ヤオヨロズ19 第5章の3 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

◇◆◇第五章  ◇◆◇


 全身、痛みを発さぬ場所などなかった。身体が熱く、だるい。しかし、そんな状態でありながら、モルデは走っていた。
 松明を持った追手が迫る。カガチに命じられた兵士たちだった。
「待て!」幾度も叫びが背中に突き刺さる。
 息が切れる。長く囚われ、力を失っていたモルデの足がもつれた。とてつもない氾濫を起こした斐伊川が満たした泥に足を取られ、転倒してしまう。
「モルデ様!」カーラが慌てて引き返してくる。
 兵士がそのカーラに斬りかかる。敏捷にそれを避けながら、カーラは相手に足払いをかけた。ひっくり返り、泥に顔を突っ込んだ兵士からモルデがすかさず剣を奪う。
 モルデは雄叫ぶように気合を発した。襲い掛かってくる兵を押し返し、斬りつける。
 生きる。
 俺は生きて、エステル様のところへたどり着く。
 その執念が弱り切っていた彼の身体に活力を与えた。カーラも敵兵の剣を奪い取り、応戦した。が、追手は多かった。たちまち取り囲まれてしまう。
 もはや退路はどこにもなくなった。
 その時だった。オロチ兵のひとりが絶叫を上げた。背後からの攻撃を受け、もがき苦しみながら倒れる。その向こう側から現れた黒い影が、また一人、そしてもう一人、不意を突いて斬りつけた。兵士の持っていた松明が、ぬかるんだ地に落ち、じゅうという音を立てて火を次々に消していく。
 突発的な事態にうろたえる反対側のオロチ兵の背後から、また急襲があった。うわああ、と叫びと共に、兵の背中に突っ込んできたのは少年だった。さらにその隣に出現した男は一人の兵を斬りつけ、もう一人は脚で蹴飛ばした。
 囲みは完全に破れた、思いがけぬ助勢を得たモルデとカーラは包囲を突破した。
「こっち! こっちよ!」少女の声が聞こえる。
 モルデはその声のする方へ走った。
 松明の光が少なくなり、闇の濃度が増した場で、攻防が繰り広げられた。が、夜陰に紛れて襲われたオロチ兵は、動揺を立て直す暇も与えられなかった。カーラと最初の黒い影の男が、それぞれに最後となった敵を打ち倒した。たまたま岩の上に落ち、消えるのをまぬかれた松明の一つを黒い影の男が拾い、モルデのほうへ近寄ってきた。
 その男はニギヒであった。
 そして彼のそばにイタケル、オシヲがいた。オシヲは興奮し、大仕事を成し遂げた後のように玉の汗を浮かべ、荒い息を繰り返していた。
 明かりが近づいたので、モルデは自分を呼んだ少女のほうを振り返った。そこにはスクナがいた。
「モルデ様、大丈夫ですか」カーラがやって来た。これも息が荒い。
「誰かと思えば――小汚えなりをしてるが、おめえ、いつかのカナンのやつだな」イタケルが言った。
 相手はトリカミの里の男だとモルデも知った。
「どういうことだ、こりゃあ。ちっと説明してもらおうか」

 イタケルたちは運に恵まれていた。あの地震をきっかけとする川の大氾濫が起きたとき、彼らはスクナの誘導で川から離れた道を進んでいた。これは当然、川沿いの道に存在するかもしれないオロチ・カナン双方の兵を警戒していてのことだった。岩戸への往路と同じく、復路もスクナが熟知する山中の抜け道へ進路を取っていたとき、洪水は起きた。
 これが結果的に彼らの命を救った。トリカミ近郊へようやくたどり着けば、あたりは戦乱の跡、おびただしい死体が横がっていた。このときイタケルやオシヲは、カナン兵の剣を調達した。どこから敵が出現するかもわからないのだ。
 トリカミの里にある遠い篝火。それだけがこの月のない夜に頼りとなるものだったが、土地勘の明るいイタケルたちにはなんとか夜陰に紛れての行動が可能だった。
 遠目にもオロチ軍が占領しているらしいことは分かった。里の中の状況がどうなっているのか、どうにかして闇にまぎれて侵入する算段を練っている時だったのだ。
 複数の松明の光が里を駆け下りてきたのは。
 その兵たちが何者かを追っているのは明らかで、追われているのは里の者である可能性が高いとイタケルたちは判断した。そのために助勢に入ったのだ。
 しかし、そうではなかった。彼らが助けたのは、見る影もないほどやつれ、みすぼらしい姿となっていたモルデ、そして初対面のカーラという男の二人だったというわけだ。
 彼らはトリカミの里から一度距離を取り、およそ里の者以外は知られることのない洞窟に身をひそめた。
「ヤマトにカナンの仲間がいるってのか」岩の上に腰を下ろしているイタケルは、イライラと貧乏ゆすりをしながら言った。「カーラといったな、あんたもそうなのか」
「はい。私の先祖はおよそ四百年ほど前、ツクシを経てヤマトへたどり着き、そこへ定着しました」
「そういえば……」イタケルは首をひねるようにして言った。「アシナヅチ様が言ってたな。その昔、なんとかっていう方士が多くの民を引き連れて、このワの島国各地へ移ってきたことがあると」
「イスズ様の直接のご先祖です」
「イスズって巫女のことは聞いたことがある。ミモロ山の巫女と言えば有名だ」
「それで……」と、ニギヒが口を開いた。「そなたらはこれからどうするのだ。エステルと言ったな、カナンの姫は。その姫のところへ向かうのか」
「はい。それがイスズ様より与えられたお役目なれば」そういうカーラの眼は、しかし、どこか不安に定まらぬものがあった。自分たちを逃がしたイスズのことが案じられてならないのだった。本音では里へ戻りたいに違いない。
「おい、モルデ」イタケルは言葉を投げつけるような調子で言った。「てめーはどういうつもりなんだ」
「どう……とは?」
 モルデのそばにはスクナがいた。スクナは濡らした布と、採取してきた薬草で、彼の傷の治療を行っていた。
「エステルのところへ戻り、どうするかっていうんだよ。そのイスズが言ったようなことをエステルに伝えるのか」
 沈黙があった。洞窟の中では焚火が燃やされ、モルデの横顔を照らしていた。
「……おそらく、この戦いには勝てぬ」彼はやがて言った。「あのイスズという者がいうことが真実なら、われらはやり方を誤っていた」
「勝てないとわかったら、戦いやめましたってか。ふん、都合よくねえか。てめえらがやらかしてくれた戦のせいでな、いったいどれほどのワの民が死んだと思ってるんだ」
 また沈黙が落ちた。
「あんたらが来なければ、ミツハは死ななかった……」オシヲが枝で焚火を突き刺すようにしていた。「アシナヅチ様も」
「カナンもオロチも殺し合って滅びりゃいい。それが俺らの本音だ」
 イタケルの言葉に対して、モルデは何の反論もしなかった。できなかったというべきだろう。
「それじゃ、だめだよ」
 その声に一同は我に返ったような反応を示した。スクナがモルデの膝に薬草を押し当てながら続けた。「そんなにうまいこと、どっちも滅んだりしない。それどころか生き残った者が、また相手を殺すためにやって来る。……ツクシはずっとそんな日が続いていた。あたしがもともといたナの国だって……」
「その通りだ」ニギヒがうなずいた。
「あたしの住んでいた里は、みんなみんな、殺されてしまった。だから、父さんと母さんはあたしを連れて、大陸に渡ったんだ。殺し合いばかりじゃなくて、人を生かせる方法を探さないといけない。父さんはいつもそう言ってた。あたしが覚えることが得意なので、いろんなものを見聞きさせて、薬草のことや治し方を勉強させたのも、そのため……」
「そういうことだったのか」イタケルはしみじみと言った。「それでナの国には戻りたくても戻れなかったんだな」
「生きている者同士が戦いをやめないと、どうにもならない。戦いはとまらない。死んだ者のことばかり考えたら、どこもかしこも、きっとあたしのもとの里みたいになる」
 もっとも年少のスクナが発した言葉は、イタケルやオシヲの胸にある憎悪の立ち上がりを挫く力があった。オシヲは首にかけている朱の領布を手にし、見つめた。
 ――ミツハに誇れるおまえでいるのだ。
 スサノヲの言葉が脳裏をよぎり、オシヲは領布をぎゅっと握りしめた。苦しげに。
 ちっとイタケルは舌打ちした。腰から下げていた小袋を手に取り、それをモルデの目の前に放り投げる。「食え――干し肉だ。精をつけなきゃ、明日、歩けねえぞ」
 痩せこけた腕を伸ばし、モルデは震える手でそれを取り上げた。中を開くと、鹿の干し肉が詰まっていた。餓死をまぬかれる程度のものしか与えられていなかった男の喉が、ごくりと鳴った。取り出した肉を口に運び、食(は)む。幾度も幾度も噛みしめた。自然と、その頬に涙がひと筋ふた筋と流れ伝った。
「すまない……すまない……!」鳴き咽びながら、モルデは干し肉を食べ続けた。


 もともと白い肌が、今は雪のようだった。巫女たちは横たわる美しい巫女の死に顔を、ずっと見つめ続けていた。
「イスズ様……」
 その名が口々に、涙と共に呼ばれ続けた。
 イスズと血のつながりがあるシキ、イズミはことに大きなショックを受けていた。二人にとっては精神的にも、本当の姉のような存在だったのだ。
 カガチがイスズの首を絞めはじめたとき、幽体離脱や遠隔視によって状況を認識していた巫女たちは、もちろんイスズを救おうとして動き出した。しかし、その時点ですでに里は逃亡したモルデを捜索する兵士たちが走り回り、先刻までうたた寝に引き込まれていた見張りの兵士たちも目を覚ましていた。
 その状況で、彼女らは肉の身を動かして、イスズを救出に向かうこともできなかった。むろん駆けつけることができたとしても、間にあったはずもなかった。
 なす術もないまま、ただ彼女らの感覚はイスズの死を知覚するということしかできなかったのだ。
 白い布がイスズの遺体にかけられた。それを見つめるイズミは、思いつめた表情でつぶやいた。「かならずお心をお継ぎ致します」
 シキとイズミは知らされたのだ。彼女らの身体にも、はるか昔に渡来したカナンの民と同じ血が流れていることを。その血は混淆しながら、ずっと世代を越えて受け渡されてきたが、彼女らはその古い時代の事実を知らずに生きてきた。
 それで良いのだ、とイスズは言った。けれど、この事実を伝承してきたイスズの一族は、この日のあることを半ば予知し、そのとき果たすべき役割があることを自覚していた。そのことだけは心の核に収め、数百年を生きてきたのだ。
 その役目を果たすために自分の命を捨ててでも、というイスズの峻烈な使命感は、とくに若いイズミにとって目の覚めるような衝撃だった。なまじの霊能があるばかりに若くして巫女の地位に押し上げられ、まつりごとの中に組み込まれてしまった彼女は、ワケの国の中にあっても自分の存在意義を見いだせずにいた。誰か他の者でも良いのではないか――常にそんな想いがあった。
 能力として見たときには、アナトやシキの〝力〟には遠く及ばなかった。それだけに、いつの間にかひがみのような気持ちが根を張ってしまっていた。国の都合のために存在している自分。
 イスズの使命感は、それとまさに対比するものだったのだ。
 だが、そのような小さな思いにとらわれているときではない。
 自分のできることをする。
 すっきりと覚醒した意識の中に、強い意志が今は根を張っていた。
「アナト様……提案がございます」
 まだ泣き止まぬ巫女たちの中、イズミは口火を切った。その強い声音に触発されたように、巫女たちは悲しみの淵から少しだけ引き戻された。
「クシナーダ様、ナオヒ様、そしてアカル様もお聞きください。……わたしたちキビがカガチの支配を甘んじて受け入れてきた大きな理由は二つ。一つはクロガネ造りのためと称し、国の多くの者を人質として取られていること。そしてもう一つは、このトリカミを守るためでした。されど今、その理由のうちの一つはなくなった。そういうことではないでしょうか」
 それを聞いたアナトは、袂で涙をぬぐいながら応えた。「……じつはわたしも、まったく同じことを考えていた」
「アナト様も?」
「はい」
「わたしは信じてはいませんでしたが、あのヨモツヒサメは言い伝え通りの恐ろしい存在でした。あれを世に出さぬためにわたしたちは耐えてきたはず。あれが世に出てしまったのなら、わたしたちがカガチに従わねばならぬ理由の一つは、もはやありませぬ。そうではありませぬか?」
「イズミの言う通りです」
「ならば、あとはキビの国から徴収されて、タジマやイナバに送られている者たちを救い出せばよいのでは?」
「それで、わたしたちは自由になると?」
「カガチと袂を分かつべきです」
 キビの巫女たちは顔を見合わせた。
「でも、どうやって囚われている者たちを救出するのです」
「それは……」イズミの強い視線は、アカルのほうへ向けられた。「アカル様ならキビから徴収された者たちがいる山やタタラ場をご存じなのでは?」
 周囲の視線を受け、アカルはうなずいた。まだ顔は蒼ざめたままだ。「わたしは存じております……もともとはタジマもイナバも、わたしの父が治めていた土地ですから」
「ナツソ様……」次にイズミは、ナツソに視線を向けた。「コジマの水軍をカナンとの戦いから引かせ、囚われている者たちの救出に向かわせることはできないでしょうか」
 ナツソは驚くべき提案に目を丸くし、しかし、しばしの思案の後、はっきりと応えた。「わたしからの指示を伝えることができますれば」
「しかし、コジマの兵の中にはカガチの密偵も紛れ込んでいるのでは?」と、アナトが言った。「モルデがキビに秘密裏に交渉に来たときも、カガチには筒抜けになっていた」
「はい」と、ナツソはうなずいた。このキビの巫女の中でももっとも控えめな娘は、しかし、海の民の巫女らしい、奥深いしたたかさを秘めていた。「あの件があってから、わたしはコジマの水軍の中でも、とくに信頼がおける者たちと、そうでない者を組み分けるようにしたのです。非常に重要な伝達を行うときの合言葉も取り決めております。信頼できる者にさえ連絡が取れれば、そして囚われている者たちの場所さえわかれば、そのように動くことは可能です」
 コジマの水軍は、キビの中で唯一、今回の洪水での壊滅的な被害を免れていた。イズモの北面からの侵攻の一役を担って別働隊になっていたためだ。
「ただ、問題はどうやってそれを伝えるかです。わたしたちにはここを出る手段がありません」ナツソは残念そうに言った。
「それは……おそらく大丈夫だと思います」黙って聞いていたクシナーダが言った。「わたくしがかならずなんとか致します」
「ありがとうございます、クシナーダ様」アナトはクシナーダとナオヒ、そしてアカルの方を向き直った。「イスズ様の貴いご意志と同じく、この争いを収めるため、わたしたちも命を捧げます」
 四人のキビの巫女たちは、頭を深く垂れた。
「わたくしも同じ気持ちです」と、クシナーダは応え、みずからも深く頭を下げた。
 そんな若い巫女たちを見ていたナオヒが言った。「それだけでは不十分」
「ナオヒ様?」クシナーダを振り返った。
「そなたらがカガチに反旗を翻したところで争いはなくならん。カガチを止めねば」
「たしかにおっしゃる通りですね」
「あのモルデという者が首尾よくエステルを説得できたとしよう。しかし、カガチはかならずカナンを滅ぼそうとするであろうし、カナンが撤退したところで、カガチの思惑はこの島国全体の制圧にある。いずれは東国やツクシも争いに巻き込んでいくであろうな」
「カガチを倒さねば解決はしないということですね」アナトが言った。「この戦いと洪水でのキビの被害は甚大です。ですが、本国に戻れば、まだある程度の兵力は集めることができます」
「そのような悠長なことをしておれるのかな。そなたらはヨモツヒサメのことを軽く考えておる。あの者どもは人の憎悪や怒りを吸うだけではない、この地上にそれをばらまく」
「ばらまく?」
「ばらまかれた憎悪は人の中で増殖して、いっそう大きなものとなる。それをまたヨモツヒサメは食らう……。魔の循環じゃ。そうして肥え太った〝負〟の力は、たちまち破滅を引き起こすじゃろう。そこへ至るまで、多くの時間があるとは思わぬことじゃ。まして――」ふっとナオヒは笑った。「カガチを並みの兵力で倒せるはずもない」
「カガチはあの剣を得て、その〝力〟によって鬼と化しました」アカルが言った。「あの〝力〟がある以上、並大抵の手段ではカガチを制することはできません」
「剣を奪い取っては?」と、イズミが言った。
 アカルは首を振った。「もはやカガチは鬼神の〝力〟と一体化しております。剣を離すことができても、カガチにはもはや何の変化もないでしょう」
「鬼となった者を救う手段はない」ナオヒが珍しく重い口調で言った。「殺す以外は……。しかし、そのために兵を動かしても、おそらく今はヨモツヒサメの格好の餌食となるであろう。闇に取り込まれ、闇に使役され、よりいっそう世の破滅の助力となろうな」
「カガチを制することができるのはスサノヲだけです」クシナーダが言った。「スサノヲの帰りを待ちましょう。そのとき、いつでも行動を起こせるよう、準備を整えておくのです」
 沈黙が落ちた。その中、すっとアカルが立ち上がった。まだ足元もやや頼りない様子ながら、イスズのそばに行き、かけられた布をめくり、しばし、その顔を見つめていた。
「一つだけ、手段がございます。カガチのことは、わたしにお任せください」
 その言葉はイスズに対して囁かれたものでもあったようだった。


 ――そして。
 スサノヲは意識を取り戻した。建屋の隙間から差し込む朝の光が眼に痛かった。
 鉛が身体に詰め込まれたように重かった。呼吸をして、息を体内に送り込むことさえ、苦労が伴った。
「気が付いたか」
 声が聞こえた。逆光の中に人影が揺れた。




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