今年で三年目になる当年の大河ドラマの簡易総評。今年は先月のオフ会二連荘&今月受けた手術の影響で家業の年末調整すら終わっていないので、例年以上に手短にいきましょう。
まずは採点から発表致します。
100点満点中、60点です。
『あれ? 意外と低い?』と思われる方もおられるかも知れませんが、実は『真田丸』と同じ点数。『真田丸』が『コメディベースでありながら必要な時と場合に応じて容赦なくグロい展開を盛り込む』という2010年代後半以降の大河ドラマのスタンダードを築いたように、本作も今後制作されるであろう……というか、制作されて然るべき『江戸大河』の手本になって欲しいと思い、敢えて同じ点数にしました。昨年の『光る君へ』は製作自体には意味があったとはいえ、あれが平安大河のベースになるのはチトキツいものがあったので……うちのブログの総評で60点以上をつけた作品は『鎌倉殿』しかないので、高評価と言えるのではないでしょうか。
実際、本作が『名作』とまでは行かずとも『良作』の名に値することに疑問の余地はないでしょう。俳優も役柄も大河ドラマ初お目見えとは思えないほどの存在感に溢れた主人公、ほぼ下ブレなしで安定していたドラマのクオリティ、下手なスィーツ大河のドンパチよりもヒリつく不穏な展開の連続、花の井を演じる小芝風花の魅力、蔦重&定信という史実ではあり得ない反則級タッグチームを成立させる&源内を不遇の死に至らしめた全ての元凶に特大エレキテルで天誅を下す大胆で繊細で長期的な伏線と布石の配置、世界のナベケンに成りあがりの管理職の悲哀を演じさせる配役の妙、五代目瀬川を演じる小芝風花の魅力、三年前の善児に勝るとも劣らない『テロップ自体が不穏フラグ』の丈右衛門だった男のネタ感、鬼平のイメージを一新した茶目っ気溢れる長谷川平蔵、その平蔵をメロメロ(死語)にした瀬以を演じる小芝風花の魅力……推しに対する心の声がダダ漏れになっている箇所もあるが、気にするな。私も気にしない。ともあれ、本作に関しては、
俺が褒めなくても他の誰かが俺よりも的確な言葉で褒めてくれる
という謎の安心感があるので、これ以上のワッショイは不要かと思われます。これにて『べらぼう』の総評脱稿! 終わった! 2025年のブログ更新・完ッ!
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……………………といいたいところではありますが、如何に『簡易』と銘打っているとはいえ、流石にこれだけで『総評』を名乗るのは烏滸がましいとは思わんかねと思わないでもありませんので、以下は今年の大河ドラマは良作であったという大前提を踏まえたうえで、批判……とまでは行かずとも、私なりに本作に対して思うところを述べることにしましょう。
本作は制作発表当初から『日本のメディア産業・ポップカルチャーの礎を築いた』蔦重の生涯を描くというスタンスが提示されており、事実、序盤は様々なアイデアを繰り出す吉原の新進気鋭のインフルエンサーとして描かれていたのは間違いありません。それも、主人公曰く『所詮、俺らは女に股を開かせて飯を食っている外道だから、今更正義や道徳を説く気はないが、虚栄の世界であろうと現場の人間にメシとプライドを提供出来ないのは雇用主として恥ずかしくないんか?』という言葉からも判るように『本作は単なる売らんかな主義ではなく、何のための創作なのかをキチンと掘り下げるつもりだな』と感心したのを覚えています。
ただ、日本橋に居を構えてからは吉原に居た頃よりもクリエイター&プロデューサー大河の色合いが薄くなったのは否めないでしょう。勿論、中盤以降は政治パートとの絡みも増え、蔦重一人の描写ばかりに重きを置く訳にはいかなかったのでしょうが、日本橋でのメジャーデビュー以降よりも社会的にも立場的にも資金的にも縛りのあった序盤のほうが不自由な環境の中であれこれと工夫を凝らしていいものを作ろうとする蔦重のクリエイター&プロデューサーの姿勢が窺えたのも確かです。吉原時代の『遊郭関係者にメシとプライドを供与したい』という瀬川と共有した理想が具体的で切実な事情を孕んでいたのに比べると、亡き源内センセから引き継いだ『書を以て世を耕す』という新たな理想は些か高邁過ぎて、現実感に乏しかったのかも知れません。
この第二部以降のクリエイター&プロデューサー蔦重の描写の減衰を最も端的に象徴しているのが、てい、歌麿、誰袖のヒロイン三人体制です。この三名はそれぞれに魅力的なヒロインではありましたが、しかし、ていが名実ともに蔦重のパートナーになったのは第三部以降、歌麿と蔦重の確執は第四部以降、誰袖は田沼意知絡みの政治パートに掛かり切りと、メジャーデビュー後の一番大切な時期の蔦重のプロデューサー描写の支えには間に合わず、三人合わせても第一部の瀬川のように主人公の行動原理を刺激する存在には成り得ませんでした、少なくとも第二部終了までは。
この辺はお前が小芝風花推しだからそう見えるだけやろと言われると完全に否定出来ないのですが、せめて日本橋でのメジャーデビュー直後は政治パートよりもプロデューサーパートにガッツリと尺を費やして欲しかったのも事実。極端な話、天命の打ちこわし騒動や佐野世直し大明神のエピソードを蔦重と絡めるよりも、寛政の改革が始まる以前の享楽的で開放的で刹那的な文化活動に焦点を当てるほうが、第三部以降の言論弾圧に狂奔するフンドシとの対立構造がより鮮明になったのではないでしょうか。
第二部以降の蔦重と江戸の文化人との本格的な交流も『何が蔦重を夢中にさせるまでに楽しかったのか?』が伝わってこなかったところがあります。『屁! 屁! 屁!』とか言われましても当時の人々と現代の笑いのツボは異なる訳で、このテのギャグセンスの『翻訳』に難があったというか、そもそも、森下センセ御自身が陽キャ系文化人サークルの楽しさがイマイチ判っていなかったんじゃあないかという下衆の勘繰りは拭えません。それに加えて、田沼時代の頃から主人公周辺でも大概酷い目に遭う人間が続出し過ぎたせいで、政治の舵取りがフンドシに変わっても大幅な環境の悪化を感じることが出来ず、蔦重とフンドシの直接対決も当該回は結構盛りあがったとはいえ、その場かぎりで終わってしまった印象があります。私が本作の終盤に期待していた展開とは、
規制を仕掛けるフンドシと規制を出し抜こうとする蔦重の知恵比べ
であったのですが、蔦重とフンドシの直接対立も表現を巡る信念のぶつかり合いというよりは春町先生の死はコイツの責任だという個人的な情念に帰結してしまったのが惜しい。
こうなった最大の原因はラスボス設定にあると思います。本作のラスボスは衆知のように生田斗真であり、事実、江戸中期~後期の政局におけるラスボスと呼ぶに足る人物は生田斗真なのですが、それはあくまでも歴史的視点であって、江戸のメディア王・蔦重が主人公の物語のラスボスはフンドシ以外にあり得ない。蔦重の目から時代を見る以上、ラスボスはフンドシでなければ、それは単なる『江戸時代もの』になり、蔦重が主人公という題材の意義がボヤけてしまいます。本作の終盤の問題点は主人公とラスボスの信念と信念の対決というよりも妖怪退治で終わってしまったところにあるといえるでしょう。特に生田斗真絡みの謀略は蔦重が主人公である必然性に欠けること甚だしく、少なくとも、後半以降は『江戸のメディア王・蔦重大河』というよりも、
男女逆転版『大奥』の正史Ver.
と評したほうが実情に近いのではないかと思います。この辺、森下センセも『大奥』に『引っ張られた』感があったのかも知れませんが、一方で『大奥』の脚本執筆の経験が今年の大河ドラマに活きたであろうことも確かでしょうから、痛し痒しといったところ。ともあれ、最終回がキュッと『活き』で『締まった』結末になったのは、大掛かりなフィクションよりも蔦重大河本来の主題であるプロデューサー&クリエイター路線に回帰したからに他ならないと思います、思えない?
この『蔦重大河の必然性』という点では歌麿との関係性についても煮え切らないものが残るというか……あまりにもジメジメし過ぎていて、源内センセのように『俺、男一筋なのよ』みたいなカラリとした価値観が欲しかったのよね。有り余る才能を持ちながら蔦重への想いを拗らせて転落していく歌の姿は生まれて初めて心底惚れた相手がノンケの愛妻家であったがために人生が歪んでしまったロイエンタールを思わせて、それはそれでドラマティックではあるのですが、それは蔦重と歌麿の大河ドラマのmustではない。私が二人の関係性で一番ビビッと来たのは、
歌麿「小道具を使えばキャラ立てしやすい!」
蔦重「商品とのタイアップも取れるからな!」
というやり取りでして、この種のプロデューサーとクリエイターのビミョーな観点の差が両名の決裂の理由に最も相応しいにも拘わらず、実際の破綻の原因は『ノンケ相手に拗らせた恋心』というのは作品の主題と著しく乖離していたと思います。詰まるところ、私が蔦重と歌麿で見たかったのは、
炎尾燃と仮面編集的な大人げないクリエイターとプロデューサーの譲れないガチンコバトル
であったのよね。いや、ノンケ相手に拗らせた歌の失恋も面白かったけど、それを題材にそこまでドラマティックなモノを書けるのでしたら、プロデューサーとクリエイターの価値観の衝突だって描けるでしょうに……と見ているほうが脚本家に妙な感情を拗らせてしまいそうになったものです。
毎回、総評では『当年の大河ドラマを食べ物に例える企画』があるのはご承知おきのことと存じますが、今年は、
本格インドカレー屋の絶品ハヤシライス大河
にしたいと思います。カレー屋でカレーを期待していたら出て来たのがメチャクチャ美味しいハヤシライスであったというオチ。似ているけど違う。単に私がメニューを見間違えたのか、或いは店側が注文を取り損ねたのかは意見の分かれるところかも知れませんが、出て来た料理は間違いなく、絶品であったのも事実。実のところ、この件は最近まで非常に否定的・批判的な目で捉えており、もっと厳しい総評になると自分では予想していたのですが、先月の上京の際にサシで飲んだY氏とのトークで、
Y氏「今年の大河ドラマはどーなの?」
与力「凄く面白いし、よく出来ているけど……」
Y氏「けど?」
与力「脚本家が得意分野でサラリと躱すところがあって……」
Y氏「その得意分野を求められて脚本家に抜擢された訳だろ?」
ごもっともでございます。
そー言われりゃあ、そーなんだよなぁ。得意分野で面白い作品を描いて文句をいわれるスジアイはないわなぁ。本作に対する私の不満は三谷大河に対して『コメディ要素を入れるな』と零しているようなもので無粋の極みと言われれば返す言葉もございません。ホンマ、Y氏はワイの思考の死角を容赦ない角度で的確に抉ってきおる。
ところで、今年の大河を食べ物に例える企画に関しては、もう一つ有力候補があります。森下センセの前作大河も『楠公飯大河』『ハバネロ大河』『調理実習大河』と三つの中からチョイスして頂いた記憶があるので、今回も二つ目の比喩を紹介致しましょう。それは、
鶏スープと鶏スープのダブルスープラーメン大河
です。
本作は江戸の町人・蔦重を主人公に据えながらも、田沼意次を中心とした幕府の政局パートにも積極的に尺を割いてくれました。プレ『べらぼう』とも評すべき『八代将軍吉宗』が政局パートに終始して、町人視点の担保が途中から亡霊化した近松門左衛門しかいなかったことを思うと、なかなかにバランスの取れた構成であったと思います。
しかし、実際に本作の町人パートと政局パートを見比べると作劇や世界観やテンションに大きな差が見られなかったのも事実。両方とも基本的に『最終的には人間の善意が勝つけど、それまでに罪もない人間がダース単位で退場するので、その過程を存分に楽しんでね(はぁと)』という如何にも血も涙もない森下作品で、蔦重パートと政局パートとの差別化に難がありました。まぁ、作風に関しては上記のY氏の言葉通り、得意分野を期待されている以上、それをトヤカクいうのは野暮の極みと承知していますが、それでも、多少なりとも温度差をつけることでメリハリをつけることは出来たのではないかと思います。
特に日本橋デビュー以降、江戸の錚々たる文人には筋目正しい御武家様もいましたが、町人世界とは異なる挙措や秩序を描いてこそ、身分の垣根を越える趣味の絆も際立つ訳で、町人階級のノリが『屁! 屁! 屁!』で、武士階級のノリも『屁! 屁! 屁!』では町人パートと政局パートの双方に尺を割いた意義が薄れると思うのよ。折角、町人パートと政局パートという2つのズンドウがあるのですから、各々に異なる系統のスープを用意してこそダブルスープの意味があるのに、本作は名古屋コーチンのスープと大和軍鶏のスープを合わせるようなものでメチャクチャ美味いのは承知のうえで『同じ鶏ガラ系やろ! せめて、魚介系と合わせんかい!』とツッコミたくなるのよね。
まぁ、正直なところ、難癖レベルの批判をしてきた自覚はありますが、不満点こそあれ、非常によく出来た作品であったという評価に変わりはありません。特に史実の担保がない完全オリジナルパートの完成度の高さは、制作陣の作劇能力の手堅さを示すものであり、今後の大河ドラマ、特に奈良・平安、室町、江戸中期といった戦国や幕末と比べて視聴者と制作者の間の『共通認識』や『御約束』が成立しにくい題材を描くに際して参考となる作品ではないかと思います。
最後はこちらも恒例のキャラクターランキングですが、今年は非常に面白味のない選出になってしまいましたので、短めの御紹介。
第三位は鴨平。序盤の紙花のシーンの撮影で撒き過ぎて途中でなくなるという、まさに役の将来を暗示するNGを出すなど、結果的に憑依型のキャスティングになった中村隼人さんでしたが、中盤以降に完全体鬼平として再登場を果たして以降、蔦重的にも視聴者的にも最も頼りになるキャラクターとしての地歩を盤石のものとしました。ぶっちゃけ、本作で一番成長したキャラクター。それでいて、おていさんと島田久作の漢籍トークについていけないくせにあーそーゆーことねかんぜんにりかいしたわーという表情を浮かべるとか、ホンマに可愛い。中村さんで鬼平新シリーズを撮れとかゼータクなことは言わん。彼の主演で大河ドラマ『鬼平』をやれ下さい。
第二位は主人公・蔦重。フットワークの軽さと目から鼻に抜ける頭の回転の速さ、裾からチラリと覗く鍛えあげられた無骨な脛やボコられるシーンで頭よりも首を守る格闘家・横浜流星の魅力が相俟って、セクシー系文化系陽キャ系主人公という大河ドラマ……というか、他の作品でもなかなか見ないタイプのキャラクターになりました。自分は田沼贔屓でも『佐野を拝んでコメが食えるなら幾らでも拝む』というおふくさんの言葉に神妙に頭を下げるとことか人間的にも出来過ぎているのと、余りにも才気があり過ぎて、どこまでが計算ずくか判らんところがイマイチ感情移入出来ないゼータクな主人公。『主人公の魅力が高い』のは『青天を衝け』以来やなぁ。やはり『国宝』……今年のキーワードは『国宝』!
そして、最早、わざわざ明言する必要もないことですが、
第一位 花の井&瀬川&瀬以(小芝風花)
もう彼女しかいないでしょう。個人的には『トクサツガガガ』以来、推してきた女優さんが大河ドラマで誰もが認める魅力的なヒロインを演じきってくれたことに感謝の念しかありません。実際、彼女と蔦重の青年時代がメインとなった吉原パートの完成度はダンチで、第一部だけでヤング蔦重物語として完結・パッケージ出来るクオリティでした。ぶっちゃけ、今まで縷々と述べていた本作の第二部以降の不満点も、瀬川がヒロインを務めた分の貯金でスルー出来たのは紛れもない事実であり、前半の勢いで後半を視聴する原動力になった点では、
『鎌倉殿の13人』の上総広常
に匹敵する存在であったと思います。思えない? 取り敢えず、以前発表した2000年以降の大河ドラマのキャスティングランキングベスト10は『龍馬伝』の高杉OUTの瀬川INでオネシャス。しかし、大河ドラマの好きな女性キャラクターが瀬川と人見絹江とか、あまりにもマニアック過ぎるな、ワイ。ただ、最終回は蔦重と会わなくてもいいから、せめて、顔は映して欲しかった……。
逆にワーストランキングはフンドシと生田斗真の二択になるかなぁ。いや、両名ともキャラクターとしてはよく出来ており、中の人の好演も光ったのですが、やはり、プロデューサー&クリエイター大河という本作本来のコンセプトとかけ離れた展開になってしまった要因を象徴する二人ですので。尤も、序盤に一部で取り沙汰された打ち切りハッシュタグが早々に立ち枯れ、最終回まで何事もなく放送を終えたばかりか、普段は『マンガやアニメの表現を規制するべき!』と唱えている界隈の一部にも本作を楽しんでいる視聴者がおられるのを見て、
現代にもフンドシはおるんやな
と妙な納得をすると共に、そのリアリティという点ではフンドシの描き方は正解であったと思わないでもありませんでした。スゴイね、森下佳子。
これにて『べらぼう』の簡易総評は終了。
そして、来年の『豊臣兄弟』ですが……事前期待値という点では『西郷どん』以来の低さです。いや、脚本家やキャストへの不満は現時点ではないものの、あまりにも一昨々年の『どうする家康』と題材が被り過ぎているのが興味をソソラナイ最大の理由。先日発表された追加キャストも全員を掘り下げたら後半の大納言秀長時代の尺がなくなり、掘り下げなかったら織田家の御歴々が書き割りキャラと化すという不安しかないというか……ただ、これは毎年述べているように始まる前からダメと決めつけることはしませんし、実際に見たら面白かったという事例も多々ありますので、なるべく先入観ナシに初回を待つことにします。
それでは、皆さま、少しばかり早いですが、よいお年をお迎え下さいませ。












