ヤオヨロズ18 第5章の1と2 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

◇◆◇第5章 ◇◆◇



「洪水だ!」
 叫びがトリカミに響き渡った。それは鋭い揺れの地震の後だった。
 地震は激しいもので、家屋のいくつかが倒壊した。慌てて外に飛び出した里人がほとんどで、下敷きになって怪我をするような者はいなかった。が、それからほどなく斐伊川のほうから異様な轟きが迫ってきた。
 トリカミは小高い場所に中心の集落があり、洪水そのものがその丘に駆け上ることはなかった。が、それによって甚大な被害をこうむったのは、他ならぬカガチの軍勢だった。
 オロチ連合軍はトリカミ一帯からカナンを追い払うと、そのまま川の下流方向へ部隊を展開していた。トリカミのやや北の広い河原に主力を配備し、さらに北に位置するイズモのカナン軍に備えていたのだ。
 気づいたときには遅かった。あっと振り返ったときには、巨大な泥の化け物のような洪水が、兵たちを残らずひと呑みにし、濁流の中に叩き込んでしまった。氾濫した川の水が眼前にまで迫り、命からがら逃げだしたのは、キビから同行していたイオリ――キビで山城を造営していた太守――と、彼の周辺にいたわずかな者ばかりだった。
 難を逃れたイオリは泥だらけになってトリカミまで引き返し、カガチに報告をした。
「ほどんど全滅だと……」カガチの表情はさすがにこわばった。
「い、いえ。今も生存者を探しておりますが、あの有様では大半はとても助からぬものと……」
 焚火のそばでカガチは、すでに夕闇が濃くなったトリカミの里を見まわした。トリカミには里人の反抗があったときのために百名ほどの兵を残していた。それだけいれば、武器を持たぬ者のコントロールなど容易だと考えていたのだ。
 そして残りすべてを北へ向かわせたのは、カガチ自身の判断だった。カナンがどこかで態勢を立て直し、反攻に出てくる可能性を考えたら当たり前の措置だったが、この責はどこへも持って行きようがなかった。
「こんな馬鹿な……」
 ヨサミはカガチのそばにいて、彼がそのような言葉を漏らすのを初めて聞いた。さしもの鬼神も動揺は隠しきれなかった。
「全兵力の半分近くを失ったということか……」
 オロチ軍はタジマから西進したミカソ率いる軍と、そして海から攻め入ったタジマ水軍、コジマ水軍の二つが、イズモのカナン主力と対峙しているはずで、まだそれは残されているはずだった。そこへ南の山側からカガチたちが進軍すれば、もはや壊滅的な状態になる――はずだった。
 その計画が、今、根底から瓦解してしまっていた。たった一度の洪水で。
「カガチ様、この上はミカソらの部隊と合流するのを急いだ方が良いかと」脂汗を浮かべるイオリは、今にも激高したカガチに切り殺されるのではないかという恐怖をありありと見せていた。「もしここへカナンが攻勢をかけて来たら、ひとたまりもありません」
「ひとたまりも?」カガチの眼が酷薄そうな光を浮かべて見つめた。「この俺がここにいるというのにか」
「あッ――いえッ! それは、カガチ様がおられれば」ぶるっと震える。
 カガチは立ち上がった。イオリは、ひっと後ずさる。
「巫女どもの様子を見てまいる。イオリ、おまえは生存者の救出の指揮を取れ」
「わ、わかりました」
 イオリが頭を下げる横をカガチは素通りして行った。巫女たちを収容している家屋のほうへ向かって歩いて行く。


「皆、死んだ――?」
 愕然とした声を上げたのはアナトだった。
 巫女たちの前には一人の男が身を低くしていた。彼はイスズがヤマトから連れてきた従者、カーラだった。浅黒い肌をした小柄な男である。
 カーラはイスズが連れてきた兵たちとは行動を共にせず、影のようにひっそりとイスズにだけつき従っているのだった。
「先ほどの地震が引き起こした洪水は凄まじく、ここより北に陣を張っていた軍勢すべてをひと呑みに致しました。そこにはほとんどの兵力が集められていました」
 カーラはその眼で見た光景を語った。それはすなわち、アナトたちにとっては同胞たちの死を告げるものであった。アナトらキビの巫女たちは、がっくりと肩を落とした。
「わたくしがヤマトから連れてきた者たちもか」と、イスズが問うた。
「はい」
「狂気は凶事を呼ぶ……」ナオヒが言い、傍らでまだ眠っているアカルを見つめた。「アカルがさきほど穢れを吐き出したように、大地もまた穢れを一掃しようとする。穢れを地に溜めこむのは、それは人じゃ。草木も動物も、皆、自然のままに生きておる。ただ、それだけ。が、人は違う。人は意識の在り様を地に反映させるのじゃ」
「人の意識が穢れれば、このようなことは起きると……」と、シキが言った。キビでの災害を目の当たりにした彼女らには他人事ではなかった。「わたしたちのせいということでしょうか」
「シキと申したな」
「はい」
「そなたは意識を身体から離して飛ばすことができよう」
「あ、はい……」初対面なのに能力を見透かされたことに戸惑いを見せた。
「ならばこのネの世界が、丸い星であることも知っておろう」
「はい……。美しい青い星です」
「この島国の様子や星の在り様を見て、何か不思議に思うたことはないか」
「…………」シキはしばし床に眼を落としていたが、はっとしてナオヒを見た。「このワの島国の形のことでしょうか」
 我が意を得たりとばかりにナオヒは笑みを浮かべてうなずいた。
「このワの島々は、この星の他の大きな島々と形が似ております! まるで世界を集めたような……不思議に思っておりました」
「その通りじゃ。カタチが似るということは通じるということじゃ。このワの島々には多くの地脈が集まっており、外国(とつくに)ともつながっておる。人の身体で言えば、臍のようなものじゃ。腹の中の子は、臍で母親とつながっておるであろう。ここにイザナミ様がここにおわすのもそのため」
 クシナーダ以外の巫女たちは驚き、顔を見合わせた。彼女らにとっては未知というよりも、すでに失われつつある情報だったのだ。
「ワの国は地脈を通じて、じつはこの島国以外の世界の浄化も行っておる。そのためこの島国には地震も火山も多くできておるのじゃ。しかし、もしこの臍であるワの国自体が穢れてしもうてはどうなる?」
「胎児は死にまする」シキは寒々とした声音で言った。
「さよう。この場合、胎児というのはこのネの世界、このまあるい星のすべてじゃ。根が枯れれば、すべて死に絶える……」ナオヒはたんたんと恐ろしいことを語った。「もう一万年も昔、そのような恐ろしい崖っぷちに至ったことがあると聞いておる。その時も人の心は乱れ、穢れを地に溜めこみ、それが溢れ出した。心を持たぬ者はおらぬ。人は皆、その心でこの星の命運にかかわっておる。心こそが未来を作るのじゃからな」
「未来が視えなくなりました、なにも……」イスズが宙を見つめて言った。「ついしばらく前まで、あれほど多様に広がっていた未来が、たった今は閉ざされたように……。そうではありませぬか、クシナーダ様」
 クシナーダはうなずいた。「わたくしがかつて視ていた、自分の二つの未来。それが今は闇に塗りつぶされたように、まったく何も視えなくなりました」
 彼女は自分の胸を片手で押さえていた。まるでそこが痛むかのように。
「それは、もう未来がなくなったということでしょうか」アナトが蒼ざめて言った。「わたしたちがあまりにもこの世を穢してしまったせいで」
「ヨモツヒサメをヨミに返さねばなりません」と、クシナーダが言った。「あれがこの世に出ているかぎり、未来はないのです」
「わたしはあのようなもの、ただの言い伝えに過ぎぬと思うておりました」年若いイズミが言った。「トリカミが守っている岩戸。天にも地の底にも通じる岩戸。トリカミが侵され、穢されるとき、岩戸に封じられていた〝死の力〟がこの世を滅ぼすという……」
「ヨモツヒサメは人の意識の闇が集まったものです。復讐心、憎悪、嫉妬、強欲――そのような意識の集合体ですが、地の底にある手を触れてはならぬ〝力〟――石のようなものの化身でもあります。それを掘り出し、手を触れてはならぬのです。ぷ……ぷるとにうむ……そのような名の化身です。それにはこの世を滅ぼす〝力〟があります。まさに死の化身なのです」
 クシナーダの言葉に、皆、重い沈黙に落ちた。
「クシナーダ様、大丈夫ですか? さきほどから何かお苦しそうなご様子」ややあってイスズが声をかけた。
「はい。ありがとうございます。ご心配には及びません」
 その言葉ほど、彼女は顔色も冴えなかった。ずっと胸に手を当てたままである。
「クシナーダ様」アナトが言った。「わたしは先々代の老巫女から聞いたことがございます。〝ヨミ返し〟という技があると」
「はい……。しかし、そのためにはまず私たちが諍いをやめなければなりません。この地で起きている戦いをやめさせることが絶対に必要です」
 クシナーダはイスズを見た。その眼差しを受け、イスズは感嘆をあらわにした。「本当に……クシナーダ様は何もかも見抜いておられるのですね」
 周囲が何のことかわからず、きょとんとした。ただ一人、ナツソだけが、あ……と思い当たるような反応を示した。
 イスズは彼女らに向かって静かに言った。「皆様、わたくしはこの戦いを終わらせるために参りました。それこそがわたくしが果たさねばならぬ責なのです」
 一同はその言葉にあっけにとられた。イスズにこの戦いの何の責任があるというのか。そして、この戦いを終わらせる、どのような手段があるというのか。
「カーラ、あの者の居場所は?」イスズは、変わらずそこに待機している従者に言った。
「はい。わかっております」
「今宵、わたくしをそこへ連れて行っておくれ」
「はい。しかし、見張りが……」
「この里の者に頼んで、お酒を分けてもらい、彼らに呑ませなさい。あとは、わたくしが彼らを眠らせます」
「わかりました」
「では、行きなさい」
 カーラは頭を下げ、家屋を出て行った。巫女たちに食事を届けるという口実で家に入ったのだが、やや長かった滞在にも衛兵はあまり神経をとがらせなかった。オロチ軍は今それどころではないのだ。今も次々と洪水の現場から、負傷者が里の中へ運び込まれている。
「もし事を起こすとしたら、今宵以外、機会はないでしょう」従者を見送って外の様子を眺め、イスズが振り返った。「わたくしが今夜、ここを抜け出られるように、お力をお貸しください」
「それはできうることなら……」アナトが言った。「イスズ様、いったい何を……あの者というのは?」
「モルデという、カナンの者です」
 巫女たちは顔を見合わせた。
「モルデを生かしてここから解放するのです。それだけが唯一、この争いを止める手だてとなります」
「なぜ、あのような者が」
「それは……」
 イスズが言いかけたとき、クシナーダが前のめりになって倒れた。
「クシナーダ様!」
 巫女たちが動揺して詰め寄る中、クシナーダは胸を抱きかかえるようにして、うわ言のようにつぶやいた。「生きて……」
 覗きこんだナオヒが言った。「クシナーダは今、スサノヲを助けようとしておるのじゃ」
「スサノヲ?」
「この争いの命運を握る男じゃ。今おそらく傷つき、死にかかっておる。クシナーダはそれを助けようとしておるのじゃ。そなたらもわかるじゃろう。病の者を癒そうとすれば、同じ場所が痛くなったりするであろう? それを浄化することで病は治る。それと同じことをクシナーダはしておる」
「何事だ」
 はっとして振り返った。戸口にカガチの巨体があった。その眼が横たわるアカルを、そしてクシナーダを見た。
「約束通り、アカルの命は救った」ナオヒが言った。「が、まだ二人とも予断を許さぬ。今しばらく安静にさせておかねばならぬ」
 カガチは黙って、アカルの顔を覗きこんだ。そのごつい指先で、そっとその頬に触れた。その仕草は似つかわしくないもので、巫女たちを戸惑わせた。しかも、その指先は震えているように見えた。
「よけいな考えは持たず、おとなしくしておることだ。戦いが終われば国に戻れる」
 カガチはそのように告げると、去って行った。




 東の夜空に赤い星が上ったころ、イスズは行動を起こした。衛兵たちはカーラが差し入れた酒を上機嫌で呑み、連日の行軍での疲れも手伝い、焚火のそばで居眠りが付き始めた。
 巫女たちは聞こえるかどうかというほどの声音で、人の神経を和らげる歌を口ずさんだ。その一方、イスズたちはやや遠隔ではあったが、〝気〟を衛兵たちに送り続けた。心地よい〝気〟を注入された人は、猛烈な睡魔に襲われる。疲れていればなおさらだった。
 衛兵たちの意識がなくなるのに、さほどの時間は必要なかった。
「よいですか。わたくしが勝手に行動したのです。皆様は何も知らずに眠っていた」他の巫女たちを諭すイスズの切れ長の目には、静かだが強い意志がみなぎっていた。「何が起きるかわかりませぬ。わたくしが無事に事を成就して戻ってくることを祈ってください」
 アナトたちはうなずき、イスズが衛兵たちの間を抜け、カーラに迎えられるのを見送っていた。里のあちこちで篝火が燃やされているが、やがて二人の姿は闇に同化したように見えなくなった。
「アナト様、わたしは意識を飛ばして、お二人を追いかけます」シキがそう言い、静かに座った。彼女にとっては慣れた技だった。目を閉じて呼吸を整え、幽体を肉体から離脱させる。
 シキの幽体はアナトたちには霊視で追うことができた。
「わたしも遠視を……」
 アナトたちキビの巫女は囲み合うようにして座り、目を閉じた。肉眼を閉じていようと、シキの姿はしっかりと見据えられている。〝力〟は同種の能力を持つ者と共鳴することで高められる。シキが幽体離脱することで、引っ張られるように彼女らの意識も遠隔視が容易になった。
 ナオヒも眠りこけているように見えて、じつはすでにシキと同じく幽体離脱し、イスズの姿を追いかけていた。
 里の中は苦痛で満ちていた。昼間の戦争で傷ついている者たちの呻き、悶え苦しみが夜陰の中、気配として伝わってくる。警備に当たっている以外の兵はトリカミの里の祭殿に集まっていること、里人はそれぞれの家屋で過ごしているらしいことがわかった。
 カーラに連れられてイスズが向かったのは、その祭殿の近くにある物置のような小屋だった。祭殿前の広場には中に収まり切らない兵士たちが野営している。彼らに気取られないように行動しなければならなかった。
 小屋の戸口のところにも衛兵が二人立っていた。指示されるまでもなく、カーラはこの二人にも酒を差し入れたようだった。しかし、疲れと眠気は見せてはいるものの、焚火のそばで話し込んでいて、睡魔に引き込まれる様子はなかった。
 イスズがほとんど無言で出した指示で、カーラが動いた。彼は堂々と彼らの前に姿を現し、笑いながら近寄って行った。酒を差し入れていることもあって、衛兵はカーラに気を許していた。
 隙をついてカーラは二人を襲った。一人は背後からの強打で、もう一人は振り返ったところをみぞおちに入れた拳で気絶させた。カーラは茂みに隠れるイスズを目で呼ぶ一方、衛兵二人は見えないところへ引っ張り込んで隠してしまった。
 イスズが祭殿のほうを気にかけながら急ぎ駆け込んできた。カーラはそのまま戸口のところで警戒に当たる。
 小屋の中に横たわる男は満身創痍だった。露出している腕や脚で傷や痣のない場所を探す方が難しかった。髪はぼさぼさ、髭におおわれた顔はやつれ、眼だけがぎらぎらと輝いていた。女の手ではにわかにほどけないほど両手を背後できつく縛られている。イスズはカーラを呼び、戒めを解かせた。
 両手が自由になったモルデは、その場に座り直した。そして不審げな眼差しをイスズに送った。
「あんた、誰だ……」血流の通い始めたのを確かめるように手首のあたりをさすりながら訊く。
「ヤマトのイスズと申します」
「ヤマト?」その言葉にモルデは引っ掛かりを感じたような反応を示した。
「一緒に来てください。さあ」
「どういうことだ」
「すぐにお話します。さあ、急いで――」
 促すため手を伸ばした瞬間、モルデは厳しい拒絶のこもった動作でイスズの手を払いのけた。
「触るなッ――。異教徒の巫女が」
 それは見ている巫女たちも愕然とするほどの、非常に際立った嫌悪だった。これまでの苦痛と憎悪の分もこもっているとしても、モルデが見せた「異教徒の巫女」への嫌悪は、ほとんど本能的なものとさえ言えた。
「あんた、巫女だろう。身なりを見ればわかる」モルデはそう言いながら、周囲のものにつかまりながら立ち上がった。「俺に何の用だ」
 幽体となってその場に居合わせたシキは、遠隔視をしてそばに来ているアナトの意識が失望しているのを知った。アナトは一度、キビでの交渉でモルデに相対し、彼らカナンの民が持つ強固な選民的思想を見抜いていた。そのとき以来、モルデは何も変わってはいないということの証明だった。
 ――しかし、と巫女たちは期待を込めて思った。
 イスズが彼女らに語った真実。それをモルデに話し、そしてモルデがもしそれを受け入れることができたなら……。
「あなたを逃がして差し上げます」
「俺を……? なぜだ? おまえらはあのカガチの仲間だろう」
「心ならずも……。あなたには真実を知る勇気がありますか。わたくしが知りたいのはそれです。もしそうでないのなら、このままあなたを置いてここを去ります」
「真実だと? どういうことだ?」モルデの顔に苛立ちがあらわになってきた。「持って回った言い方をせず、はっきりと言え」
「わたくしはあなたがたと同族です」
「!」
 このときのモルデの驚愕と混乱ぶりは見ものだった。驚き、猜疑、揺れ動き、そんな感情をぐるっと回ったのち、彼は最後に笑いという表現を選択した。
「ばかな……。はは、何を言い出すかと思えば」
「ヤー・マト」イスズが言った。「その言葉の意味は?」
 それはモルデがさきほど引っかかった言葉だった。
「……神の民……」心を許さぬ警戒を滲ませながらモルデは言った。
「そう。あなた方の元の言葉で〝神の民〟――それがわたくしの国の由来でもあります」
「あんたの……?」
「わたくしはあなたがたより先んじて、この〝もう一つの土地〟――エルツァレトに辿りついていた者の末裔です」
 この瞬間、モルデの顎が外れるのではないかというほど口を開いていた。「あ……あ……まさか、〝失われた支族〟……!?」
「そうです。わたくしたちの先祖は北の王国サマリアが滅び去った後、ここへたどり着いたのです。そうして幾世代も、この地の人々と交わり、溶け合って時代を生きてきました。モルデ、あなたがたは南の王国の末裔でしょう」
「し、しかし、そんな……それなら、なぜそのような異教のわざを……神のご意志に背き、また邪教に堕落したのか」
「愚かな……」
「愚か?」
「わたくしの先祖は長き放浪の果て、この地に辿りつき、真実を知ったのです」
「真実とは……」
「創造されたこの世界にただ一つの神を見る者と、この創造された世界すべてに神を見る者の違いでしかないということに」

 ――唯一の神。そなたらの言う唯一の神というのは、いったいいかなる神なのか。
 ――この地のすべてを創造され、支配されておられる神。
 ――その神のどこが、われらの感じる神々と違うのだ。

 モルデの脳裏に、アナトと交わした言葉がよみがえった。あのときは一笑に付してしまったが、あのやり取りの裏側にあったアナトの言わんとすることは……。
「モルデ、良いですか。神は普遍的なものです。しかし、それは伝える人間によって、否応なく色づけされてしまうのです。人の言葉で神のすべてを表現することはできないのです。それは子供が、大人の考えを把握できないのと同じことです」
 モルデはよろめき、背後の壁にぶつかった。積み上げられていた薪が崩れた。
「そんな……」
「あなたの君主であるエステル様にお伝えするのです。戦い、奪うことをやめれば、この島国で当たり前に生きていけるのです。わたくしたちがその証明です。もしよかったら、わたくしの国に来てもらってよいのです」
 はっとモルデはイスズを見た。捕虜の身であっても、彼にもこの戦況がカナンにとって極めて厳しいものであることは理解できていた。
「あんたの国に……」
「そうです。ヤマトに」
「ヤマト……」落ち着きのない眼が、足元のあたりをさまよった。激しい迷いが彼の心に生じていた。
「わたくしが嘘をついていると思いますか」
「い、いや……」
「いつか、あなたがたのような者が到来すること、わたくしたちは待っていたのです。争い奪うのではなく、共に生きましょう。このワの国で。さあ――」
 イスズの差し出した手。モルデはそれをしばらく凝視していた。
 シキやアナトたちは残らず、このとき祈っていた。イスズの想いがモルデに伝わり、彼を動かすことを。
 モルデの手が、ゆっくりと持ち上がった。
 この国に来たときから、他の異教徒と〝どこか違う〟と感じていた、その漠然とした想いの根源――それが今、イスズという巫女として彼の前に存在していた。
 それと彼は、手を結んだ。
 イスズは、これ以上はないというほどの微笑みを浮かべた。
「神はすべて……。ならばこの世のすべてに神は宿っておられる。このワの地に来て、わたくしたちはそれを知るというよりも実感したのです。すべては貴い。すべてに神性がある。この島国の民は、まるで息をするかのように、その感覚を普通の暮らしにしていた。そしてあなたがたも、わたくしたちの祖先がそうであったように気づくでしょう。このエルツァレト――葦原の国は、本当はわたくしたちにとっても、はるかな……」
「イスズ様、お急ぎください」カーラの鋭い声が割って入った。
 小屋の中の二人は、はっとして動き出した。
 ――カガチが来る!
 幽体離脱しているシキは、あえてそのとき小屋から離れ、上空からの視点を得ていた。そして警告を発した。
 その思念はイスズにも伝わった。
「カーラ、モルデを導き、この里を出なさい。そして彼と共にエステル様に伝えるのです。戦いを終わらせ、違った道を選ぶように。このような手段によらずとも、カナンはこの地で生きられる。わたくしたちの祖先がそうであったように」
 イスズの言葉にカーラは衝撃を受けた。「イスズ様は――」
「おまえはこれより後はアナト様にお仕えするのです」
「イスズ様――」
「行け!」イスズは鋭い声音で従者に命じた。そして、モルデの背中を押した。
 硬直している男二人をしり目に、イスズは祭殿に向かって歩き出した。篝火に照らされた広場を、巨漢が歩いてくるのが見えた。カーラはそれを見て、モルデの腕をつかんだ。茂みをかき分け、里を出るべく、もっとも近い進路を走り出す。
 イスズはあえて目立つようにカガチに向かって歩いて行った。
「なにやらおかしな気配がすると思うておったが……」カガチは酷薄な眼を下ろして言った。「イスズ……こんな夜中になにをしておる」
「あなたと話をしようと思ってやってきました」
「ほう。なんの?」カガチの視線はイスズの背後の小屋へ動いた。そこにいるはずの衛兵の姿がないことには気づいていた。
「兵をお引きなさい」
「なんの冗談だ」
「あなたは大きな過ちを犯しています」
 カガチの背負う悪霊の如きものがざわめき、イスズに圧力をかけてきた。
「あなたの行いが触れてはならぬものに触れ、解き放ってしまいました。あなたは自分の未来をも、自分で消し去ったのです。しかし今ここで、未来にはかすかな光がある。その光を広げ、未来を呼び戻すためには、ここで兵を収める必要があります」
「ふざけたことを……。あの者を逃がしたな」カガチの眼が小屋を見た。「どういうつもりだ。何を考えておる」
 カガチは予知や読心の能力をヨサミから得ていた。この夜にイスズの動きを察知したのも、その〝力〟と無関係ではなかったろう。が、彼は本来の巫女ほどその能力を使いこなせてもいなかったし、イスズのような巫女が心を閉ざしてしまえば、その考えを読み取ることなどはできるものではなかった。
 ちっと舌打ちし、カガチは祭殿の広場で野営している者たちに叫んだ。「捕虜が逃げたぞ! 追え!」
 疲れ切って眠りに着いていた兵も、その轟くような一声で飛び起きた。
「カガチ様! いったい何が――」
「さっさと追え! カナンの捕虜が逃げた! 探し出し、連れて来い!」
 兵たちは慌てふためき指令に従って散っていく。
「あの者の首をエステルとやらの目の前で切り落としてやるのが趣向よ。おまえなどに邪魔はさせん」
 イスズは眉根を寄せた。
「ヨサミはそれを見て、さぞかし喜ぶだろう。やつらにはただ死ぬよりも惨い思いを味わわせてやる」
「愚かな……」
「イスズ、おまえはいつもそうだ」カガチはゆっくりと巫女の回りを歩きながら言った。「俺を哀れな者のように見下げた物言いをする」
「あなたの行いは、ただ憎しみを生み増やし、育てるだけ。それはいつか自分に戻って来る。それを愚かと言わずして何と言えばよいのですか」
 カガチは腕を伸ばし、大きな掌でイスズの顔面をつかんだ。指の間から切れ長の眼が、ずっと見つめ続けていた。
 カガチの背負うものが、いっそう大きくざわついた。苦悶し、のたうつようにうごめく。
「……そんな眼で俺を見るな」
 頭部を締め付ける握力が強まり、イスズは苦痛に耐えた。が、眼が閉じられることはなかった。
「その眼をやめろ……。その冷たい眼を!」
 カガチはまるでボールでも投げるようにイスズの頭部を地面に叩きつけた。細い首が折れるのではないかというほど暴力的なやり方だった。
 ――イスズ様!
 シキが、そしてほかの巫女たちが意識の叫びをあげた。
 獣のような唸りを発し、カガチは苦しむイスズの身体の上にのしかかった。「やめぬのなら、この場でおまえを犯し、五体を引きちぎってやろうか」
 そう言い、胸元の衣類を引き裂いた。怪力のカガチには造作もないことだったが、衣が裂けるほど引っ張られるのだ。イスズの肌は傷ついた。
「やってごらんなさい」イスズは苦しみながら、それでも毅然とした眼をなくさなかった。「その前に舌を噛みます」
 その眼の中に、カガチはかつて自分に向けられた冷たい女の眼を見ていた。
 ――あんたなんか、生まれなければよかった。
 そう言った母の眼だった。
 その母は、起きた戦乱の中、他の家族もろとも惨殺された。殺される前、侵略兵によって犯され――。
 子供だったカガチは、隠れてそれを見ていた。事後、血の海と化したその場所に、カガチは佇み、骸となった母を見下ろし、思った。
 このような惨い死に方をするくらいなら……

 俺が殺してやればよかった。

 数々の女の面影がフラッシュバックした。それはアワジら、トリカミの巫女たちの顔だった。彼が毎年、殺してきた女たちの顔――それが今、イスズの白い面差しの上に重なり合っていた。そして、母の顔も――。
 イスズは視野が暗くなってくるのを感じていた。カガチの両手が首を絞めつけていた。
 ――イスズ様!
 悲鳴のような声が聞こえる。他の巫女たちが狂ったように騒ぎ立てていた。
 ――見ておくのです。救われ得ぬほどの悲しみを。
 イスズは思念を放った。
 巫女たちは視ていた。イスズの上に馬乗りになり、首を絞めている男の姿を。
 いや、それは巨漢のカガチではなく、少年だった。少年は涙を流しながら、〝母〟の首を絞めていた。すでに息絶えた母の首を、彼はもう一度絞めていた。
 その母の顔は、アカルに似ていた
 ――それでも……。
 イスズの意識が途切れた。


 離れた場所にある巫女たちの家屋で、アカルとクシナーダは同時に目を覚ました。
「イスズ様……」
 気づくと、キビの巫女たちは抱き合って泣いていた。
 ナオヒはクシナーダと目を合わせると、やるせなく首を振った。


 遠い篝火が照らすイスズの顔は、もう眼を閉じていた。
 カガチはぶるぶると震える両手を見つめていた。よろめき、動かぬイスズの上から離れた。そして彼は吠えた。
 月のない夜空に向かって。



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