籠神社。
そこへも参拝してきたゼファーです。
私は御神籤は信じるほうです。というのは、経験的に「当たる」ことが多かったから。
その時の状況をズバリさしていたり、今後の状況を予見していたり。
他の方はどうかわかりませんけれど、私に限ってはこれは無視できないものなのです。
御神籤自体は「末吉」で、書かれていることも、よく物事を考えて進みなさいということや、不測のことはあるけれど、叶っていくとか、そのような内容でした。
私は基本的に「神教おみくじ」しか引かないんです。
これにはたいてい一番上に和歌のようなものがあり、裏には「神の教」というのがあるんです

和歌は以下のようなものでした。
夕立の
雨は見る〱(みるみる)
はれ行きて
木末(こずえ)涼しく
せみの
なくなり
ありがたいお言葉です。
裏の「神の教」が以下のようなものでした。

清くなければ、神様に通じない。
じつは私は、このところ、神様は本当いらっしゃるということを、幾度か痛感する経験をしました。
以前より、神様も仏様もいらっしゃると信じてはいる人間でした。
人は肉体だけの存在ではなく、いわゆる死後も命は光となって存在するとも。
私の亡くなった父や、祖父母、曽祖父母なども、光となって存在している。
幾度かは助けてくれたこともありました。
死後の世界に存在する人たちは、ずっと私たちのことを見ている。
ましてや神様や仏様は、私たちのことは何もかも見ているし、知っている。
その心根までも。
だからあまり恥ずかしい生き方はできないということは、ずっと心の片隅にありました。
しかし、段階が進んでくると、「これくらいでいい」というのはなく、さらにその上に進まないといけなくなる。
きっとそう。
ただただ禁欲的になり、いわゆる善人になれ、というようなこととも、若干違うと思うのです。
人は、人として生まれる以上、当たり前の欲求や、人間関係の中で味わう様々な感情も与えられている。
しかし、感情におぼれてしまい、ふりまわされると、人はたいてい迷いの森に彷徨いこんでしまいます。
欲得や打算は神様には通じないし、私利私欲の行動では神様の御心に通じるものでも、当然ない。
うわべを飾っても、すべては見られておられる。
「誇りがつけば」とありますが、この「誇り」はエゴでもあるし、「埃」とかけたもの。
エゴは埃だということ。
思えば感情に振り回されること、おぼれることの大元にも、じつはエゴがある。
私利私欲もエゴだし、打算もエゴ。
自分のつまらないプライドを持ち込んで事をなしても、それは神には通じない。
エゴを捨て、ゆだねること。
先日も、そんな記事を書いてしまったばかりでした。
同じことを示されておられる。
やはり神様はちゃんと見ておられる。
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