【宮家邦彦のWorld Watch】
エジプトが揺れている。カイロは30年前アラビア語を2年間学んだ懐かしい町。そこで今、「尊重すべきは民意か、それとも安定か」が再び問われている。状況はあまりに流動的だ。民主主義の追求はかくも困難な選択を人民に強いるのだろうか。
不満を爆発させた群衆は大統領の即時辞任と民主選挙実施を求めた。今も健全な中産階級が育っていないエジプトにおいて、大統領追放で直ちに民主化が実現するとでも思っているのか。内政を牛耳る軍部とそれを支えた米国に対する民衆の不信はかくも根深い。
ムバラク大統領は即時退陣を拒否し、その職に居座る構えだ。「今辞任すれば国家が混乱する」などと本気で信じていたのか。自分こそムスリム同胞団などイスラム過激主義の防波堤だとムバラク大統領は自負するが、欧米諸国は聞く耳を持たなかった。
それどころか、オバマ大統領はムバラク大統領を見限り、同大統領に「正しい決断」を求めた。米国だけがエジプトの進むべき道を知っているとでもいうのか。流石(さすが)は中東だ、どいつもこいつも勝手なことばかり言って。カイロの混乱映像を目にする度に暗澹(あんたん)たる気持ちになる。
今後の予測は容易ではないが、急激な改革でエジプトに民主主義が定着するとは思えない。反ムバラク勢力は統治経験のない「俺が、俺が」集団の野合だ。拙速な自由化・民主化は過激なイスラム主義活動家に絶好の機会を与えるだけだろう。
現在非合法のムスリム同胞団もムバラク大統領が主張するほど過激な集団だとは思わない。全ての政治的イスラム主義を危険視することは誤りだ。ムバラク大統領を切り捨ててでも政治的実権の温存を狙うエジプト軍上層部の方がよほど悪質ではなかろうか。
米国にも「正しい決断」を語る資格はない。1979年、米国はイスラム革命に対し有効な手を打たず、パーレビ国王を見捨ててイランを失った。2003年にはイラクに軍事介入して民主化を主導したが、結果はイラクを不安定化させただけだった。
「米国が望むのは、民主化と安定の一体どっちなんだ?」。2004年、イラク戦争直後のバグダッドで筆者は駐留米軍関係者にこう問い続けた。現在米国がエジプトで直面するジレンマは、8年前のイラクで経験した矛盾と基本的に変わらない。
民主選挙は政府の正統性を回復するための手段だ。それがエジプトの政治的安定を根底から脅かすことになっても、やはり民主化を優先すべきか。エジプト・イスラエル平和条約は中東の安定に不可欠だ。その条約破棄を訴える政党にも被選挙権を付与するのか。
いずれも答えはイエスである、いやイエスであるべきだ。しかし、このエジプトに民主化を働きかける以上は、当然その結果にも責任を負うべきである。そうでなければ、ムバラク大統領に「正しい決断」を強いる権利などないはずだ。
戦争後8年たっても、「民主化」したイラクは「安定」を回復していない。米国はそのイラクから本年末までに米軍を完全撤退させるという。イラクで実現しなかったことを、エジプトでは実現できるとなぜ言えるのか。
民主主義は大切だが、「民主化を進めれば安定が損なわれる」ジレンマも忘れてはならない。圧制に対する民衆の怒りだけでは民主化は実現しない。「民主改革」により生じた混乱で再び被害を蒙(こうむ)るのは、米国人でも欧州人でもなく、エジプトの民衆自身なのだから。
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【プロフィル】宮家邦彦
みやけ・くにひこ 昭和28(1953)年、神奈川県出身。栄光学園高、東京大学法学部卒。53年外務省入省。中東1課長、在中国大使館公使、中東アフリカ局参事官などを歴任し、平成17年退官。安倍内閣では、首相公邸連絡調整官を務めた。現在、立命館大学客員教授、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。
エジプト国旗を振りながらムバラク大統領の退陣を求める人々(AP)