【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室
聖人賢人といわれる方々の遺(のこ)された言辞はそれだけの教えがみなぎっている。
私はクリスチャンではないが、バイブルも折をみて開き読む。イエスの教えの中でも「山上の垂訓(すいくん)」は、イエスのもとに集まる人々に語りかけられたものである。その中に「幸いなるかな心の貧しき者、天国はその人のものなり」とある。貧しさというのは驕(おご)り高ぶるのではなく、また権勢を振り回すのでもない誠の謙虚さをいわれたものである。釈尊も同じような教えを残されて、洋の東西で人間にとって共通の大切な心構えを示されている。現代はこの心構えが失われているから社会に嫌なことどもが起こったり、また地球の自然環境などにも変動やさまざまな影響が出てきている。
近年、中国では長い歴史を支えてきた儒教や道教の教えが、現代社会からかけ離れているように思われ、遠ざけられていた。しかし、その教えは中国のみならず、諸外国においても必要とされてきている。『論語』(学而(がくじ)第一)に「君子は本(もと)を務(つと)む。本立ちて道生(しょう)ず」とある。根本をいい加減に思い扱っていると、枝葉末節がおかしくなってくる。どこの国でも国の憲法により、国民生活は守られている。わが国でも戦後の憲法がどうも日本の国にあっていないようで、それがために枝葉末節が乱れてきていることは確かである。国民がもっと国を憂え、将来のこの国の在り方の本(もと)をしっかり見直すべき時期にきているのではないだろうか。
国会で憲法を見直す議論をし、そして民間では有識者を交えて方向性を立てて、広く国民への関心を呼び起こしてほしいものである。この辺りで強烈な憂国の志士がリーダーシップをとって政界をかき回し、正統な論議のできる場を作れないものだろうか。自分の身心を投じてなされなければならぬ覚悟を、政界の人たちにも持ってもらいたい。
『論語』(子罕(しかん)第九)に「知者(ちしゃ)は惑わず、仁者(じんしゃ)は憂(うれ)へず、勇者は懼(おそ)れず」がある。何かにつけて惑わない人には知があり、憂えない人は仁者であり、物事を恐れずに立ち向かっていける人が勇者であるという。かつて政治のトップに立った人は、日本の国を立て直そうとこの三つの点を心に秘めてすべてに当たったといえる。そして戦後にアメリカとの対外折衝をし、日本の復興に大きな努力をもって臨んだ。日本が奇跡の復興を遂げ、世界の国々をうならせたことは、先刻ご承知の通りである。どん底まで落ち込んだ現在の状況からして、将来に対する日本人の心構えはできているのだろうかと悲しくなる。
また、『易経』に「進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず」との教えがある。前に進むだけでは猪突(ちょとつ)猛進になり易(やす)く、時には退くことが前に進むための一手段となる。一歩退(さが)って二歩前進は人生の哲学でもあると思う。しかし、人の忠告を聞いた振りをし、自己反省のない一人勝手の振る舞いをするリーダーが案外多い。
「福は内、鬼は外」と豆を撒(ま)いて節分を祝うが、何よりも自分の心の中の鬼を祓(はら)って、他の人の幸せを祈ることが先決ではなかろうか。
“豆まいて世のうさ祓い柊(ひいらぎ)に”。(せん げんしつ)