昨年から半年近く続けて参りました『三国志DQN四天王』企画。
管理人の七転八倒、紆余曲折、牽強付会(?)の末、
GOROTSUKIの潘璋(孫呉)
チンピラの甘寧(孫呉)
人間失格の曹丕(曹魏)
残念な子の馬超(蜀漢)
の四名が栄えある(?)四天王の座を獲得しました……が、調べれば調べるほど、次々と溢れ出す武将たちの悪行の事例。当初は多く見積もっても五~六名の中から選抜すればいいかと考えていましたが、結局、ラストの馬超を書きあげた段階で、候補者の数は上記の四天王を含めて十名になっていました。
「どいつもこいつもろくでなしばかりだ!」
と心中で愚痴を零しながら記事を書きあげましたが、いざ、書き終えてみると選から外した武将たちのことが惜しくなるもの。そりゃそうです。嫌いな武将や面白味のない文官など、端緒から候補者に入れたりしません。四天王に選ばれた四名を含めて、選に洩れた連中が私は大好きです。第一、このまま、企画を終わらせたら、選考に費やした労力と金銭と時間がもったいない。そんなわけで今回は四天王の選に洩れた不運な(或いは幸運な)候補者たちをダイジェストでお送りします。
一、何晏(曹魏)
曹丕、馬超とラストまで四天王の座を争った男。五人目の四天王である。
何晏、字は平叔。
後漢末の大将軍、何進の孫。母親の尹氏が曹操の側室になっているから、何晏は曹操の義理の息子といえる。尤も、同様の境遇である秦朗が謹直な性格であったのに対して、何晏は派手好きで他の太子たちと同じような華美な服装を好んだ。女物の装束を羽織り、顔に白粉を塗り、手鏡で己の面貌を照らしては、
「……美しい」
と南斗六聖拳の妖星のようなことを口走っていたらしい。さらに『五石散』なる麻薬と『玄学』なる現実と乖離した哲学論争に夢中であったというから、ダダイスト、デカダンス、ヒッピーの先駆けと評しても過言ではない。また、何晏の正室の金郷公主は曹操の娘であるが、一説には彼女は曹操と尹氏の子であるともいわれている。要するに異父兄妹と結婚したわけだ。実に羨ま……羨ま……けしからん奴である。
尤も、何晏は単なるナルシストのジャンキーではなかった。現代の『孫子』が曹操の注釈に基いているように、現代の『論語』も何晏の編纂した『論語集解』に基くものである。また、何晏が開いた清談の気風や玄学の思想は竹林の七賢や陶淵明、李白、杜甫の詩風に絶大な影響を与えた。彼が中世以降の儒教思想や老荘思想に与えた影響は、ロック界におけるビートルズのような存在といえるかも知れない。
「僕は新世界の神になる!」(ほぼ直訳)
という何晏の口癖も、まんざら、法螺とはいえなかった。
ただし、彼の末路は悲惨であった。曹爽、丁謐らと共に宮廷を牛耳り、思うさまに政治ごっこを堪能していたところへ司馬懿の武力蜂起が勃発。曹爽、丁謐らは軟禁ののちに投獄されてしまう。彼らの裁判を命じられた何晏は、自分だけは助かりたい一心から、嘗ての政友たちに厳罰に下すように処置したが、提出したデスノート処刑者名簿を一瞥した死神・司馬懿に、
「オメ―の名前が抜けてるよ」
と自分の姓名を書き足されて、仲間と共に刑場の露と消えた。どう見ても夜神月です。本当にありがとうございました。
何晏の言動、才能、人生は、どれを取っても三国志DQN四天王の名に恥じない(?)ものであり、一時はその座を確約されていたが、よくよく考えると、コイツのせいで誰かが死んだり、殺されたりしたわけじゃないしなぁと思い、その座を曹丕に譲ることになった。残念である。
二、虞翻(孫呉)
万人が認めるDQN王国の孫呉は武将だけではなく、文官もDQN揃いであった。その代表格が虞翻(字は仲翔)である。この男は兎に角、融通や妥協という言葉を知らない。先の記事でも書いた通り、空々しいまでの演技で孫権をマジギレさせたり、曹魏からの降将である于禁に橋田○賀子ドラマも真っ青のイビリを仕掛けたりと、自分が正義だと思った時には相手が誰であろうとも容赦しないのだ。先述の于禁が孫権と馬首を並べて外出した際、
「捕虜の分際でウチの大将と轡を並べるなんざ、百年早え―よ!」(ほぼ直訳)
と叱りつけたのは、まだマシなほうである。于禁と同じく、降将の糜芳とすれ違う時には、船の上であろうと陸の上であろうと、
「二君に仕える不忠者め! 恥を知れ、恥を!」(ほぼ直訳)
と罵倒したが、そもそも、糜芳を説得して孫呉に投降させたのは虞翻本人なのだ。また、虞翻は孫呉の長老格の張昭とも不仲であった(というか、孫呉の殆どの人間から敬遠されていた。まともに交際があったのは呂蒙くらいである。甘寧の件といい、呂蒙はホントにいい奴だよ)が、その張昭が孫権と仙人や不老不死について議論していると、
「棺桶に片足突っ込んだ老害が不老不死を語ってるよ。そんなもんがあるなら、テメ―がそんなに老いぼれるわけね―じゃん」(ほぼ直訳)
と空気を読まないにもほどがある発言をやってのけた。今度こそ完全にブチギレた孫権の命令で交州(北ヴェトナム)に左遷された虞翻であったが、別段、落ち込むふうでもなく、現地で学校を開き、多くの弟子に囲まれながら七十歳の天寿を全うしたという。
文官のDQNという貴重な人材であったが、コイツを入れたら、孫呉だけで四天王の75%が占められてしまうことと、基本、虞翻が空気を読まない発言をする時は相手のほうに非がある場合が殆どなので、四天王の座を射とめるには至らなかった。
三、孫権(孫呉)
御存じ、天下のDQN王国孫呉の首領、孫権(字は仲謀)である。
この男のDQNぶりは、これまでの記事で記してきたから、詳細な解説は差し控えるが、孫呉がDQN王国と化した要因のひとつは間違いなく、この男の性格に起因している。尤も、孫権の場合、壮年期の絶妙な外交感覚が光る分、青年期のDQNぶり、熟年期以降の老害ぶりが顕著に見えるのであろう。清の歴史家の張翼は明の洪武帝を『一身にして聖賢・豪傑・盗賊を兼ねたり』と評したが、孫権もまた、一身でDQN、名君、老害を兼ねた存在であった。
DQNな逸話の多さという点では四天王に勝るとも劣らない孫権であるが、主君クラスのDQNには曹丕がいること、そして、虞翻と同じく、コイツを入れたら、孫呉だけで四天王の枠が埋まってしまうため、選から外させて貰った。
四、楊儀(蜀漢)
曹魏、孫呉の二国に比べて、DQNが少なめの蜀漢には貴重な存在。
楊儀、字は威公。曹操が荊州を占領した際、一郡の主簿(事務長)として登用されたのであるが、思うところがあったのか、劉備の元に奔った。正確には劉備の股肱の臣である関羽の元へである。関羽は楊儀の実務の才幹を愛し、主君である劉備の元へ派遣させた。劉備もまた、楊儀の才能を評価した。
しかし、楊儀を好きになったのは、この二人だけであった。
確かに才能は高く評価されたが、楊儀は自らを恃むあまり、他人を見下す癖があったため、皆に嫌われた。劉巴という名士がいる。劉巴は劉備の義弟である張飛が屋敷を訪ねてきても、張飛を兵子(兵隊、軍人)と侮って、一言も口を利かなかったほどに名士としての高慢な矜持を鼻に掛ける男であったが、その劉巴ですらも楊儀を嫌い、閑職に左遷したというから、楊儀の人望のなさは推して知るべしであろう。
最も楊儀と仲が悪かったのは魏延である。楊儀は諸葛亮の実務を支える文官のトップ。魏延は一兵卒から将軍になり遂せた武官のトップ。豊臣政権における石田三成と加藤清正のような関係だ(三成と違うところは楊儀は文官仲間からも嫌われていたことである)。両名ともに隙あらば相手をブチ殺してやると公言していたらしいから、二人の上司である諸葛亮の心労たるや、相当のものであった。しかも、諸葛亮の陣没で両名の確執は顕在化。蜀漢軍の指揮権を巡る武力闘争にまで発展したというから、ホントにどうしようもない。すんでのところで魏延をブチ殺すことに成功した楊儀は、
「このウスノロが! まだオイタができるものなら、やってみやがれ!」
といいながら、魏延の首級にサッカーボールキックを喰らわせたものの、諸葛亮亡きあとの人事で、楊儀は軍務の中枢からハブられてしまう。常から楊儀の性格を危ぶんでいた諸葛亮は、
「威公(楊儀)みたいな嫌われものに国を託せるわけがないだろう、常識的に考えて……」
という遺言を残していたからである。この沙汰に不満を覚えた楊儀は、
「絶望した! 俺を軍務の第一線に登用しない蜀漢に絶望した! こんなんだったら、魏延と一緒に謀叛を起こすか、魏に亡命していたほうがマシだった!」
という不穏当極まりない舌禍事件を起こして、流罪に処される。しかし、全く反省の色を見せない楊儀は、流刑地から【ピー!】な上奏文を宮廷に送ったため、ついに逮捕された。楊儀は獄中で自殺したが、その妻子は本国への帰還を許された。やはり、楊儀個人が嫌われていただけであったらしい。
馬超と共に蜀漢では数少ないDQNであるが、同じ文官のDQNでも虞翻のように筋の通った為人ではなく、逸話にもコクとキレがないため、選考段階で除外された。
五、関羽(蜀漢)
この記事をご愛読頂いている戦闘勇者さんイチオシの候補者が関羽である。
関羽、字は雲長。いわずと知れた劉備の股肱の臣で、天下無双の武勇と無二の忠誠心を千載に留める三国志屈指の名将だ……が、その言動の端々にはそこはかとない可笑しみがある。曹操と劉備が関羽以上の剛勇を謳われた呂布との最終決戦に臨んだ時の話だ。曹操と劉備は呂布の籠もる城を攻撃していたが、そんな折、曹操の陣中を訪れた関羽は、
「呂布の配下に秦宜禄っていますよね……。その秦宜禄の妻の杜氏……あれ、初めて見た時……何ていうか……その、下品なんですが……フフ……【禁則事項です】。呂布を滅ぼしたら、是が非でも我が妻に迎えたい」(意訳)
と『杜氏は俺の嫁』宣言をブチあげたのである。半ば呆れながらも、同盟軍の副将の望みを無碍に断るのも何だかなぁと思った曹操は関羽の申し出を許した。ところが、味方の優勢が明らかになるにつれて、関羽は連日のように、
「杜氏は俺の嫁」
「杜氏は俺の嫁」
「杜氏は俺の嫁」
と壊れたジューク宜しく曹操に念押ししてくる。いい加減、ウザくなった曹操はさっさと杜氏を捕らえてくるように部下に命じたが、いざ、杜氏を目にした曹操は彼女の美貌に惚れ込んでしまい、関羽にナイショで杜氏を自分の側室にしてしまった。どっちもどっちとしかいいようがない。なお、この杜氏には阿蘇という息子がいた。この阿蘇こそ、何晏の項目で触れた秦朗である。
これを怨みに思った関羽は、曹操と劉備が狩りに出掛けた時に、どさくさに紛れて曹操をぶった斬ろうとしたが、劉備に制止された。当たり前だ。周りは全員、曹操の配下ばかりなのだ。曹操を殺せたとしても、復讐心に猛り狂った彼の部下たちに惨殺されるに決まっている。しかし、関羽はこの一件もネに持っていたらしく、これから十年ほどのちに起こった長坂の戦いで劉備が曹操にコテンパンに叩きのめされた際、
「だから、あん時、曹操をぶった斬ってりゃよかったんだ! そうすりゃ、こんな惨めな負けを喫することはなかった!」
と、繰り言という単語の総天然色見本のような愚痴で劉備を責めたてた。
逸話そのものは少なめであるが、世評に伝えられる関羽像と現実とのギャップだけで充分、四天王の一角を占めるに値するかも知れない。しかし、やめておいた。理由は簡単。管理人がチキンだからである。何しろ、関帝ですよ。神様ですよ。祟りが怖いじゃないですか。現今でこそ、関帝は商売の神とされていますが、もともとは祟神ですし(呂蒙の死も、彼に殺された関羽の祟りと伝えられています)、あの『蒼天航路』でも、関羽の死を描く時には祭壇を祀って、厳かな雰囲気の中で取り組んだというのに、アシスタントの一人がカッターで手を切り、大量出血をしたそうでして(要出典)……とてもじゃありませんが、DQNなどという呼称をつける気にはなれないです。ハイ。
六、司馬懿(一応、曹魏)
DQN四天王候補者のラストは諸葛亮の永遠のライヴァルにして、晋王朝の礎を築いた司馬懿(字は仲達)である。
司馬懿は兎に角、面倒臭いことが大嫌いであった。司馬懿の名声を聞きつけた曹操が彼に仕官を促したが、司馬一族は漢王朝でも屈指の名門である。乱世の宮仕えという生命懸けのマネをしなくても、充分に食っていけるのだ。当然、司馬懿の返答は、
「働いたら負けかなと思っている」
「ちょっと病気がちなもので……」
という、いい若いモンが世の中ナメてんじゃね―のか? というものであった。この回答にブチギレた曹操が(そりゃそうだ)、
「奴が寝ているベットごと、ここに運んで来い! もしくはブチ殺せ!」
と部下に厳命したため、已むなく、司馬懿は曹操の幕下に収まった。なお、これには秘話とも創作ともつかない尾鰭がついている。曹操がブチギレたのは同じであるが、病気という司馬懿の言葉を逆手に取って、
「二六時中、奴の屋敷を見張っておけ! 就寝中もだ! 少しでも元気な素振りを見せたら迷わずブチ殺せ!」
という命令を下した。尤も、司馬懿もそういう事態を予期していたらしく、毎日毎日屋敷にひき籠もり、就寝中も微動だにしなかった……ていうか、そんなことに労力を使うんだったら、素直に出仕しろよ。しかも、にわか雨で濡れそうになった虫干し中の書籍を取り込んでいる姿を女中に目撃された司馬懿は口封じとばかりに、
その女中を斬った。
そこまでして働きたくなかったのであろうか。この司馬懿の面倒臭い病は仕官してからも変わることはなく、孟達という武将が叛乱を起こした時には、
「いちいち、皇帝の許可を取るのが面倒臭い」
と皇帝の裁可を仰がずに兵を動かした。遼東の公孫淵の叛乱を討伐した際には、
「コイツら、また、逆らいそうな雰囲気なんだけれども、いちいち、こんなところまで遠征するのが面倒臭い……」
と思ったのか、現地に在住する十五歳以上の男子七千人をぶった斬ることで、完璧に叛乱の芽を摘んだ。さらに、何晏の項目で述べたように、曹爽との政争に勝利した司馬懿は、
「いちいち、監視するのが面倒臭い」
と、彼らを一箇所に押し込めたうえに、
「エサをやるのも面倒臭い」
と、満足に食事を与えず、トドメとばかりに、
「アイツらを殺す大義名分を考えるのも面倒臭い」
と、何晏に曹爽一族の処刑をお膳だてさせた挙句、当の何晏もブチ殺した。鬼か。
司馬懿の言動、才能、人生も常人の予想の斜め上をいくものであるが、何晏とは逆に読んでいるほうがドンびきするような逸話が多過ぎ、DQNというよりもラスボスに近くね? という判断から四天王入りは見送らせて貰った。過ぎたるは及ばざるが如しである。
これで『三国志DQN四天王』の企画を終了します……が、彼らを上回る人材が見つかった時には、また、記事にしようと思っています。最後に、この企画の原案を提供してくれたY氏と、この記事を御覧頂いた全ての皆さまに篤く御礼申しあげます。