古田織部「糞馬鹿垂れぃ! この襖のいずこが『侘び』ぞ! だぁれが天道虫の部屋を造れと頼んだぁ!」
長谷川等伯「さ、されど……あの茶碗を参考にと……」
古田織部「己には『はにゃあ』とした柔渋趣(じゅうじゅうしゅ)が判らんのかぁ!」
判ってたまるか(笑)。
いや、何となくは判りますが、それを口で説明せよといわれたら、織部本人でもできてないじゃん。柔渋趣とかいう珍妙な造語でしか表せていないじゃん。ぶっちゃけ、織部もフィーリングとテンションだけで伝えようとしているじゃん。そんなわけで、織部入魂の聚楽第屋敷は極渋でも何でもない、わざとらしさ満載の襤褸風情&天道虫の部屋と化してしまいましたとさ。『万年葬式態』の細川忠興の屋敷を『若気の至り』と笑えないよね。
ここでは宗匠の反応が面白い。織部自慢の襤褸風情には思いっきり渋い顔を見せながら、長谷川等伯の天道虫柄は大絶賛。
千利休「これはよい。何とも形容しがたい珍相にございますが……金箔など用いず、誰にでも為せる面白みに溢れておりまする。誰の真似でもない、実に古織さまらしいお部屋を造られたと感心致しました」
ざぁとらしい襤褸風情はノ貫の上辺を真似ただけですが、天道虫柄には織部の個性がある。史実でも宗匠は模倣を嫌い、他人と違うことをしなさいと弟子たちに説いたといいますから、宗匠の賞賛の言葉は本心から出たものと思います(勿論、長谷川等伯の生命を救うためでもあったでしょう)。
ただし、原作では思いっきり笑える場面なのに、アニメでの迫力はいまいつつ。パンチ力不足の感は否めませんでした。まぁ、他は兎も角、あの場面の織部の言葉のテンション(説得力ではない。念のため)を山田芳裕氏の画以外で表現できるかといわれれば、絶対にムリだよねという結論に達しますから、ここは仕方がない。別の機会での挽回を期待しましょう。
織田長益「噂に聞く三層の楼閣という奴か。まさに金閣寺を意識しておる。亡き兄上もそうであったが、天下人というものは栄華を誇った足利義満公を超えねば気がすまぬらしい」
劇中でも非常に豪華に描かれていた(その分、遠影でのキャラ描写が雑でした)聚楽第。これほどの屋敷を建造しながら、秀吉は甥の秀次を葬った時に惜しげもなく取り壊させています。秀吉という人物は『外征』『粛清』『荒淫』『過度の土木事業』という中国の暴君(隋の煬帝など)がやる四大悪事の全てをやっちまった、日本では珍しいタイプの君主ですね。家康の謀略よりも、そういう悪事の積み重ねが豊臣家を滅亡に導いたといえるでしょう。ちなみに上記の三層の楼閣は聚楽第の破却工事を免れて、京の西本願寺に移築されました。『飛雲閣』という名で現存しています。
そんな暴君秀吉、そして、その主君であった信長ですらも意識せずにはいられなかったのが足利義満。日本史の教科書では鹿苑寺金閣を建てたことくらいしか教えられませんが、日本史上で最も栄華を極めた独裁君主です。よくも悪くもアクが強く、考えたことは必ず実現させなければ気がすまない。南朝を騙して三種の神器を取り返したり、配下の有力大名を噛みあわせて勢力を削いだり、仏教勢力の強訴を鼻であしらったり、挙句の果てには後円融天皇の女を寝取ったりと、まさに外道。後円融天皇の嗣子の後小松天皇は足利義満の胤ではないかという説もあったりなかったり。ちなみに後小松天皇の皇子の一人が一休宗純です。つまり、一休さんは足利義満の孫の可能性があるわけでして……頓知話やアニメで一休さんと足利義満が絡むのにはきちんとした理由があるのですね。
演出の面でいうと、秀吉の黄金屋敷では長益主従はアップを除いて常に影や水面に映るようになっている一方、宗匠の屋敷ではありのままの姿で描かれています。秀吉の力が生み出す光と影、そして、物事のありのままを捉えるという宗匠の思想が出ているんじゃないかと思いました。
豊臣秀吉「空前絶後の大茶会を開くのだ! 東西南北、あらゆる侘び数寄者を京へ集め、南蛮趣味に現を抜かす者どもに真の美を見せつけてやろうぞ!」
千利休「…………」
そういうことじゃねぇんだよ、という宗匠の心の声が聞こえてくるようでした。確かに秀吉の南蛮趣味離れと日の本の美への回帰は、南蛮人に対する政治上のパフォーマンスであり、宗匠の目指す美の本質とは何の関わりもありません。しかし、如何に己の美を世に投げかけるためとはいえ、茶道で政治に介在したのは宗匠に他なりません。一度でも関われば、二度とは無縁でいられないのが政治の世界。この矛盾を現段階の宗匠は自覚していないようです。危うい危うい。
おせん「淋しくなります、左介殿。九州から戻られて日も浅いというのに……左介殿は聚楽第屋敷へ、私や子供たちは大阪城とは……」
古田織部「堪えてくれ、おせん。他の大名も皆、妻子を大坂に置かねばならぬのだ。なぁに、京と大坂は遠くない」
合 体 !
今回も上手に濡れ場を回避しました。
全く関係のない話ですが、今回の放送の裏(といっても、同じNHK)で声優の井上喜久子さん(17)が普段、ナレーションを務めてる『爆問学問』に解説の先生役で顔出し出演されていたんですよ。私は原作を読んだ時に、おせんの声は井上さんで脳内再生していたもので、勝手に妙な縁を感じました。勿論、実際に声をあてている豊口めぐみさんの演技は素晴らしいです。役幅、広くなったよなぁ、豊口さん。今年は『Black Lagoon』(レヴィ)『スイートプリキュア』(キュアビート)『ガンダムUC』(ミヒロ)など、私の好きな作品に多数出演されているので凄く嬉しい。
今回は聚楽第の屋敷造りを通じて、宗匠の『侘び数寄』の精神が忠興や織部といった弟子たちにもうまく伝わっていなかったことを現すという、笑える場面が多いくせに実は寂しい回であったわけですが、これは劇中の宗匠が『侘び数寄』の何たるかを弟子たちに教えていないためでもあります。まぁ、それをやったら、織部が『侘び数寄』の道を極めんと試行錯誤するさまが描けませんから、物語としては当然の配慮なのですが、実際の宗匠は織部に幾つかの教えを残しています。特に宗匠が口を酸っぱくして説いたことは、
『ムダな形式に拘らないこと』
『他人(特に宗匠)の模倣をしないこと』
の二点であったそうです。劇中の『野点』の場面でも判るように、宗匠は常にフレキシブルでオリジナリティに溢れた美の探求者……否、求道者でした。ここまで書いて思い出したのが、アートサスペンス漫画の至宝『ギャラリーフェイク』で主人公の藤田玲司が宗匠の茶に関して述べた言葉です。正確な台詞は失念しましたが、
「もしも、利休が現代に生きていたら、茅葺の茶室を造ったりはしない。今時、茅葺の茶室を造るのは金銭が掛かるし、オリジナリティに欠ける。或いはコンクリートをうちっぱなしにした造りかけのビルにこそ、侘しさ、寂しさを見出すのではないか」
という主旨であったと思います。そして、藤田は建設中止になったビルの一室に畳を敷き、ミロの版画を掛け軸の代わりに使い、客をもてなしました。実際に茶道をされている方がどのように思われるかは判りません。茶道が不立文字を掲げる禅宗の教えを色濃く継いでいる以上、その本質は実際に入門してみなければ悟り得ないものかも知れませんが、私のような素人からすれば、藤田の考えは上記の『形式に拘らない』『他人の模倣をしない』という宗匠の教えに合致した面白い意見だと思います。そう考えると今回の織部の屋敷も現代人の感覚からすると、結構、侘び数寄してるんじゃね? と思えてくる……かも。『ギャラリーフェイク』には他にも『茶道における花と器』に面白い考察をした話がありますが、これも機会があれば触れてみたいと思います。
今回のタイトルの元ネタはこちら。♯2『家へおいでよ』です。
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