに学部の試験を受けにいった。すると教室を見回っていた同じ○○部の先輩の教授が、彼の答案を見て、
「こらお前、何にも出来てへんやないか。早う隣の奴に見せてもらえ」と言った。
また、ある学生は、学部の試験の出来が悪かった。このままでは落第するから、教授の家に単位をくださいと頼みに行くことになった。彼は、一升瓶を二本くらい持って教授宅へ行って上がり込んだ。教授も、酒好きで時間があったのか、その晩二人で二升飲んでへべれけになった。翌朝、二日酔いで頭が痛いと言いながら、彼が言った。「しもうた、名前言うの忘れた」
以上が、今朝の「産経抄」を読んで思い浮かんだこと。他の記事は、病的な国内政治の馬鹿げたヘボ将棋のような内容だった。その中で産経抄は、素朴な心温まる話題の一文だった。
次に、リビアの情勢は、内戦勃発に近づいている。カダフィー大佐に未来はなくなった。問題は、その後リビアはどうなるのかである。カダフィー亡き後、各部族がまとまれるのか。それとも部族間対立が激化するのか。
独裁体制下では必然的に特権階級が生まれる。そして、その独裁体制が崩壊した後には、かつての特権階級と被抑圧階級との抗争が始まる。まさにリビアは、そうなるのか。
このリビア及び中東の情勢については、これからも注視し続けるとして、今朝は、全く違う連想をメモとして書いておきたい。
チュニジアやエジプトそしてリビアの反独裁体制運動が起こってから、その地名を観て想い出す人名は、ロンメルだった。
ローマの歴史を知るならば、チュニジアは古代カルタゴの地だ。アフリカの北部地中海沿岸部は古代ローマの地だ。
しかし、ここでは六十九年前の日本の運命と関連があるドイツ軍司令官ロンメルのことについて触れておきたい。
第二次世界大戦において、エジプトにはイギリス軍がいて中東の石油地帯を制圧していた。
ドイツ軍の中東への道は二つあった。北のスターリングラード攻略から中東へ南下することと、アフリカ北岸を東進してエジプトを奪って中東を攻略することだった。
ロンメルは、この北アフリカルートのドイツ軍の司令官だった。
彼に率いられたドイツ軍はシシリーからリビアのトリポリに上陸し、東進してベンガジを経てイギリス軍の根拠地であるトブルクを占領して、さらに一挙にエジプト深く侵攻しエル・アラメインを攻略する。昭和十七年七月(一九四二年)のことである。
しかし、彼の東進はそこで止まり、以後後退することになる。その理由は、イギリス軍の物量がドイツ軍を凌駕したからである。
まず、北アフリカのリビアで英独軍が相対峙したとき、両軍の戦車は、英軍四二〇両、独軍二四〇両であった。この劣勢を跳ね返してロンメルはイギリス軍戦車を三〇〇両以上破壊して敗走させてトブルクを占領した。六月二四日である。
しかし、敗走したイギリス軍は直ちに増援を得て一〇〇両に減少した戦車を一六〇両まで回復したがドイツ軍は六〇両のままだった。
従ってロンメルは、戦車の劣勢を迅速な追撃で補い東進を続け、七月一日には、エジプトのエル・アラメインへの攻撃を開始した。しかし、この時、イギリス軍は既に四〇〇両の戦車を補給されていた。
その後、エル・アラメイン付近で双方は補給を得て攻防を繰り返したが、最終的に英軍は戦車二四四〇両(予備一〇〇〇両)に対して独軍の増強は五四〇両に留まり、ロンメルはイギリス軍の反撃を跳ね返すことが出来なかった。十一月三日、ロンメルは、エル・アラメインで最終的に敗退する。イギリスはエジプトを確保し得たのである。
では、エジプトのイギリス軍は、この大量の戦車(アメリカ製)をどこから補給されていたのか。それは、インド洋からである。
そこで、もし、インド洋を日本海軍が制圧していたら北アフリカ戦線はどうなっていただろうか。
確かに、我が連合艦隊は、昭和十七年前半までに、インド洋をほぼ制圧し、インド洋にいたイギリス艦隊を消滅状態に追い詰めていた。
しかし、我が国連合艦隊は、ロンメルが北アフリカを東進し始めたまさにその頃に合わせたように、インド洋をでて西太平洋に向かったのだ。そして昭和十七年六月五日、ミッドウェー海戦で大敗し、二度とインド洋に戻れなかった。
仮に、山本五十六連合艦隊司令長官が、当初の政府方針通り(開戦直前の「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する覚書」)、インド洋の制圧という戦略目標を着実に実行しておれば、エジプトにいるイギリス軍へのインド洋経由の補給は困難となり、イギリスと切断されたインドはイギリスから独立し、ロンメルはエル・アラメインを突破してエジプトのイギリス軍は崩壊した。
そして、この時点でのインドの独立は、我が国の戦争の大義を世界に明らかにして、欧米の植民地支配にあえぐアジア、アラブそしてアフリカ諸国民に民族独立への大きなインパクトを与えたであろう。
しかも、アメリカ軍は、インド洋からインド東北部を経て重慶に至る蒋介石支援ルートに物資を送れなくなり、蒋介石は対日戦争継続の前提を失う。従って、我が国歴代政府が模索してきた支那戦線での停戦が実現する。
そして、もちろん、我が国は、戦争に敗れなかった。
大東亜戦争の停戦はあり得ても降伏はなかった。
嗚呼、山本五十六提督、何故、インド洋から出たのか。
甦ってその理由を告げよ。
一昨年に、民主党反日馬鹿内閣が、インド洋での我が国のプレゼンスを放棄したときにも、「嗚呼、インド洋」と書いたが、
インド洋こそは我が国の運命に大きな影響を与える海洋なのだ。
今朝は、産経抄と内戦間近のリビア情報から、西村流に勝手に連想したことを書きました。
中学生の頃から、「西村の話題は、一挙に飛ぶなあ」と友人に言われていました。ご容赦を。