水面下でだけ、何かが動いている。そんな気配が濃厚だった。
クシナーダはその数日、エステルと過ごすことが多かった。何をしているのだろう、とキビの巫女たちも訝るほど、二人は集中的に時間を共有していた。
その日、クシナーダはエステルを佐草の里の神域にある泉へ連れて行っていた。太い杉木立が取り囲む杜の中に、その小さな泉はあった。静かな気配があたりには満ちていて、そこに佇み、ただ息をしているだけで、清浄なものが満たされていく。
寒風の中、二人の姿は泉の中にあった。むろん、クシナーダの指示である。澄んだ水は凍りつくほど冷たく、水に漬けた足からみるみる凍りついてしまいそうだった。
「本当は全身を浸すのが良いですが、エステル様は身重ですし、これで良しとしましょう」
クシナーダは両手で泉の水をすくい取ると、エステルの頭の上から注いだ。その冷たさにエステルはびくっとなる。
「お顔を洗ってください」
言われるままにエステルは、顔を水面に近づけ、両手で顔を洗った。かがめた胸元から、彼女が身に付けている首飾りの宝珠が垂れ下がった。そして、それも泉の中に浸かった。
その宝珠は、どう見てもクシナーダたち巫女が身に付けている勾玉と同じものとしか思えなかった。
「大丈夫ですか」と、クシナーダが尋ねる。
「ああ、なんというのか……すごく心地よい」
「出ましょうか」
二人は泉を出た。持ってきていた布で足を拭く。
「これはどういう意味があるのだ」
「禊をして頂きました。穢れを洗い清めるためのものです」
「ミソギ……」濡れないようにたくし上げて衣装を戻しながら、エステルは遠くを見るような眼になった。「不思議なものだ。カナンの民にも似たような風習がある」
「さようごございますか」
「それに……前から思っていたのだ。これはなぜ、そなたらの物と似ているのだ」と、自分の宝珠を人差し指と親指で持つ。
「勾玉はずっと昔からございます」
「これは失われたカナンの神殿にあったもの。多くは略奪されたが、これだけは残され、わが一族に伝えられたという……。神を象(かたど)ったものだと聞いている」
「さあ、なぜでしょう」うっすらとクシナーダは笑ったが、その顔には答えがわかっているが、あえてあいまいにしているような表情が滲んでいた。それは勿体ぶっているというよりも、沈黙しながら提示するという、そのような姿に見えた。
身なりを整えた彼女らは、泉を離れて歩き出した。
「教えてくれないか。なぜ、そなたらはこれと同じものを持っているのだ」
「エステル様。それはあなたの言う神も、わたくしたちの言う神々も、同じ、ということではないのでしょうか」
ぎょっとしたようにエステルは立ち止まり、そして同調せずに静かに歩を進めるクシナーダを追って足を速めて追いついた。
「馬鹿な。唯一の神と、そなたらの神々は何もかも違う」
「エステル様、わたくしたちはあなたが言う唯一の神というものを否定してはおりません。わたくしたちはこの天地(あめつち)すべてを尊んでいるだけのこと。それを神々と呼ぶのです。でも、わたしくしたちは唯一の神が存在しないなどと、一度も言ったことはございません。それを意識しなくても、この天地のすべてを尊ぶ気持ちがあれば、それは同時に唯一の神を尊ぶのと同じことだからです」
「すべてを尊ぶ……」
「この空も大地も風も、そして人や他の動物たち、草木や花も、すべて尊い。わたくしたちの先祖もまた尊く、わたくしたち自身もまた尊い。エステル様やカナンの民も同じく、尊いのでございます」
「それがおまえたちの考え方か」
「エステル様、ただ一つのものを尊ぶというのもまた崇高なことなのですが、それには一つの落とし穴があるのです」
「落とし穴?」
「ただ一つのものを認めるということは、その瞬間に敵を作り出してしまう危険があるのです」
ぎくっとして、再びエステルは歩みを止めた。今度はクシナーダも立ち止まり、振り返った。
「エステル様にはもうお分かりだと思います。一つのものだけを認めるということの裏側には、それ以外のものを否定するという想いが秘められているのです。そこにもし寛容さがなければ、敵を作り出すのは必定」
「つまりすべてを尊ぶというそなたたちと、我らカナンの民はまったく逆だということだな」
「けれど、真(まこと)の神の御心に至れば、この世のすべてに神の慈愛が満ちていることを知ります。辿る道は違えど、至るところは同じなのです。その時には敵は存在しなくなっています」
エステルは眼を下の方に落とし、それから思い出すように上の方へ向かわせた。「亡くなった父から聞いたことがある。カナンの地に、百年ほど前に救い主と期待された男が現れたことがある、と。カナンの民はその男が神の使いとして、カナンを大国の圧政から解き放ち、かつての栄光を取り戻させてくれると信じて迎えた……。が、その男はこういったそうだ。
〝汝の敵を愛せ〟――と。
カナンの民は落胆し、その男を見限り、処刑台に送ったそうだ」
「エステル様、あなたがたにとって神への信仰は何物にも代えがたい大事なものとはわかります。ですが、人にはそれぞれに大事なものがございます。大切な守りたいもの、それは人それぞれにあると、今のあなたならわかっておられるのではありませんか」
そう言われ、エステルは自分の腹部に意識を向けるようなそぶりを示した。
「あなたは今、ご自分が弱くなったようにお感じかもしれませんが、そうではありません。守るべきものが、二つになってしまった。その間で苦しまれたことでしょう。でも、それは弱くなったのではなく、優しくなられたのです。そうして他のものを受け入れて行くことこそ、真の強さ……あなたは本当は強くなられたのです」
く……とエステルは両方の拳を握り固めた。
そのとき、オシヲが杜を駆け抜けてくるのが見えた。彼の後からスサノヲも歩いてくる。
「クシナーダ様!」
「どうしたのですか、オシヲ」
「カガチが動き出した! 意宇のオロチ軍が動き出したんだ!」
クシナーダはエステルを振り返り、うなずいた。そしてオシヲのほうへ向かって言った。
「わたくしたちもすぐに発ちましょう。オシヲ、皆さんに知らせて」
「わかった」
クシナーダはオシヲと共に佐草の集落へ向かって先を急いだ。それとすれ違ったスサノヲは、後からやって来るエステルをその場で待っていた。
「どうした?」と、声をかける。
「なんでもない……」エステルは涙ぐんでいたのを悟られぬように、顔を横へ向けていた。そして、小さく言った。「ああも、たなごころを指されてはな……」
「クシナーダのことか」
「不思議な娘だ。おまえが愛するのも分かる」エステルは足を速めた。
カガチの行動は、カナンに呼応したものだった。
意宇の湖の南に陣を張っていたカナンだったが、すでにこの時、非常に強い危機感に見舞われていた。タジマ水軍とコジマ水軍の内乱的な戦闘の後、カガチはコジマを完全に掃討してしまうと、すみやかにコジマの代わりに意宇の湖西側の前線基地にタジマの水軍を回らせた。このとき腹心のイオリをこの指揮に当たらせ、東西から完全にカナンを挟撃できる態勢を整えたのだ。
戦力は二分された形だが、それでもなお意宇にはタジマ本国の軍勢が六割がた残されていた。前新月以来の戦いで敗走を続けたカナンの勢力に対して、もはや相当に有利な状況だった。一気に攻め込むことができずにはいたのは、豪雪以来、不順な天候が続いたためである。
カガチにしてみれば、もはや焦る必要はどこにもなかった。ワの国に根を張った状態なのは彼らであり、時間が経過すればするほど、カナンにとっては食料の不安も生じてくるはずだったからだ。今や当初の支配地域も狭められ、カナンは意宇の湖の南にある拠点に封じ込められ、身動きできなくなっている。
その現実は、じわじわとヤイルの首を絞めてきていた。このまま時を過ごしても、事態が好転する要素は一つもなかった。彼にとっての最大の好機は、タジマ水軍とコジマ水軍の分裂を生じさせた混乱に乗じることだったが、よりにもよってその先鋒を任せるべく待機させていた精鋭部隊が、まるごと消えてしまったのだ。突撃の機会を逸したまま、その精鋭部隊がエステルのもとへ去ったとわかったのは、かなり時間が経過してからだった。
次の新月が近づき、天候がわずかばかり回復した。日差しが降り注ぐ日が続き、残されていた雪の下から地面があらわになり、ヤイルは行動を起こした。
残された戦力で、オロチとカガチを討ち果たす――もはやそれ以外の選択肢がなくなってしまったのだ。それは悲壮な覚悟を必要とする決断だったが、ここに至ってもなおヤイルにはわずかな勝算が残されていた。
「我らはこの戦いに勝利する! 神は我に見せたのだ! 勝利の瞬間を! 今こそ持てるすべての力をぶつけ、意宇のオロチどもを粉砕するのだ! さあ、馬を出せ! 我らの騎馬は敵を滅ぼし、カガチを殺すだろう! 我に続け!」
ヤイルは虎の子である騎馬を投入した。それはこの戦いが始まる以前に、わずかずつではあるが、大陸から運び込んできた貴重な戦力だった。
ワの地は山野が多く、騎馬が活躍するには、やや不向きだった。そのためこれまでの戦いでは温存されることが多かった。先進的な弓矢、剣や鎧だけで勝利できたということもあった。
カナンは拠点を離れ、東へと全兵力を移動させた。そして意宇との中間地点の山麓、わずかばかりの平野が開ける場所へ陣を構えた。背後に山を置き、そこにタジマ水軍への守備隊を配置し、戦力の大半は東へと向けた、一点突破の戦略だった。その中核となるのが騎馬隊だった。
――カガチが来るか。
ヤイルは冷や汗をずっと流し続けるような心境で待ち続けた。
――カガチよ、来い。
恋い焦がれた相手を待ち望むような熾烈さだった。もしカガチが後方で待機し、持久戦に持ち込まれたら、もはやカナンに明日はなかった。この戦いでカガチを討ち取らねばならなかった。
カヤの砦の奪還に現れたときの鬼神。あの恐るべき男が、あの時と同じように先頭に立って現れてくれることを、ヤイルは全身全霊で神に願った。でなければ、勝機はなかった。
新月となる日の朝、平野の向こうにオロチ軍は出現した。小さな川を挟んで、両軍は対峙した。
ヤイルの隻眼は、その軍勢の中にひときわ背高い男の姿を見出した。遠目過ぎて、とうていその容貌を確認することはできなかった。が、その大男の周辺に群がる軍勢の密度が、彼にそれが大将であることを悟らせた。
ごくりと喉仏が上下した。
カガチはヤイルの対岸にいた。小山を背後に陣形を整えているカナン軍を見つめると、彼は笑った。それはただの笑いではなかった。
肉食獣が久々の獲物を目の当たりにしたような、欲望と喜悦が入り混じったような鬼気迫る笑みだった。側近の一人、ミカソはその横顔を見て、心底思った。恐ろしい、と。そして同時に、カガチのような男の敵に回らずにすんでいる幸運を思った。
カガチは残らず敵を殲滅するだろう。その血をほしいままに浴びるだろう。
その真っ赤に染まった姿が、すでにミカソには見えていた。
そのカガチのはるか後方。
輿に載せられたヨサミとアカルがいた。彼女らは戦いの鬨(とき)の声が上がるのを、そこで待たされていた。
アカルは苦しげに空を見上げた。そこにある邪悪な気配を――。
勾玉をつかみ、祈るように。
「アカル様――」
隣の輿から、ヨサミが声をかけてきた。
「大丈夫ですか。お加減が悪そうな……」
「ご心配なく」
アカルの真っ青な横顔を見て、ヨサミは輿から身を乗り出しかけ、そしてやめた。この囚われに等しいタジマの巫女がどのようになろうが、自分の知ったことではない――そのように言い聞かせた。だが、無視してしまうには、あまりにもアカルの存在はまぶしかった。
彼女のつかむ勾玉が光っているのが見えた。それはヨサミにわずかに残された霊視的な感性による視覚だった。
「アカル様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」
「はい……」息をするのさえ、苦しそうだった。
なぜそうまでして――ヨサミは思うのだった。
「アカル様にとって、カガチ様はどのような存在なのでしょうか」
「カガチ……」アカルは辛そうな眼差しで、ヨサミを振り返った。「カガチはわたしの――」
後に続く言葉は信じがたいものであり、ヨサミは唖然とし、返す言葉も失った。
「アカル様に〝力〟を――」
クシナーダの言葉に、巫女たちは集まった。キビの四人の巫女とナオヒ、そしてクシナーダの六人は輪となった。そして互いに手を結びあい、意識を離れているアカルへと向けた。彼女らのそれぞれの霊能が解き放たれ、視野が拡大し、その視覚で捉えられたものが彼女らの取り囲む空間の中に浮かび上がった。アカルの姿だった。
そのそばにヨサミもいた。
ヨサミ、とアナトは呼びかけた。それはアナトの呼びかけであったが、同時に巫女たちすべての想いでもあった。
ア――――
クシナーダが最初に澄明な声を上げた。アーともハーともつかぬ、不思議なヒビキの声だった。
ア――――
アナトが続いた。わずかに声のヒビキが異なる。
ア――――
シキがさらにそれにかぶせて行く。
六人の声のヒビキが重なり合い、彼女らの中心に浄化の光が送り込まれていく。
その光はますます強まり、やがては霊的な能力がない人間にさえ、それが実感されるほどになった。彼女らの胸に下がっている勾玉が、はっきりとわかるほどの強い輝きを放っている。
彼女らのそばでエステルは、驚きをあらわにして見守っていた。
熱い、と思った。そしていつもは衣服の下に隠している宝珠が、その熱さの元だと気づき、胸元からそれを取り出した。
眼を見張った。
掌の上で、宝珠は信じられないほどの光量で輝いていた。まるで巫女たちに共鳴するかのように。
「ア――」
ためらいがちにエステルは、彼女らと同じような響きを発していた。つられるように、ごく自然に。
スサノヲは巫女たちを背後に、小高い山の突きだした岩の上に佇んでいた。
眼下に狭い平野が広がっていた。川の両岸に二つの軍勢がそれぞれに展開し、対峙している。
双方の陣営の上空に、真っ黒い霧のようなものの集まりが、いくつも点在していた。双方に四つずつ。
ヨモツヒサメたちだった。
それは地上に満ちている敵意、悪意、憎悪、恐怖などの想念を吸い上げていた。と、同時に吸い上げた想念を、その何倍もの濃度で地上に送り込んでいた。そこには「浄化」とはまったく位相を逆にした循環があった。人の「負」の想念が、ヨモツヒサメという媒体を通じることで、さらに強力な「負」へと変換・凝縮され、人へ還元されているのだった。
そしてそれを受け取った地上では、さらに濃厚な闇が広がり続けているのだ。
「いよいよですね」隣にやってきたニギヒが言った。
スサノヲはただ黙ってうなずいた。ニギヒは霊感など微塵もなく、この光景を見ることがない幸運を知らない。もし目の当たりにしたならば、この光景には絶望の感情以外、何も覚ええないだろう。このようなものがこの世に存在しているのならば、地上には地獄的な現実しか生み出され得ないはずだからだ。
あれを滅すること。
スサノヲは思った。それが自分の役目なのだと。
だが、それはまったく絶望的に思えた。圧倒的なヨモツヒサメの〝力〟の前には、スサノヲでさえなす術もなかったのだ。その方法も可能性も、まったく彼には見えなかった。
陽が中天を越えたころ、鬨の声は上がった。
カナンとオロチ。
双方の軍勢は雪崩を打つように走った。そして、無数の弓矢が空を行き交った。降り注ぐ矢に射抜かれ、次々と兵士が倒れて行く。胸を、脚を、頭や眼を、矢が突き刺さって行く。
両軍を隔てている川は、みるみる血で染まった。まるで鉄穴流しをしているかのように。
槍や剣を携えた兵士たちが累々たる屍を越え、それぞれの敵へと向かっていく。そしてさらに凄惨な殺し合いが繰り広げられた。
――ヒャハハハハ!
――殺セ! 殺セ! モット殺セ!
狂喜乱舞する上空のヨモツヒサメたち。
死の力そのものであるヨモツヒサメは、現実に生み出される死によって、さらに際限なく膨張した。そしてその〝力〟は今、一人の男に注ぎ込まれようとしていた。
ふっとカガチは笑った。「もはや待てぬわ。この剣もさらなる血を欲しがっておる」
彼は黒い霧のようなものを濃厚に身にまといながら立ち上がった。
「カガチ様、お供します!」ミカソの叫びなど聞こえていない。
身がはち切れそうなほど、殺戮への衝動が疼いている。それは性的な欲求が立ち上がって来るのにも似ていた。どうしようもないほど血に飢えた自分がいて、しかも、それを制御するすべはまったく何もないのだ。
カガチは川へ向かって歩を進めた。悠然と。
「カガチだ!」
「敵の大将だぞ!」
その叫びはヤイルの耳にも届いた。ヤイルは弓矢の部隊に命じた。
「あれだぞ! カガチに放て!」
数十という矢が放たれた。カガチは抜刀し、降り注いでくる矢を二度、三度と払った。それらはほとんど薙ぎ払われたが、うち一本だけが肩に突き刺さった。
カガチは矢を自ら力づくで引き抜いた。矢じりが抉り取った血肉をまき散らす。が――。
カナン兵たちは見た。カガチのその肩の傷は、見ている間に傷が盛り上がり、流血も止まってしまうのを。
「ば、化け物だ……」
川の中で腰を抜かしてしまう者。敵に背中を見せ、敗走する者。
カガチの肉体は常人のものではない跳躍を見せた。ふぬけのようになったカナン兵たちの首を、次々にはねて行く。あるいは鎧ごと断ち切ってしまう。
「クシナーダ」スサノヲはその時言った。「俺は行く。これ以上、カガチを放置できない」
彼の姿は岩上から消えた。
アカルに力を注いでいたクシナーダたちもその作業を中断した。
「わたくしたちも参りましょう」
「おい!」ニギヒの号令で配下の兵たちが駆け寄ってきた。
「神のご加護は今ぞ! さあ、行け! カガチの首を取るのだ!」
ヤイルの号令と共に、三十の騎馬隊が走り出した。その中にはヤイル自身の姿もあった。
騎馬隊の戦力は、この局面では圧倒的だった。押し寄せるオロチ軍の波を突き破り、カガチに向かって突進していく。
「来よったな」カガチは残忍な笑いを浮かべ、押し寄せる騎馬隊を迎えた。
フツノミタマの剣を掲げ、それを溜めた〝気〟とともに横殴りに払った。まるで瞬時に湧いた暴風のように、その剣圧が騎馬隊のみならず、あたりにいた者を吹き飛ばした。近くにいた者など、敵味方によらず、胴が分断された者さえいた。
「おお!」カガチのすぐ後ろにいたミカソは驚嘆した。
殺到していた騎馬隊の半数は、それで馬が跳ね上がり、乗っていた者を振り落してしまった。コントロールを失ったまま近くに暴走してきた馬の手綱に手を伸ばし、カガチは跳躍して、その背に飛び乗った。
圧倒的な気迫で、恐慌状態の馬を押しつぶすように制圧下に置く。
そこへヤイルたちが近づいた。ヤイルはカガチが馬上にいるのを見て愕然とした。そして、手綱を引き、馬をかろうじて立ち止まらせた。しかし、他の兵たちはそのままカガチに向かって行き――。
カガチの剣が舞った。それはもう物理的な距離など問題にしなかった。
騎馬隊の兵士たちは馬上で、一度もカガチと剣を交えることもなく、次々に腕や首が宙に飛んで行った。
それを見て、ヤイルは転進した。左は海からタジマ水軍が寄せてくる途上にあった。本能的にヤイルは右へ馬を走らせた。カガチはそれを追ってきた。
あっけないほど短時間で壊滅したカナンの騎馬隊。残された馬たちは暴走し、オロチ軍の後方へと駆け込んで行った。そのうちの何頭かは周囲を取り囲む兵士たちの中で右往左往し、それがアカルとヨサミの輿にも近づいた。
アカルの身体が宙に舞ったのはその時だった。何が起きたのか、ヨサミが気づいたのは、アカルがその馬の背に乗り、馬に対して何事か囁いている姿を見たときだった。
興奮状態だった馬は、アカルの囁きを受け、鎮まった。
「さあ、連れて行っておくれ」アカルがまた囁いた。
馬は、アカルを乗せて走り出した。
ヨサミはアカルの背が馬上で揺られているのを見、それから慌てて輿を飛び下りた。
「ヨ、ヨサミ様! どちらへ?!」
輿を担いでいた者の声を無視し、ヨサミはアカルを追って走り出した。
ヤイルは馬上で、二度、カガチと剣を合わせた。
だが、その二度目の時にあまりの衝撃に全身が痺れ、落馬した。したたかに頭を打ち、唸りながら隻眼を上げたときには、すでにカガチの剣が頭上に突きつけられていた。
「どうした、隻眼の男」カガチもまたすでに馬を捨てていた。「おまえだろう、ヤイルとかいうのは」
ヤイルは血の気を失った顔面に、みるみる脂汗を滲ませた。後ずさりしながら、手が落とした剣をまさぐる。
「おまえの眼には、どんな未来が見えておる」カガチは嘲笑いながら、ぐっと顔を突き出した。「カナンの勝利か? 俺の死か? さあ、どうした、おまえの神とやらは。おまえを助けてはくれぬのか」
は、は、と短く熱い呼吸を繰り返すヤイル。その呼吸は今にも途絶えてしまいそうなほど、切迫したものだった。手がようやく剣の束に触れ、彼はそれをつかむと、喚き散らしながらカガチに突き上げた。
ひょい、とカガチは首を振ってそれをよけた。立ち上がったヤイルは猛然と、狂ったように剣をふりまわした。二人は体格的にはいい勝負で、一見、豪傑同士が戦いを繰り広げているように見えたかもしれない。だが、その中身は大違いだった。
カガチはまるで子供のふりまわす剣をあしらう大人のように、ヤイルの剛剣をかわし続けた。その姿はあまりにも余裕に満ちており、両者の間には歴然とした力量の差があった。カガチは相手の錯乱ぶりを楽しんでいた。
打ち込んできたヤイルの剣を弾き返し、ひゅっ、とカガチの脚が鞭のようにしなった。その猛打を浴びたヤイルは吹っ飛んだ。茂みの中に巨体を飛び込ませていく。
剣を肩に担ぎ、カガチはなおも相手が立ち上がってくるのを待っていた。ヤイルはそばにあった椿の木の枝をつかみ、それを折りながら、ふらふらになりながら起き上った。粉々に挫けそうな闘志をかき集め、相手に向かって行こうとし、愕然となる。彼がつかんでいる剣はすでに折れていた。その手がぶるぶる震えはじめる。
それを見てカガチは、剣をその場に突き立てた。来い、というように、指でヤイルを招いた。もはやヤイルには正常で理性的な思考能力はなかった。そんなものは蒸発して消え失せていた。
うおおおおお、と叫びながら、ヤイルは肉弾戦に転じた。その拳をカガチは左右の掌でそれぞれに受け止めた。
カガチの手の中にあるヤイルの拳が、次の瞬間にまるで熟し切った果実のように握りつぶされた。はらわたをねじって出すような、ものすごい絶叫が上がった。ヤイルの隻眼は飛び出さんばかりに、みずからの潰された両手を見ていた。
「終わりだ」カガチは宣告し、突き立てていた剣を手にした。
ヤイルの眼が、その太刀筋を見ることはできなかった。あまりにも素早くふるわれた剣は、彼の両腕を切り落とした。その痛みを感じる暇さえなく、剣は斜めに振り下ろされ、首元から胴体に深々とした裂け目を作った。
そこら中に血しぶきをまき散らしながら、ヤイルはその場に崩れ落ちた。目の前に、彼が散らした椿の花が落ちていた。
「花……」
それが彼の見た最後のものだった。
甲高い笑い声が、狂気のように響いていた。それはヒステリックで、邪悪な喜びに満ち満ちていた。
その笑い声の下で、殺し合いが続いていた。
カガチはその主戦場に戻ろうとした。が、背後に感じた気配に立ち止まった。
ゆっくりと振り返った。
絶命したヤイルのそばに一人の男が佇んでいた。腰をかがめ、彼はヤイルの眼を閉じさせると、カガチに向き直った。
「何者だ」
「スサノヲ――」
「カナンの者か」
「いや、違う。その剣の元の持ち主だ」
カガチは自らの手にあるそれに目を落とした。「ほう。しかし、これは今の俺のものだ」
「そのようだな」
スサノヲはカガチの携える剣が、すでにかつてのフツノミタマの剣ではなくなっていることに気づいていた。何百という人の血を浴び、命を吸い、その剣はもはや妖刀と呼べるほどの、異様な気配を放つようになっていた。
「だとしても、それをおまえの手に渡してはおけぬ」スサノヲは剣を抜いた。
「ほお……」
カガチは眼を細めた。スサノヲのその姿を一瞥し、彼は悟っていた。
これは上玉だ、と。これほどの敵は、ここしばらく出会ったことがない。少なくともカガチが今の巨大な〝力〟を手に入れたからというもの、ただそこに在るだけで、カガチに対抗できる気配を持つ者はただの一人も存在しなかった。
いや、そうではない――。ただ一人だけ、あのクシナーダを除けば、である。
クシナーダにはなぜか、戦わずしてカガチを挫く得体のしれない〝力〟があった。圧倒されるというのでもない。ただのか弱い娘に、なぜかカガチは自分の意志が、傷一つつけられないのを感じていた。
――わたくしたちは花。
そう言いきってしまえるあの巫女の心は、おそらくどのような暴力によっても屈服させることができない。何をする前から、それがわからされてしまうのだ。
こいつは……。
はたと気づいていた。この男はただ強いのではない、と。クシナーダのことを思い出さずにはおれないほど、スサノヲの背後にはあの巫女の気配が濃厚に感じられるのだ。
「思い出したぞ……。アシナヅチが死ぬとき、クシナーダが貴様の名を口にしていた……。貴様、トリカミの者だな」
「俺は、カガチ、おまえと同じ身の上の者だ」
「なに?」
「住むところを追われ、この島国に流れ着いた……。言わば、そのような身の上ということだ。おまえもそうなのだろう」
「…………」
「剣を収めろ、カガチ。おまえが戦っているカナンもまた同じ身の上。そのような者同士でこの場で殺し合い、憎み合い、それがなんになるのだ。おまえは、おまえが大陸で受けた悲しみを、この地であらたに作り続けているだけではないか」
「黙れ……」怒気がカガチの顔を彩った。
「家族を……母を殺されたのだろう。飢え、死の恐怖に怯え、おまえは海を渡った」
「やめろ」
「そのような苦しみを、ここで再現し続ける必要はないのだ。楽になれ」
「やめろと言っている!」
カガチは猛然と飛びかかった。その剣は、スサノヲでさえ、ぞっとするほどの鋭さで襲い掛かってきた。かろうじて刃を合わせ、横へ逃がす。と、間髪を入れずにカガチの脚が唸りを上げて、かばったスサノヲの腕のガードごと吹き飛ばした。
軽々と五メートルは弾き飛ばされ、スサノヲは河原の土手に背中を打ち付けて止まった。ガードした腕が痺れていた。
とてつもない身体能力だった。その力は、ほとんどスサノヲのそれに匹敵するか、あるいは凌駕さえしていた。
カガチは闇の衣をまとっていた。それは上空のヨモツヒサメから還元された〝力〟でもあり、また彼自身が持つ鬼神の〝力〟でもあった。もはやそれらは融合し、分かちがたいほど緊密な結びつきを生じていた。一つの生命体であるかのようだ
だが、その濃密な闇の中に、スサノヲはかつてクシナーダが視たのと同じものを視ていた。泣き叫ぶ子供の姿――。母のそばで号泣する男の子――。
彼がカガチについて語ったのは、口から出まかせでもなければ、誰かから聞かされた情報でもなかった。カガチ自身から伝わってきたイメージだった。
そしてその悲しみや憎しみ、あるいは強い悔悟、罪悪感、それこそが今のカガチを作っている大本だった。
ふううう、とスサノヲは息をすべて吐き出し、全身をゆるめた。
「来い、カガチ。おまえの悲しみと憎しみ……。俺がすべて受けてやろう」
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