そして、ぬるりと十二周年を迎えた拙ブログ。皆さまの変わらぬ御愛顧に厚く御礼申しあげます。干支が一周する間に職場を二度移り、PCを三台乗り換え、悪夢のような大河ドラマを四つ経験した私ですが、ブログは今後も変わることなく、ゆるゆるのびのびと更新して参る所存です。そんな訳で今週も十二周年&一週休み明けを特に意識せず、ごくフツーの内容でお届けしましょう。話題は二つ。まずは大河ドラマの感想から。先週分&今週分をまとめてお届けします。
源頼家「あ…ありのまま、今、起こった事を話すぜ!『俺は小四郎に呼び出された先で倒れたと思ったら、いつの間にか出家させられていたうえ、女房子供が母親の一族に攻め滅ぼされていた』! な……何を言っているのかわからねーと思うが、俺も何をされたのかわからなかった……頭がツルツルになっていた……臨終出家とか主君押込とか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……」
復讐を叫ぶ身内の暴発を抑えて、他の御家人による包囲網を構築して、文官たちの前で交渉決裂の形式を整え、妻に実家の動向を探らせ(これ、政子の立ち聞きのオマージュだよね)、父に戦後体制の主導を確約させた上での水も漏らさぬ比企討伐でしたが、ラストで棺桶に入っていないだけで死んだも同然の頼家が回復するという誰も予想出来ない事態で小四郎の努力の全てが水の泡。先日放送された『北海道道』で今は亡き佐殿が本作を『ギャグシーンが減ってどんどんシリアス化している』と評していましたが、比企能員退場回は今までのどの回よりも純然たるコメディ回ではないかと思いました。だって、めちゃくちゃシリアスにストーリーを展開しておきながら、ラストの頼家回復のシーンで今で流した血と汗と涙が全部無駄だったと判明したのですから、一本まるごと極上のブラックユーモアであったと評して過言ではないでしょう。頼家が瀕死の状態から奇跡的に意識を取り戻したのは、あの世に逝った比企能員が小四郎への嫌がらせに、三途の川岸でウロウロしていた頼家を無理やり現世に送り返したんだろうなぁ。
実際、頼家蘇生後の鎌倉の混乱は、死んだ比企が更に笑い死にするんじゃあないかと思えるレベルのグダグダっぷり。頼家の蘇生を【なかったこと】にする小四郎とか、時政に『もともと死んでいたから、元の形に戻すだけ』と頼家の暗殺を焚きつけるりくさんとか、主命と北条家の板挟みに苦しんで自ら生命を絶ってしまうスーパーネガティヴ仁田忠常とか、このタイミングで人の心を取り戻してしまったヴァイオレット・エヴァー善児とか、両親の仇にして師父でもある善児の心境を斟酌して、
トウ「一幡さま、トウと水遊び致しましょう」
と視聴者全員が『あっ(察し)』となる言葉と共に一幡を連れ去るトウちゃんとか、本当に見ていて辛かった。善児がブランコの縄を斬るのが凄くイイよね。もう一幡はブランコで遊ぶことは二度とない、縄を斬ることが一幡の生命を絶つことの暗喩でもあると同時に、善児は生命あるものを斬れなくなりつつあるという意味もありそう。個人的には仁田忠常の最期は意外であり、納得でもあり。細川重男氏が『疑心暗鬼が生んだバカげた事件』と評した出来事を史実通りにやると、視聴者が置いてけぼりにある可能性があったからなぁ。
それにしても今週は、
「頼家、生きとったんかワレェ!」
「一幡、生きとったんかワレェ!」
「比企尼、生きとったんかワレェ!」
と本来は喜ぶべき出来事が全て『前回で死んでいたほうがマシだった』という鬱展開に発展するという……何を喰ったらこんな悪魔みたいなストーリーを思いつくんだよ。いや、まぁ、頼家の件は史実で顛末を知っていましたし、一幡についても前回生死をボカした時点でこれは愚管抄ルートあるなと覚悟してはいたのですが、比企のババさまという領域外からの刃は想像つかなかったわ。これ、本人か怨霊か区別が難しいけれども、今後の展開を思うと三浦義村が秘密裏に匿っている可能性も否定出来ない。幼い善哉に延々と北条への怨みを吹き込むジンバ・ラル的存在にならんかなぁ。三浦義村のOPクレジットが前回で退場した比企能員のポジションに移動しているので、今後は主人公の悪友ではなく、敵対者として物語を引っ掻き回すのではないかと推測します。それでこそ、メフィラス星人。
次はこれ。
早朝に再放送されている1994年の人形劇。現代ではラスボスを演じることの多い関俊彦の声がモブで聞こえるとか、信西の圧倒的阿部サダヲ感とか、人形なら生首を出してもOKとかネタ的な見方もありますが、それ以上に楽しみなのは古き善き時代の歴史劇の息吹でしょうか。首をクッと動かすキャラクターの動作とか、見ていて『そうそう、昔の大河ドラマってこんなシーンがあったよね』という要素があちこちに存在します。この辺は人形を操る方が歴史劇を意識した演技をしているのか、はたまた人形浄瑠璃の表現技法が現代に続く日本の演技テクニックに影響を残しているのか。他にも人形劇という制約上、必然的な横スクロールのカメラアングルも懐かしさを覚えた要因の一つ。昨日の鎌倉殿の義村と畠山と和田別当の会議のシーンとか、真下から見上げるアングルは面白くはあるんだけど、普通の撮り方で場を保たせる基礎体力を示して欲しくもありましたので。いずれにせよ、ストーリーの重厚さや人形の表現力と同等以上にノスタルジックな雰囲気を楽しんでいるところです。
ノスタルジックといえば、原作にも登場する赤鼻や麻鳥といった庶民目線のオリジナルキャラクターも往年の大河ドラマを思い出す要素の一つですね。庶民の価値観を代弁させたり、史実では出会う筈のない人間同士を引き合わせたり、間を取り持ったりする役割として、大河ドラマでも多くのオリキャラが活躍してきました。世の中には『大河ドラマは権力者の立場から描いたものばかりで、名もなき庶民の視点に欠ける。観客に権力側の幻想を抱かせるガラパゴス作風では海外では売れない』とつい3年前に権力者目線とは程遠い『いだてん』が放送されていたことを御存じない方もおられるようですが、恐らくは海外に出張中であったか、或いは『獅子の時代』や『黄金の日日』をご覧になったことがないのでしょう。日野富子夫婦が主人公の『花の乱』も庶民目線のオリキャラが活き活きと描かれた作品でした。そもそも、彼らの唱える『海外のアップデートされた価値観』の多くは『大河ドラマにおける庶民目線のオリキャラ』のように、日本ではもうやったことのあるジャンルとしてカウントされるものが殆どで、今更、周回遅れの価値観をドヤ顔で強要されても困るというのが偽らざる本音です。
実際、この手の『海外のアップデートされた価値観』やら『欧米並みの表現規制』やらを振りかざす方々の多くは恐ろしく基本的な点を見落とすか、見ないフリをしています。先日、ネットで何かを見た時に、
「『エロ本を読むと影響がある』かどうかは否定されているのではなく、結論が出ていない。殺人犯の自白や記録を読むと『ポルノの影響』と語ったことはしばしば出てくる。そうしたことを全部すっ飛ばして『影響はない』と雑語りする人は、もっと犯罪について学ぼう」
という意見を読んで、まず、
結論が出ていないなら推定無罪
と『犯罪について学ぼう』という割に刑事裁判の大前提をガン無視した物言いに、脂肪に埋没した私のシックスパックが筋痙攣を起こしました。次に犯罪者の証言を鵜呑みにする底抜けの善良さに生暖かい視線を禁じ得ませんでした。この理屈が通るのでしたら、容疑者が『俺はアイツに唆されただけだ』という証言だけで、名指しされた人物を証拠も法的根拠もなしに同じ罪で逮捕出来ると思います。そして、何よりも『創作の性的表現と現実の性問題の因果関係は立証されていない』という、今日日ググれば幾らでも出てくる研究の数々をシャットダウン出来るネット依存性の低さに感服致しました。ちなみに最近の研究ではこれ。
『研究者たちによれば、社会問題の原因を「ゲーム」に押し付けることが、簡単であるからだと述べています。社会問題を理解するのは非常に困難な一方で、刺激的なゲームのシーンを切り出して批判することは、直感的な好き嫌いに訴えかける、お手軽な手段となります。ですが研究者たちは「簡単に(嘘だと)暴かれるような害を主張することは、やめたほうがいい」と述べています』
というオーバーキルも甚だしい一文を読んでも、尚、第三者による研究成果よりも責任逃れを目論む犯罪者の主張のほうが正しいと仰るのであれば、その御仏よりも深い慈悲の心を敬して遠ざけるに吝かではありません。
後半、随分とイヤミったらしい物言いになってしまいましたが、要するに法的理念や論理的思考や統計学的データよりもお気持ちを押しつけてくるポリコレ界隈やら表現規制界隈やらに言いたいことは、
「フィクションを規制する暇があったら現実の差別の是正に力を尽くせ。物語の表現を取り締まるよりもリアル社会の問題解決に取り組むほうが遥かに建設的だ。創作に依存しているのはオタクじゃなく、お前らのほうだぞ」
に尽きます。ポリコレはエロ・グロ・ナンセンスといった他の全ての表現と同等に尊いジャンルであって、それ以上でもそれ以下でもありません。ポリコレは進歩的な思想だから固陋な俗物に否定されているのではなく、その価値観を他人に強要するから嫌われるということを自覚したほうがよいでしょう。よし、ここ半年、鎌倉殿の感想を優先して書き切れなかったこと全部書いた。最後にいつもの画像を貼って〆る。あ、再来週は確実に休みます。来週も更新出来るか不明。