吉田打倒クーデターの幻。
■情報自体が内閣を揺さぶるための政治的意図か
それは突然の公表だった。
昭和27(1952)年4月3日、警察予備隊を担当する国務相、大橋武夫は沈痛な面持ちで記者会見場に現れた。大橋は意を決して、旧陸軍の一部将校が「様々(さまざま)な策動を行っている」と口火を切った。
いまだ反軍機運が世間に横溢(おういつ)していた時代である。記者たちはその言葉に固唾をのんだ。
吉田茂内閣の治安責任者から旧軍人たちの暗躍が暴露されたのだ。大橋は警察予備隊と海上警備隊を統合拡充する保安庁をつくる政府方針に、旧陸軍軍人らが統帥権の復活と海軍に対する陸軍支配を推し進めようとしていると批判した。
記者たちは、日本独立で連合国軍最高司令部(GHQ)のくびきがとれ、再び陸軍の亡霊がよみがえるのかといぶかった。国民はその日の夕刊1面に掲載された「旧陸海軍将校が策動 大橋国務相談」との見出しに衝撃を受けた。
「予備隊、海上警備隊の中央機構は一本にして両者の対立や、旧軍閥の復活を避けるようにしたい。このための部隊の最高指揮者(保安隊総監および海上警備隊総監)には文官をあてるという『文官優位』の原則を確立する方針のもとに一応自分の構想をまとめた。ところが機構の点については、昔のように『軍政』と『軍令』を分立し上から下まで別の系統のものとする方がよいとの考えや、部隊の最高指揮者はいわゆる武官でなくては強い部隊活動が困難であるとする考えが旧陸海軍正規将校、とくに陸軍関係者の間におこっており、政府に対する策動も相当根強いものがある。つまり“統帥権”の確立を主張するとともに旧陸軍関係者が旧海軍の方までもおさえようというねらいである」(27年4月3日付朝日夕刊)
旧軍への政府の牽制
大橋の記者会見は、「政府に対する策動」と語るだけで、いったい誰による、どんな謀略が存在しているかには言及しなかった。むしろ、これら旧軍の一部将校に対する政府からの牽制(けんせい)のようにも感じられた。
それから数日後、新聞夕刊の1面コラムは、保安隊に自派の旧軍人を採用させようとする派閥抗争が激化していると伝えた。その不透明な内容に、「暗躍の実態を国民の前に明らかにすべきだ」といらだちを示した(同8日付朝日夕刊)。
CIA解禁文書の「タツミ・ファイル」でも、彼らの主導権争いを「まるでシチリア島の仕返しや、シカゴ・ギャングの抗争のようだ」と、他の文書から転用して皮肉った。
大橋は元大本営作戦課長、服部卓四郎が率いる服部機関の動きを念頭に、クーデター牽制の一撃を投じていた。これに対し服部は、大橋らの警戒感を「何らかの誤解である」と応じた。
服部は「五・一五事件や二・二六事件は士官候補乃至(ないし)は隊付の中少尉が首謀となったもので、文官優位原則を強調する為に、クーデターを引き合いに出すのは間違い」だと続けた。
いったい、大橋発言の背後で何が動いていたのか。
このころ、服部の周りに集った人々は、独自の使命感と自己保身の微妙な心理の中で揺れていた。彼らを重用したウィロビー少将はすでに本国に帰国しており、GHQは服部に対して、資金援助の打ち切りを通告していた。
服部らは首相の吉田茂や軍事顧問の辰巳栄一が推進する再軍備を「米国型軍制の模倣」と批判し、自主的な国防力の再建を策していた。しかし、彼らは自主国防路線を唱えながら、米国の支援を前提にしているという矛盾を克服できなかった。
辰巳と元陸相の下村定(さだむ)は、吉田と服部の和解を策したことがある。辰巳は服部の能力を惜しんだ一人ではあるが、服部機関とは一線を画していた。辻政信や堀場一雄ら服部の取り巻きの怪しげな活動を警戒していたからだ(柴山太「戦後における自主国防路線と服部グループ」『国際政治』154号)。
25年春ごろにも、新潟日報に元大本営参謀の辻政信が陸軍士官学校の卒業生を集めて、「われら立つべき時が来た」などと扇動的な演説をしていると報じられていた。
当時、社会党の猪俣浩三が9月20日の衆院法務委員会で、この報道にふれて「国家を破壊すべき重大なる人物であると思うのであります。かような人物に対しての特審局の調査、監督ということが、どうも手ぬるい」と糾弾していた(有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』)。
猪俣のいう特審局は、内務省調査局として戦後に発足し、24年には法務府特別審査局となった機関である。当初は右翼や公職追放になった人物の監視が任務だったが、冷戦の進行とともに武装闘争の共産党や左翼団体に規制の輪を広げた。やがて、27年4月の講和条約が発効する直前に、公安調査庁として再スタートを切る。
10月31日付のCIA文書によると、辰巳や大橋らは、その27年ごろから服部機関によるクーデター情報をかぎ分けていた。暗殺のターゲットは時の首相、吉田茂その人であり、政権を転覆して鳩山一郎政権の樹立を目指すとの触れ込みであった。
しかし、クーデター情報の真贋(しんがん)は実のところ分からない。客観情勢を考えれば実現可能性は極めて低く、情報それ自体が吉田内閣を揺さぶるための政治的意図が込められている可能性もあった。
真の狙いは吉田への脅し
吉田はそれ以前から、軍事問題の相談役として辰巳や下村に対して、「服部機関とは縁を切れ」と命じていた。辰巳もまた、服部とのいくたびかの接触で、もはや妥協は困難であることを感じていた。
この時、下村は吉田の命に従わず、軍事顧問グループから離れていく。まもなく新聞は、服部グループの「精神的結束は下村定元大将を中心としている」と報じた。
CIA文書は7月ごろから、服部が首謀者としてクーデター計画の立案をはじめたと指摘している。これが、右翼による最初の暴力計画であると分析していた。
この計画に対して辻が、「いまはクーデターを起こす時ではない」と諭したという。辻はむしろ、「主要な敵」は吉田ではなく、むしろ日本社会党であると主張した。
こうしてクーデターは延期されたとの解釈である。
早大教授の有馬はCIA文書が作成された日付や情報源が「中国人元将校」であるところから、この人物と接触の可能性のあった辻が「服部クーデター説」を流して、服部機関排除を狙う吉田への脅しに使ったとの仮説を立てる。
警察予備隊に代わる保安隊の兵力をめぐる日米間の綱引きの背後で、なお、新しい社会の変動についていけない人々がいたのだ。彼らは首相の吉田や辰巳らが目指す米英型の軍システムを容認できず、すでに戦後体制から放逐されていた。
吉田-辰巳ライン、服部機関、米軍という三つどもえの綱引きの末に27年7月31日、保安庁法が成立した。それでも、日米関係は極東情勢の緊迫を反映して、米国の軍備増強要求と日本の値切り交渉のようなパターンがその後も続く。
28年8月に来日した国務長官のダレスは記者会見で、「韓国が日本の4分の1の人口で20個師団を養っているのに、なぜ日本がもう4個師団をふやせないのか」と不満をぶちまけた。これに対して駐日大使のアリソンは、それでも日本政府は「世論よりもまだ先行している」とたしなめた(秦郁彦『日本再軍備』)。
9月になって吉田は、このまま再軍備問題を中途半端に引きのばすと、経済にも影響すると判断した。政調会長の池田勇人をワシントンに派遣し、国務次官補のロバートソンと交渉させた。米国の軍事経済援助の受け入れと引き換えに、防衛計画を設定してこの問題にケリをつけるのが狙いであった。
なお、隔たりはあったが、池田が18万増勢を3年後と約束して終わった。日米の師団規模に違いはあるものの、10個師団にすることで一致した。=敬称略
(特別記者 湯浅博)
東京・銀座の晴海通りを行進する保安隊 =昭和27年10月15日