型を超えること 魂を吹き込むこと |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
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すでにあるものに、命を吹き込むことは難しい。

 

 

ということを、まざまざと痛感いたしました。

 

 

ちょっと抽象的になってわかりにくいかもしれないのですが。

思うところを、つらつらと書かせていただきますね。

 

柔道とか剣道とか空手とか。

そういったものには「型」が存在します。

 

こうされたらどうするとか、最初はこうするとか。

華道や茶道。

あるいは俳句とか、そういった芸術や文芸的な方面にさえ、ある種の「型」は存在します。

 

その「型」は、根拠のあるものであることが多く、尊重されるべきと思います。

この「型」を演じることは、ある程度の訓練・修練を積めば可能になるのですが、演じることとそこに命が宿ることの差というのは、とてつもなく大きい。

 

たとえば渡辺謙さんが、ブロードウェイで「王様と私」で非常に高い評価を受けましたが、かつてこの王様を演じた名優ユル・ブリンナーの存在はとても大きなものでした。

王様を同じように演じるだけでは、渡辺さんはこの過去の名優の影で、あまり評価されることもなかったでしょう。

 

しかし、渡辺さんは自らの魂の入った王様を演じ、絶賛され、次はロンドンのウエストエンドでの上演も決まっているそうです。

 

お芝居なんかもすでに台本なり、初演でない限りは「型」がすでにあるわけです。

 

この「型」に新しい命を吹き込み、「型」を越えていくというのは、並大抵のことではない。

 

というようなことを、ここのところ感じております。

 

逆に言えば、なにも「型」がないところに新しいものを作り出す方が、ある意味では簡単とも言えるのかもしれません。

まあ、それはそれで大変な苦労なんですが。

道がないところに道をつくる苦労があります。

 

どっちの方が大変だとは言い切れませんね。

 

小説なんかもそうですね。

誰かの書いたものをコピーしたら盗作ですが。(笑)

 

小説にも作法とかルールというものはあります。

もうちょっと細かいジャンルの話をするとわかりやすいのですが、たとえば推理小説だと、謎が存在し、それが論理的に解き明かされるという、本質的な構造があります。

このための「型」みたいなものは、かなりルーズで多様ですが、存在しています。

 

でも、これだとわかりにくいですね。

もっとわかりやすいたとえは、歴史小説です。

 

歴史上の人物を描こうとすると、すでにその人物については過去の様々な記録や研究の中に、かなり明確な事績がありますし、人物像もわかっていることがあります。

そういう人物に魂を吹き込み、新しい小説として命を授けるというのは、この場合の「型」に近いと思います。

 

占星術師もしかりで。

私がネット講座で、いろいろと生徒さんにお伝えしているのは、ある意味、「型」なのです。

火星と金星がアスペクトすると、ハードでもソフトでも恋愛がおきやすい、というような情報は「型」です。

でも、そのアスペクトの中に、そのアスペクトがその人物にもたらす深い意味とか、長い人生の中での意味づけとか、そういったものまで見いだせるかどうかというのは、これはもう、本当に経験と修練の積み重ねの中にしかない。

 

どんな世界にも、そのようなものはあるなあ、ということを、ちょっと痛感した数日だったのです。

 

 

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