ヤオヨロズ20 第5章の4と5 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

「気が付いたか」
 その人影が発する声には聞き覚えがあった。そばにやって来ることで光の当たる角度が変わり、顔が見えるようになった。
 カイであった。ほかにもカナンの兵士たちが一緒にいる。皆、スサノヲの剣圧で吹き飛ばされた者たちだった。
 状況が見えず、スサノヲはしばらく自分たちがいる小屋の中を見まわしていた。
「このまま死んじまうのかと思ったぜ」
 気力を奮い起こさねば、身体を起こすこともできなかった。これが我が身がと疑うほど力がなく、四肢が重かった。
 ざーっと、スサノヲの胸元から何かが落ちた。不審に思ってみると、それは白い砂のようなものだった。指で触れ、確認する。どうやら塩らしかった。汗が乾いたのかと訝(いぶか)ったが、そんなことで説明できるような量ではなかった。
 見ると、塩が零れ落ちた胸元には、青黒い大きな痣のようなものがあった。ヨモツヒサメに貫かれた場所だった。
「なにがあったんだ。あんたがこんなふうになっちまうなんて」
 問われ、スサノヲは眼を細めて記憶をたどった。
 あの土石流が襲い掛かって来た瞬間。
 反射的にスサノヲは岩から岩へ飛び移り、洪水から逃れようとした。常人には不可能な跳躍だった。だが、ヨモツヒサメから与えられたダメージはあまりにも大きかった。抗いがたい脱力感に見舞われ、意識を失いかけ……。
 羽ばたき。
 ぐいっと上空へ引っ張り上げられる力。
 最後に認識したのは、それとともに見た大烏の面をつけた男の姿だった。その背には巨大な翼があった……。
 サルタヒコであった。その実体を一瞥するのは初めてだったが、スサノヲには自分の手を引っ張り上げているのが、いつもカラスを通じて話しかけてくるあの神だとはっきりわかった。
「俺はどうしてここに?」スサノヲは逆に尋ねた。
「どうもこうも、俺たちが進む先に転がっていた。岩の上に」
「助けてくれたのか、俺を」
 カイは戸惑ったように仲間を振り返った。「ま、まあな。あんたも俺たちを助けたっていうか、殺さずに済ませてくれたからな」
 スサノヲを見つけたときの彼らの狼狽や逡巡ぶりが目に浮かぶようだった。おそらくどうするか、話し合ったのだろう。背後に置き去りにしてきたはずのスサノヲが道行の先に出現したのも不可解だろうし、助けるという行為がカナンにとって利益となるのかという問題もあっただろう。
「ちょうど日が暮れて、この山小屋が見つかったところだった。たぶんこの峠を越えるとき、夜露をしのぐために作られたものだろう」
「すまない。ありがとう」スサノヲは礼を言った。
 彼らの戸惑いはさらに深くなったようだった。
 スサノヲは周囲を見まわした。そばに剣は鞘に収められ、立てかけられていた。
「剣はしっかり握りしめていたよ」
 カイたちは事情をさらに説明した。彼らは洪水が起きたとき、川からは距離を取って迂回路を進んでいた。トリカミが近づくにつれ、オロチ軍との遭遇の危険が増すからだ。それが結果的に彼らの身を守った。
「夜も明けた。俺たちはイズモのエステル様のところへ合流する。あんたはどうする――」と、言いかけたときだった。
 外の様子を隙間から窺っていたカナン兵のひとりが、「静かに」と声を上げた。カイたちは敏感に反応し、剣に手をかけた。カイも戸口に移動し、覗きこんだ。
 スサノヲも動かぬ体を叱咤し、剣を腰に収めた。
 信じがたいものを目撃したというように、カイが低い驚きの呻きのようなものを上げた。目がみるみる大きく見開かれる。「に……兄さん。兄さん!」
 叫んだときには彼は、戸口を大きく開いていた。外へ向かって飛び出していく。
 そこにはモルデとカーラがいた。

 奇跡的な再会を果たした兄弟の感激ぶりは、たがが外れたようなものだった。二人とも涙を流して抱き合い、存在を確かめ合っていた。カイはすでに兄は死んだと思っていたし、モルデもまたこのような場所で弟たち同胞に出会えるとは、夢にも思っていなかったのだ。
 だが、それにも増してカイらを驚かせたのは、先の洪水が南から攻め込んできたオロチ軍の大半を壊滅させたということ、そして――。
「失われた支族がこのワの国へ来ていただって?!」
 それは天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
「イスズ様はあなた方が争いをやめるのであれば、ヤマトへあなた方をお迎えするお心積もりです」カーラはそう告げた。
 浅黒いカーラの顔立ちは鼻筋が高く、全体に容貌がカナンの民に似ていた。その顔をカイたちは食い入るように見つめていた。
「俺はエステル様に進言するつもりだ」やせ衰え、頬もそぎ落とされたようになっていたが、モルデの眼だけは強く輝いていた。「皆でヤマトへ行こう」
 もともとオロチとの戦いでは、すでに意見が割れていた彼らだった。あくまでも徹底抗戦を訴えるカイに対して、シモンやヤコブは半島へ撤退することを主張していた。ほかの二人は立場を決めかけていた。そのような状態の彼らでさえ、このプランは丸ごと包括してしまえるものだった。
「失われた支族がいるのなら……」
「そうだ。願ってもない」
「行こう、ヤマトへ」
 ワの地へ侵攻して以来、彼らは戦い続けていた。オロチとの厳しい全面戦争になり、敗退を続け、今や膿み疲れも生じてきていたのだ。いきなり希望の灯がともったように、彼らの眼に輝きが戻ってきた。
「ただ……」モルデは言いかけた。
「ただ、なんだ、兄さん」
「いや、このことはエステル様に直接お話する」
「わかった。とにかく本陣に合流しよう。ここからなら今日の内には本陣へ合流できる。スサノヲ、あんたはどうする。トリカミへ戻るの――」
 カイの言葉は途中で切れた。スサノヲは山小屋の建つ峠の見晴らしの良い場所に佇んでいた。イズモの地が遠望できる。眼下に斐伊川が流れ、その向こうに小高いいくつかの山が連なっていた。
 そこに彼の眼は、常人の肉眼では確認できない、異様なものを視ていた。その上空に暗雲の如きものがあった。それは恐ろしく禍々しい鬼気をはらみながら、生物のようにうごめき続けていた。そこから、まるで黒い雪のようなものが地上に降り続けているのが視えるのである。
 胸を締め付けるような不快感。口の中が金属的な味わいで満ちてくる。
 ヨモツヒサメに違いなかった。
 羽ばたきと共に、近くの木の枝にカラスが止まった。
 ――何ガ起キテイルノカ、ソノ眼デ確カメヨ。
 サルタヒコが伝えてきた。
「俺も一緒に行く」振り返ってスサノヲは言った。「カイ、エステルは無事なのか」
「あ、ああ。まあ、そのはずだけど」カイはいかにも歯切れが悪かった。
「どうした、カイ。エステル様に何かあるのか」と、モルデが尋ねた。
「うん……。まあ、会えばわかるよ。ちょっとこのところエステル様、元気がないっていうか……まあ、それは兄さんの顔を見たら、きっと元気になられると思うよ」
 スサノヲは、本音ではトリカミへ戻りたかった。クシナーダが今どうしているかと考えたら、居ても立ってもいられない心地になる。だが、カーラの話によれば、トリカミを占拠しているカガチとオロチ軍は、洪水の被害を受けた仲間の救助に追われている。態勢の立て直しに血眼になっているという話だ。
 そして、クシナーダもほかの巫女たちと共にトリカミにいる。
 今しばらくの時間の猶予はあるように思えた。身体さえ復調すれば、トリカミとイズモの間の距離などさして大きな問題ではない、とスサノヲは判断した。ヨモツヒサメから受けたダメージがいかほどのもので、回復に要する時間がどれほどなのか、自分でもはかりかねていたが、今はイズモで何が起きているのか、見定めなければならなかった。
 そう決断せざるを得ないほど、嫌な予感がした。おそらくサルタヒコがカイたちの前にスサノヲを下ろしたのにも、深い意図があると思われた。

 谷間に沿った獣道を下り、一行は斐伊川に出た。
 そこはすでにカナンの勢力圏であり、彼らは防衛線を張っている守備兵たちの手厚い歓迎を受けた。ことにモルデの帰還は熱烈な喜びを持って受け取られ、彼らは現在のカナンの本陣のある場所へ案内された。小舟で川を下り、山を迂回する形で、夕刻にようやく辿り着いたその場所は、複数の小高い山のすそ野であった。(現、神庭谷付近)
 そこでスサノヲは信じがたい光景を見た。
 近づくにつれ、山々を揺るがすほどの歓声が轟くように聞こえてきた。それはまったく意外なことであり、オロチ軍に徐々に追い詰められ、総攻撃を受けて崩れた兵士たちの発するものとは思えなかった。
 山あいに陣を張るカナン軍には、まだこれほどの数がいるのかと驚かされただけではない。彼らは熱狂していた。まるで大戦(おおいくさ)に勝利したばかりのような、とてつもない興奮と喜びが里に満ち満ちていた。
「なんだ、これは……」
 カイやモルデでさえ、この狂乱ぶりには戸惑った。
 その中心にいたのは、刀傷を顔に持つ、隻眼の男であった。
「ヤイル……」モルデが呻くように言った。
 岩場の上に立ち、演説している背高い男はヤイルだった。彼の身振りで兵士たちは静かになった。
「聞け! カナンの民たちよ! 神に選ばれし同胞よ!」
 ヤイルの声が響き渡る。
「野蛮なる民どもの軍勢には神の鉄槌が下された! 我が予言通り、大水が彼らを滅ぼした! そなたらは見たであろう!」
 おお!! と兵たちの声が返す。
「これこそが神の御業である! 神は私にお約束された! はっきりとお言葉をくださったのだ! 我らにこの島国すべてをお与えになると!! こここそが神のお約束された第二の地! 恐れるものなど何もない! 我らには神がついておられる! 愚昧な異教徒どもなど恐れるに足らぬ! 聞け、民よ! カガチは神の火によって焼かれるだろう! これは神の御言葉である!」
 うおおおお――という轟きがまた湧いた。
「皆、耳を澄まして聞くがいい! タジマは間もなく裏切りに遭い、崩れ去るだろう! 真の神への信仰を持たぬ者どもの結束などなきに等しい! 彼らは憎しみ合い、結束は乾いた地の石くれのように脆くなる! もはや我らの敵ではない! キビもまた恐ろしい災厄に見舞われるであろう! 五つの地の邪教の巫女は互いに憎しみ合い、残らず死に絶える! 我らはもはや彼らを打ち倒した! その未来が我が眼には映じておる! そしてこの島国には我ら民が増え、ありとあらゆる地で栄え続けるのだ!」
 地の底から噴き上がってくるような熱気と共に兵士たちはまた怒号のような喚声を上げ続けた。目の当たりにして、スサノヲは珍しく血の気が引くような心地を味わっていた。うすら寒さに皮膚が粟立ってくる。見渡す限り埋め尽くす群衆には理性の働きは微塵もなくなり、盲信的な思い込みだけが膨張し、そしてこの地で一つの意志となって結びつき、さらにいびつで異常なものとなって、今まさに生れ落ちようとしていた。
 茜色に染まる空には、今は雲一つなかった。だが、スサノヲはその上空に視ていた。悪意に満ちた闇の存在を。
 ――オマエノ見タイ神ヲ見ヨ。
 ――オマエノ考エル神ダケヲ信ジロ。
 ――他ノモノハスベテ滅ボセ。
 ――認メルナ。
 ――否定シロ。
 ――否定シロ。
 ――ソシテ殺セ。
 ――殺セ。
 ――ソレガ正シイノダ。
 ――正義ヲ為セ。
 ヨモツヒサメから降りかかってくる思念は、ヤイルの身体にどんどん吸い込まれていた。彼の隻眼は異様な光を放ち、彼が見渡す群衆を魅了し、魂をわしづかみにして力づくで引きずり込んで行く。魔の渦の中に。
「おい! これはいったいどういうことだ!」モルデが近くにいた兵の肩をつかみ、問いかけた。
「どうもこうもあるか。ヤイルが予言したんだ。トリカミから来るオロチが大水で滅びると。それが的中した! ヤイルは予言者だ! 我らの新しい予言者にヤイルはなったんだ!」
 その兵士は涙まで流していた。喜びのあまり震えている。狂気じみた喜悦の顔だった。
「エステル様は?!」モルデは詰問した。
「エステル様?」
「エステル様はどこだ!」
 男はすっかり忘れていたというふうに、ようやく記憶を紡ぎ出した。「ああ、ああ、エステル様……エステル様か。たぶん幕屋にいるだろう」
 その男を突き飛ばすようにモルデは歩き出した。カイら帰還した兵士と、カーラ、そしてスサノヲもついて行った。歩きながらスサノヲは上空のヨモツヒサメに意識を向けていた。
 ヨモツヒサメのほうでもスサノヲのことは認識しているようだった。しかし、このヨモツヒサメはスサノヲに格別な関心はないらしく、攻撃的な意識は見えなかった。むしろヤイルを通じ、カナンの民を扇動することにのみ関心があるかのようだった。
 こんな化け物どもが世に出ていたら……凍りつくような想いが湧いた。
 地上に平和など望むべくもない。争いと憎しみが地に満ち、累々たる死体の横たわる、この世は本物の地獄と化すだろう。その世界ではもはや亡霊や怨念、死神ばかりが跳梁し、渦巻いているのだ。
 心底ゾッとなり、スサノヲは想像を頭から追い払った。
 こうなっては、なにがなんでもエステルにこの戦いを収めてもらわなければならなかった。
 幕屋には衛兵すらいなかった。誰もがヤイルの元に馳せ参じているのだ。その場には、置き去りにされた何か冷たくて空虚な印象さえあった。
 その中にエステルがいた。かつてとは見る影もなく憔悴した顔に、濃厚な憂悶を漂わせ、視線を足元に投げ出していた。人の気配は感じたであろう。が、彼女は眼を上げもせず、腰かけた姿勢のまま、銅像のように固まっていた。
「エステル様……」モルデが枯れたような声を発した。
 びく、とエステルの身に震えが走った。眼が上がり、そして宙をさまよい、目の前にいるモルデの姿を捉えた。
「……モ、モルデ……?」見えない糸に引かれるようにエステルは立ち上がった。「本当にモルデなのか? おお……おお……モルデ!」
 両手を捧げるように前に出し、エステルはまるでぶつかるような勢いでモルデに抱きついていった。



 黎明の空に、二つの星の輝きがあった。クシナーダは収容されている家屋の戸口に立ち、その星の輝きを見つめていた。疲れ切った他の巫女たちより先に目覚めたアナトは、クシナーダのその様子に気づいた。
「おはようございます、クシナーダ様」
 他の者を起こさぬように気づかい、アナトは小さく声をかけた。クシナーダも挨拶を返してくる。
「しばらく前から不思議に思っておりました、あの星……」アナトは言った。「わたしたちがいつも見るものとは違っています。赤の星でもなく、一つ目の大きな星でもなく、輪の星でもなく……あのように明けの明星のそばで輝く星を私は知りませぬ」
「天津甕星(あまつみかほし)……スサノヲの星です」
「スサノヲ様の……? まだお会いしたことはありませぬが、直接天より降られたとお聞きいたしました。わたしたちワの民が伝える物語の荒ぶる神と同じ名を持たれている……まさしく霊妙なることでございます」
「スサノヲは破壊と再生をもたらす〝力〟だと、アシナヅチ様が申されておりました。そのため常に両面を持つと」
「両面?」ドキッとしたようにアナトはおうむ返しに言った。
「破壊者と創造者です。大陸の南方の土地では、シヴァという神が祀られています。破壊と創造の神ですが、そのシヴァは踊る神なのです」
「踊る神?」
「なたらーじゃ……とも呼ばれています。彼の踊りは世界を破壊し、そして再生させます。シヴァはその地でのスサノヲの働きの表現なのです」
 そのような知識を一体どこから得るのかと訝り、アナトはその考えが愚問に近いと思いなおした。クシナーダやアシナヅチの知覚能力は空間や時間を簡単に超えてしまうからだ。
「もしかするとカガチとスサノヲは一対のものなのかもしれません。天津甕星はきっとスサノヲの〝力〟が顕れる験(しるし)なのです」
「わたしはあの星に畏怖を感じます」
「はい。でも、わたくしは今、あの星を見て、安堵していたのです。あの輝きがあるということは、スサノヲの命の輝きもまた失われてはないということ」
「クシナーダ様の御力なら、スサノヲ様のご様子もご覧になられるのでは?」
 クシナーダは首を振った。「結界が張られ、聖域化されているこの里の中ならいざ知らず、今結界の外へ意識を飛ばせば、ヨモツヒサメに心を食われかねません。ただ感じるのです、スサノヲが苦しみながら道を進んでいることを」
「お怪我をされているご様子ですが」
「ただの怪我ではないでしょう。おそらくスサノヲはどこかでヨモツヒサメに遭遇してしまったのです。でなければ、あのような傷を受けるはずもありません」
「強いお方なのですね」
「はい……」
「それに離れてらしても、クシナーダ様はスサノヲ様のことを手に取るようにわかっておられるようです……その……」アナトはある言葉を呑み込み、別な表現を選択した。「クシナーダ様はスサノヲ様を信じておられるのですね」
 クシナーダはうっすらと微笑を浮かべた。その表情には愛する乙女の喜びのようなものが滲んでいた。そして、「はい」と静かに強く答えた。
「アナト様」
「はい」
「わたくしたちは踊らねばなりません」
 その言葉に、アナトはしばらく前にアゾの祭殿で受けた啓示と、そして現れたウズメの神霊から告げられたことを思い出した。
「御霊を集め、浄めよ……。魂で踊り、ワのヒビキでこの世を埋め尽くせ……」
「その通りです。このワの国では、わたくしたちが踊らねばなりません。ワの民は――いえ、人は――歌と踊りでつながり合えます。わたくしたちが昔からこの地でそのようにしてきたように、歌って踊って……天の岩戸を開き、そしてこの闇を払わねばなりません。でなければ、きっとこの国の子らの未来もありません」
「わたしも及ばずながらお力になりとうございます」
「アナト様なくして、きっと岩戸は開かれません。お願いいたします」
 クシナーダに頭を下げられ、アナトは狼狽した。「そ、そんな――クシナーダ様、お顔をお上げください」
 そんな二人のやり取りを、目を覚ましたアカルが見ていた。アナトはクシナーダよりも六、七歳は年上だが、まるで目上の者に相対するように尊敬の想いを隠さなかった。それはアナトらキビの巫女たちが、結果的にこのトリカミに与えた被害に対しての罪障感を持っているからだけでは決してない。
 それはアカルが一番よく知っていた。彼女が、最初にクシナーダにあいまみえたのは六年前だった。カガチがイズモに支配権を広げ、ワの民たちの反撥を抑圧するため、トリカミの巫女を毎年一人ずつ人質にし、挙句に殺すという蛮行に手を染めるようになり、二人目の巫女を連れ去ったときだった。
 アシナヅチから打診を受けて、アカルはトリカミに出向いたことがあった。むろんカガチを抑えるための何らかの手段を講じるためだった。この会談はカガチに察知されるところとなり、アカルはその後、タジマに幽閉されてしまうという結果を招くのだが、クシナーダに出会ったこと自体は、アカルにとって非常に衝撃的な出来事だった。
 まだ十歳くらいの幼い巫女に過ぎなかったクシナーダは、それ以前も以後もアカルが知るありとあらゆる巫女の次元を越えていた。すでに千年二千年という先を透視し、世界の裏側にいる人々とも交流を持つことができた。
「あなたはお母さんね」クシナーダは一瞥して、アカルにそんなことを言った。
「お母さん?」
「あなたがお母さんに見えるの。きっと大事な人」
 その瞳が見ているものは、アカルにはまったく想像もつかなかった。が、少女の精神がこの世の現実の枠をはるかに超越していることは、圧倒的な霊的なヒビキによって伝わってきた。
 だが――。
 アカルは、少女だったクシナーダの言葉の意味が今ようやく氷解したのを知った。イスズの命が消え去るとき――キビの巫女たちやナオヒが共有していたヴィジョンが、アカルにも飛び込んできた。
 少年カガチの母、それはアカルによく似た女性だった。冠島に漂着したカガチが、アカルの顔を見て驚愕したのは、大陸で失った母の面影をそこに見たからにほからない。それが理解できた瞬間、アカルの中でドミノが倒れるようにして、霊的な情報が解き放たれた。
 それはカガチと自分との情報だった。
 カガチは母親に愛されなかった。母親が溺愛していた兄を事故で死なせてしまったからだった。以来、母はカガチに感情のない冷めた目を向け、呪いのような言葉を与え続けた。
 おまえのせいだ。おまえなど生まれなければよかった。
 カガチは渇望する母の愛の代わりに、その呪詛を受け続けて生きてきた。やがて起きた戦乱で家族を皆殺しにされ、生き残り、辿り着いた島国で出会った巫女。
 そこにまた亡き母の面影を見てしまった。
 毎年巫女を殺し続けるカガチの深層にあるものまでもが、アカルには我がことのような痛みとしてわかった。
 自らの肉体に鬼の種子まで育てたカガチの根にあるもの。
 それは、愛されたい、生きたい、という熾烈なまでの欲望だった。その欲望こそが彼の鬼の根源であった。解き放ったのは霊剣の〝力〟だったかもしれないが、救いのない彼の行く末はいずれ似たところへたどり着いたであろうと思われた。
 そして――。
 それを救うのは自分でなければならなかった。
 アカルがカガチの命を救い、巫女としての予感に逆らい、彼を登用しようとする父にも警告を与えず、今の状況を作り出してしまったという責だけではない。ましてやアカルの面差しが、カガチの亡き母に似ているからというのでも、もちろんない。
 もっと根深いものが、アカルとカガチの間には横たわっていたのだ。
「あら、アカル様――」クシナーダはアカルに気づき、すぐに扉を閉めてアナトと共に室内に戻ってきた。「お目覚めでしたか。すみません、お寒うございましたか」
「いえ、大丈夫です」
「お顔色が随分とよくなられました」と、アナトも安堵の色を浮かべた。
「皆様のおかげです」
 他の巫女たちも話し声に誘われるように、次々と目を覚ました。昨日は彼女らの手でイスズを弔った。そのこともあったし、その前夜からの強行軍もあって、彼女らも疲れ果てていたのだ。
 しばらくして食事が運ばれてきた。トリカミの里の者が命じられて、囚われの巫女たちの食事のまかないを行っていた。食事を運んできたのはスクナだった。彼女は見張りに立っている兵士に戸口を開けてもらい、身に余るような大きな木の板に七人分の器を乗せて運んできた。野草や根菜がふんだんに入れられた粟の粥であった。
 スクナと目が合うと、クシナーダはその瞳の中だけで笑って、うなずいた。配膳している最中に、スクナに囁く。
「戻ったのですね。イタケルやオシヲ、ニギヒ様は?」
 スクナも小さく返した。「里の近くの洞窟に隠れてる。イタケルやオシヲは顔が知られているかもしれないし、ニギヒ様はあの通り目立つから」
「そうですね」くすっとクシナーダは笑った。「スサノヲはやはり一緒ではないのですね」
「うん。することがあると言って別れたまま」
「スサノヲの気配は北のほうにあります。たぶん、カナンの本陣のほうでしょう。そこへモルデとカーラという者が向かったはず」
「知ってる。会ったよ。じゃ、スサノヲも一緒かもしれないね」
「そんな気がします」
「おい!」見張っているオロチの兵が怒鳴った。「さっさとしろ! 用が済んだら出ろ!」
 彼らはカーラが食事を運んだあと、イスズが抜け出した前例から警戒を強めていた。
「ちょ、ちょっと待って」スクナが言った。背後に手を回し、腰紐にさしていた花の枝をクシナーダに差し出す。「これ、イタケルが持って行けって」
 まあ、とクシナーダは眼を見張った。「覚えていてくださったのですね」
 それは鮮やかな紅色をした椿の花だった。五弁の花びらが大きなめしべを包んでいる。その明るい色合いは、閉塞感が立ち込めていた室内の空気を変えた。
「生まれた日に、その季節の花を贈るのが、この里のならわしなんだ」と、スクナが兵士に説明した。
 子供にそう言われ、兵士たちは戸惑いつつ、返す言葉もなかった。
「クシナーダ様は今日がお生まれになった日なのですか」と、アナトが尋ねた。
「はい。とても祝っていただく状況ではありませんが……わたくしはこの一年でもっとも日が短い日の生まれです」クシナーダは眼を細めて、椿の花の色と香りを味わった。「ありがとう、スクナ。イタケルにもお礼を言ってね」
 スクナはにっこりしてうなずいた。クシナーダは立ち上がる際に、その耳元に顔を自然に近づけてまた囁いた。
「この花弁がすべてなくなった夜、わたくしたちはここを出ます」
 スクナは返事をしなかった。が、聡明な彼女は眼だけで了解したことを伝えてきた。
「また、ごはんを持ってきて頂戴ね」
 そう言って送り出すクシナーダに、「うん」と返事をしながらスクナは出て行った。
 子供ゆえに気を許しているということもあるのだろう。兵士はさして訝りもせず、スクナが出ると扉を閉めた。
「さあ、いただきましょう」と、クシナーダは明るい声で言った。
「クシナーダ様……今の子と何を……」近距離にいたアナトは、わずかながらやり取りを耳にしていた。
 クシナーダは眼を悪戯っぽくきらきらさせながら、指で押し黙るように合図して、椿の枝を家屋の隅にある間口の狭い土器に差した。それに水も差しておく。それからそっとつぶやいた。「スクナはこれから毎朝毎夕、食事を運んできてくれるでしょう。椿の花びらを状況に合わせ、一枚ずつちぎっておきます。すべてなくなった夜にここを出ましょう。そのための合図に使うのです。いつも話せるとは限りませんから」
「え……しかし、どうやって」
「心配いりません。スクナが戻っているのなら」
「え……」
「でも、花がかわいそう……」と、クシナーダは椿を振り返った。「本当は椿は花びらを散らさず、落ちるときは花が丸ごと落ちるんですけどね」
 巫女たちはきょとんとしていたが、一人、ナオヒだけがにやにやしていた。
「ナオヒ様、このようにお謀りになって、スクナの身を守るためにニギヒ様と共に里の外へお出しになったのですか」と、クシナーダは視線を送った。
「そなたほどではないがの」ナオヒは細い腕で器を取りながら言った。「なんとなく、あの子を逃がしたほうが良いと思うたのじゃ。スサノヲとの縁が深そうじゃしな」
「やっぱり」クシナーダはにっこりとした。「ナオヒ様はお人が悪い」
「そなたほどではない」
 二人は声をあげて笑った。他の巫女たちは戸惑いながら、苦笑のような表情になった。


 獣のような唸り声がしていた。
 トリカミへ来て、三度目の夜だった。ヨサミは毎夜、その唸り声を耳にしていた。いや、もしかするとイスズという巫女が殺されて以降というべきなのかもしれないが、トリカミに根を張って以来、あきらかにカガチの様子はおかしかった。
 常識では推し量れないほどの体力を持つカガチだったが、それ以前はいかなる戦があっても、眠れないなどということはなかった。戦闘で高揚した肉体を持て余したようにヨサミの身体を抱き、そして熱を冷ますと満足して眠りに落ちた。それは飢えた猛獣が腹を満たして眠るのと同じようものだった。それが常だったのだ。
 しかし、トリカミに来て以来、カガチはおかしくなってしまった。熟睡することもできず、何かに責めさいなまれるように、浅い眠りの中でうわ言を口走るようになった。母さん、というはっきりとした声もヨサミは幾度も聞いた。そしてまた獣のような唸り声を発して目覚め、不機嫌に荒い息とぎらついた眼を周囲に放つ。そんなことばかりだった。
 その夜、ヨサミは不安に襲われた。隣で身体を横たえているカガチは、もはやうわ言のレベルではない、はっきりとした苦悶を表わす声を上げ始めたからだ。肉体を蝕む不治の病の痛みにでも襲われているように、彼は唸り、のたうち、吠えた。
「カガチ……カガチ様!」褥を共にする者が死ぬのではないかという恐怖に襲われ、ヨサミは彼の身体を揺さぶった。
 カッ、とカガチは眼を開いた。充血しきった眼だった。
「いかがなされました」
 その眼が動き、ヨサミの顔を捉えた。ううう、という唸りと共にカガチの身体は跳ね上がり、そして一瞬にしてヨサミの身体を組み伏せていた。
 今下を見ていたのに、あっという間にヨサミの眼は上を見ていた。そこにカガチの鬼の形相があった。彼のものすごい腕が伸び、万力のような両手が首に巻き付いてきた。大蛇が瞬間的な動きで敵を締め付けるようなものだった。
 ぎゅうっと締め付ける力が首を圧迫し、ヨサミは両手両足をばたつかせた。苦しいというようなレベルではなかった。涙や血液といったものが、頭部の涙腺や毛穴から圧迫されて噴き出しそうになる。頭が破裂すると本気で感じた。
 だが、すぐに意識が遠のいて行った。
 死ぬのだ、とヨサミは思った。すとんと胸に落ちたのは、この怨讐にまみれた自分にふさわしい最期だということだった。
 顔にかすかに何かを感じた。それは首を絞めながら目の前に迫ってくるカガチの顔から落ちてくる涎や、そして――涙であった。
 この人も寂しいのだ。
 悲しいのだ。
 辛いのだ。
 そう思った。
 いいよ、殺して。
 わたし、あなたに殺されるのでいい。
 ヨサミは死の淵に落ちながら、どこにそのような力があったのか、その両手でカガチを抱いていた。いや、カガチの巨躯は彼女の両腕の長さでは、とうてい抱きしめることなどできなかった。そっとその胴に手を回すことしかできなかった。
 しかし、それは彼女にとって、カガチを抱くという行為だった。
「うおッ――」カガチが怯えたような声を発し、突き飛ばすように離れた。
 一瞬あと、呼吸と血流が戻った身体が、反動のように激しく咳き込み始めるのを感じた。うっ血で青黒くなりはじめていた顔に血の気が戻ってくる。涙も止まらなかった。
 ややあってヨサミは、そこに見た。
 鬼神が吠え、壁に頭や拳を打ち付ける様を。カガチの力が強すぎ、建物自体が倒壊しそうだった。
 ヨサミは褥を抜け出し、荒れ狂うカガチに近づいて行った。
 そして、その背後から彼を抱きしめていた。
 なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからないままに。



――第5章 了



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