神様は見ている |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

丹後半島の、もう一つの元伊勢。

籠神社。

そこへも参拝してきたゼファーです。

私は御神籤は信じるほうです。というのは、経験的に「当たる」ことが多かったから。

その時の状況をズバリさしていたり、今後の状況を予見していたり。


他の方はどうかわかりませんけれど、私に限ってはこれは無視できないものなのです。

御神籤自体は「末吉」で、書かれていることも、よく物事を考えて進みなさいということや、不測のことはあるけれど、叶っていくとか、そのような内容でした。

私は基本的に「神教おみくじ」しか引かないんです。

これにはたいてい一番上に和歌のようなものがあり、裏には「神の教」というのがあるんですビックリマーク

和歌は以下のようなものでした。

夕立の

雨は見る〱(みるみる)

はれ行きて

木末(こずえ)涼しく

せみの

なくなり



ありがたいお言葉です。

裏の「神の教」が以下のようなものでした。


image

清くなければ、神様に通じない。



じつは私は、このところ、神様は本当いらっしゃるということを、幾度か痛感する経験をしました。

以前より、神様も仏様もいらっしゃると信じてはいる人間でした。

人は肉体だけの存在ではなく、いわゆる死後も命は光となって存在するとも。

私の亡くなった父や、祖父母、曽祖父母なども、光となって存在している。

幾度かは助けてくれたこともありました。


死後の世界に存在する人たちは、ずっと私たちのことを見ている。

ましてや神様や仏様は、私たちのことは何もかも見ているし、知っている。

その心根までも。


だからあまり恥ずかしい生き方はできないということは、ずっと心の片隅にありました。

しかし、段階が進んでくると、「これくらいでいい」というのはなく、さらにその上に進まないといけなくなる。

きっとそう。


ただただ禁欲的になり、いわゆる善人になれ、というようなこととも、若干違うと思うのです。

人は、人として生まれる以上、当たり前の欲求や、人間関係の中で味わう様々な感情も与えられている。

しかし、感情におぼれてしまい、ふりまわされると、人はたいてい迷いの森に彷徨いこんでしまいます。

欲得や打算は神様には通じないし、私利私欲の行動では神様の御心に通じるものでも、当然ない。

うわべを飾っても、すべては見られておられる。


「誇りがつけば」とありますが、この「誇り」はエゴでもあるし、「埃」とかけたもの。

エゴは埃だということ。

思えば感情に振り回されること、おぼれることの大元にも、じつはエゴがある。

私利私欲もエゴだし、打算もエゴ。


自分のつまらないプライドを持ち込んで事をなしても、それは神には通じない。

エゴを捨て、ゆだねること。


先日も、そんな記事を書いてしまったばかりでした。

同じことを示されておられる。


やはり神様はちゃんと見ておられる。


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