哲学回。水槽の中に1匹残った魚を守るロボットとの何気ない対話を通して、生命の定義について考えさせられます。生命とは他者に共感する能力を持ち、終わりがあり、破壊と創造を行える者。では共感能力を持つロボットは生命と言えるのかどうか?
ロボット自身は自分を生命だとは考えていませんが、2人は生きているようだと感じています。
これはテーマ的に『いぬやしき』と被るものがありますね。私たちがロボット化した犬屋敷壱郎を人間だと思えるとしたら、それはまさに共感する能力によるものだと言えるでしょう。
ここ数年、1シーズンに何十ものアニメ作品が世に送り出されるため、テーマの似かよった作品が重なることがありますが、これほどスタイルの異なる作品がテーマ性で被るのも面白いです。
ただし、今回の『少女終末旅行』の場合は単に生命とロボットの対比にとどまりません。そこからさらに進んで、滅亡寸前の都市あるいは地球全体にまで対比が及び、
果ては言葉を交わすことのできない魚との間にも共感が生まれるのです。しかも魚に共感するのが、ついさっきまで執拗に魚を食べようとしていたユーリだというのが面白いです。
つまり両者は捕食者と非捕食者の関係ですが、人間に備わっている共感する能力は、食物連鎖という自然界の鉄の掟からも人間を解放する力がある。そしてその能力の前では、人も魚も、同じ世界に生きる生命なのです。
しかし同時に、もし滅亡寸前の世界を作り出した人間たちにもっと共感する能力があったなら、自然に頼らずに生命維持可能な都市を築かなければならないほどの環境汚染は起きなかったはずだし、滅亡寸前になるほどの戦争???も起きなかったのではないでしょうか?
この能力は自然から解放されて、自由に発展する力を持った人間だからこそ、地球という巨大な生命体の中で生きていくために必要とされる能力なのかもしれません。
さて、今回の崩壊した都市と小動物、それを守るロボットと、彼らと出会う少女2人という構図は『天空の城ラピュタ』を思い出さずにはいられませんでした。
シータはラピュタのロボットを生命とは見なしていません。けれど今もラピュタを見回るロボットの姿に、シータもパズーも何かこみあげるものを感じずにはいられない。それはやはり彼らが生きていると感じるからなのでしょう。
そしてシータのセリフ。
「これが玉座ですって?ここはお墓よ、あなたとあたしの。国が滅びたのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ」。「どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」。
だんだん、この9話は『天空の城ラピュタ』のオマージュなのではないかと思えてきました。
滅びを待つ世界を舞台に
SFと哲学的思索にふける
あまりに深いお話でした( ;∀;)