◇◆◇第2章 五人の巫女 ◇◆◇
「かならず無事で戻ってくれ」
カヤを発つとき、エステルはモルデにそのように声をかけた。そして、そっと耳元に顔を近づけて、囁いた。「戻って来たら、知らせたいことがある」と。
その言葉の意味を考えたのもしばらく間だけ、モルデは二人の護衛を連れ、急ぎカヤを南へ下った。昨日の豪雨のため、川は荒れており、舟は使えなかった。半日ほどかけ川沿いの道歩き、ようやくキビの勢力下である渓谷の手前までたどり着き、そこからは慎重に行動した。
渓谷の中、そして出口で待ち構えているのは、キビの軍勢だけではなかった。オロチ国の軍も配備されていた。
モルデが交渉に当たらねばならないのはキビであり、オロチではなかった。キビをオロチから離反させるためには、オロチに動向を知られるわけにはいかず、内密に事を進める必要があった。
こういった判断も、事前のモルデの索敵と諜報活動があればこそだった。
さいわいオロチ国の兵は、キビのそれに比べて全体に重装備だった。これはカナンの兵力に対抗するために、この頃増強されてきたものだ。見分けるのは難しい話ではなかったし、モルデにとって好都合だったのは、渓谷の上流にキビ国の中のコジマの兵士たちが配備されていたことだ。おそらく敵襲を受けた場合、水軍の彼らは小舟で一気に下流へ下り、本隊に知らせる役割を持たされていた。
モルデは周辺にオロチ国の兵は存在しないことを確認したうえで、彼らの前へ堂々と進み出た。
「カナンの使者、モルデだ! オロチ国に勝るとも劣らぬキビ国の兵(つわもの)よ、そなたらの国主と話がしたい!」
その場を任されていたコジマの指揮官との話し合いは、思惑通りオロチ国の知るところとはならず、モルデ以下三人はその後、キビの兵士に連れられ、渓谷を避けた山道を使って川を下った。オロチ兵の目が届かないエリアの川幅が広くなったところで流れを船で下った。太陽が西へ傾き始めた頃には、アゾに到着していた。
アゾはキビの中心地である。なだらかな山々が取り囲む広大な平野に、膨大な数の高床の建造物が並び、集落が取り巻いて広がっていた。物見やぐらでは常に警備する兵がいて、周辺の出入りを見守っている。
索敵時に目にしていたとはいえ、その規模に舌を巻く。モルデに同行した二人の護衛は、これまでの小国とは異なるその景観に気を呑まれていた。
案内されたのは、アゾの中心地にある大きな建造物の中だった。護衛の二人は外で待たされ、モルデは剣を預けるように指示された。それに従う。
もし自分の身に何かあれば、カヤの民、そして砦の生き残りの命がなくなると伝えてある。恐れることはないと自分に言い聞かせる。
やがて二人の巫女と国主らしき年輩の男が姿を現した。
「首長のタケヒだ。こちらは筆頭巫女のアナト様、そしてヨサミ様」
アナトは静かな、品の良い雰囲気を持つ巫女だった。ヨサミは燃えるような眼をして、モルデのことを凝視していた。
また巫女か、とモルデは思った。ワの国はどこへ行っても、巫女に遭遇する。巫女たちの多くは政治の決断にも影響力も持ち、人心をまとめ上げる核となっているように思えた。そういうワの国の風土や習慣のことに理解はあっても、モルデにはワの巫女など、しょせんは劣った邪教の魔女に過ぎなかった。
むしろ蔑みの対象でしかない。そんな思いは胸に押し隠しながら、モルデは言った。
「カナンの王女、エステル様の名代として参りました。モルデと申します」
「話というのは?」
タケヒは穏やかな眼を持つ首長だった。しかし、いつでも強さを押し出すことができる者だということは、モルデも一瞥で実感していた。胆力のある男だった。持ってまわった話し合いをするより、こちらの肚(はら)を開いて見せるべきと考えた。
「単刀直入に申し上げる。われらと同盟を結ばれる意志のあるや否や」
「同盟?」
「イズモ一帯は、今やわれらカナンが制圧しつつある。オロチ国の勢力は、今や中海より東まで退き、その後も東へ下がるのみ。この状況をキビの方々は知っておられるのか」
「聞き及んではおる」
「そのことが意味するものは何か、よく理解しておられるのか」
「そなたが言うことの意味が、よく呑み込めぬが」
「トリカミの里はすでに我らが守るところの土地という意味」
タケヒの表情に、かすかに驚きがよぎった。
「むろんわれらはトリカミの里が、そなたらにとっていかに重要な土地か、理解している。手を出すつもりはない」モルデは彼らをけん制しつつ、安堵も与えるために言った。
が、なぜか、先刻からヨサミと呼ばれた巫女のことが気になっていた。同盟と聞いたときも今も、彼女の表情には氷のような冷たさと、その中に秘めたマグマのようなものが感じられた。この場の雰囲気のぎこちなさも、大半は彼女によるものと思えた。
というのは、アナトやタケヒが、彼女の存在をどことなく気にしている雰囲気が伝わってきたからだ。この会談に、どうあっても自分もとヨサミが言い張って出席したことは、モルデには知る由もない。
「トリカミの巫女は今や我らが守っているということ。それをキビは理解しておられるのか」
「そういうことか……」タケヒは隣のアナトを見た。
キビの筆頭巫女は、そのとき伏し目がちなまま微動だにせずいた。
「このまま戦局が進めば、やがてはイナバやタジマもわれらに制圧されよう。イズモからタジマにかけて多くあるタタラ場で強制労働させられている者たちも、われらの力で解放される。そなたらの家族も」
「このワの国の事情に通じておるようだな」
「そなたらにとって悪い話ではないはずだ。このままオロチのカガチにこのキビが屈していて良いのか。それをお伺いしたい」
「そなたの本心は、そのような親切心ではあるまい」アナトは静かに言った。
「なんと?」
アナトは床に目を落とす姿勢のまま、何かそこに書かれている文字を読むような調子で続けた。「キビを落とすことは容易ではない。これに力を注げば、背後が危うくなる。カヤを落としたのはいいが、そなたらは先へも後へも動けなくなっておるのだろう」
たなごころをあまりに明瞭に見通され、モルデは返答に詰まった。
「そなたらに絶対的に欠けておるもの。それは数。補うためには小国を併合し、人を集めねばならぬ。しかし、いかに人を集めたところで、今のままではそなたらには未来はあるまい」
「なにを仰るのか」巫女に気圧されまいとして、モルデは肩と胸を張った。
静かな中に潜んだ鋭利なものがアナトにはあった。鍛えられ、鋭く研がれた小刀のような気配だ。まだ若い小娘だと侮っていたし、邪教の汚らわしい巫女だとも蔑んでいた。それが思わぬ存在感と力を突き付けてきていた。
「われらは神によって約束されたこの島国の真なる支配者。この国はわれらのものとなることが定まっている」
ヨサミの眼が鋭く動き、光を弾いた。
「まことにそのような成り行きになろうか」と、アナト。
「われらには唯一の神がともにおられる。負けることはない」
「唯一の神。そなたらの言う唯一の神というのは、いったいいかなる神なのか」
「この地のすべてを創造され、支配されておられる神」
「その神のどこが、われらの感じる神々と違うのだ」
モルデは質問の意味が分からず、失笑した。何かも違うではないか。
「このワの国では、多くの神々を信奉している。われらの民もさらに古い時代、そのような愚かな原始的な信仰を持っていた。が、今のわれらは違う。われらは唯一の神によって選ばれたのだ。われらは特別な民。そしてわれらの信奉する唯一の神はもろもろのか弱き汚れた邪教の神々とは異なる。われらの神を信じれば、みな、救われるのだ」
「つまり今のままでは、われらは救われぬと?」
「われらと同盟を結べば、そなたらにも救いはあろう。神の思し召しが」
モルデのように大局を見る能力があり、理性的な判断が下せる人間であっても、まぬかれ得ぬものがあった。それは宗教の呪縛であった。神について語るモルデはその唯一神に確信を持ち、そしてみずからの信仰がやがてはこの下賤な島国の民どもも、多少なりとも救うと信じていた。
自分たちのような選ばれた民ではなくとも、選ばれた民に支配されるものとして。
くっくっく……と低く抑えた笑い声が聞こえた。
ヨサミだった。彼女は背を丸くし、手で顔を抑えるようにして笑っていた。それは、やがて顔が上げられるとともに、甲高くて神経的な笑い声となって響いた。
「アナト様、これがこの者たちの本音です! こやつらは、しょせん、自分たち以外は猿や虫けらのようにしか考えていないのです」
「なにを?」モルデは気色ばんだ。
「おまえの本音が読めぬと思うてか」ヨサミが立ち上がり、叫ぶように言った。「おまえの考えなど、われらには筒抜けじゃ!」
モルデは蒼ざめた。考えを読まれている?
「わたしはおまえたちに滅ぼされたカヤの巫女じゃ! 父も! 母も! 愛する同胞もみな、おまえたちに殺された!」
この瞬間、モルデは交渉が決裂したのを知った。まさかカヤの巫女がこの場にいようとは……いや、そうではない。カヤから逃げ延びた者はいても不思議ではない。それ以上に、両者の間にはもっと深い亀裂があったのだ。
それに気づかなかったために、モルデは判断を誤ったのだった。
「わたしはおまえらを許さぬ……」
「それは残念……」声がかすれた。
モルデが緊張と怯えを感じるほど、ヨサミが放つ憎悪は濃度が高く、そして熱いものだった。人の思考さえ読み取るという巫女たちの力にも気圧されるものを感じていたが、こんなときでさえモルデが寄る辺とするのは神への信仰だった。このような者どもが、いかなる力を持っていたとしても、唯一の神にかなうはずがない……。
神は自分とともにある。
「話し合いにならぬようだな」モルデは席を立とうとした。
そのときだった。騒ぎが起きたのは。「お待ちください」などという声が、悲鳴や絶叫に変わるということが繰り返され、アナトやタケヒにも動揺が走った。足音が近づいてきた。
会談の席に現れたのは、黒頭巾をつけた山のような巨漢だった。酷薄そうな眼が底光りする猛獣のような雰囲気の持ち主で、手には血濡れた剣があった。
「カ、カガチ……」タケヒが言った。
カガチだと? モルデは腰を浮かせながら、珍しく逡巡した。
「カガチ?」アナトの声は、むしろ疑念に満ちていた。いつの間にか見知らぬ存在へと変化を遂げていた相手を見るような、目にも表情にもそんな驚きと戸惑いがあった。
「貴様がカナンの者か」
まるで毒気のようだった。カガチが口を開き、言葉を発すると、禍々しい何かがあたりにまき散らされるようだった。アナトは胸を抑え、苦しんだ。
それはモルデのように霊感的なものに無縁な人間にさえ、影響力を持っていた。なぜか力が奪われ、手足を萎えさせるのだ。
「なぜ、ここに……」タケヒが言った。
「なぜ? おまえらが窮地に陥っておるのだ。俺が助けにやって来ても不思議ではあるまい」
まさかこの場に、オロチ本国からカガチがやって来るとは、誰も考えていなかった。
「ましてや、コジマの水軍にはわがタジマのアマ族の手勢も多く紛れ込んでおる。俺がここへ到着したときには、すぐに報告がまいったわ」
交渉がうまくいなかっただけではない。モルデは自分が致命的な失態を演じたことを思い知らされた。
「さて、どう料理してやろうか」カガチはすでに何人かを血祭りに上げた剣を楽しげに振りまわした。血があちこちに飛び散る。
モルデはその剣に見覚えがあった。ゆるいそりの付いた独特な形状をしていたから、すぐにわかった。
「それは……」
「ああん? この剣がどうかしたか」
スサノヲが使っていた剣だった。
「これはもうおまえの部下の血を吸うておる。おまえはどこから血を流したい?」
「われらが戻らねば、カヤの捕虜たちの命がないぞ」
「心配するな」ぐっと、カガチは顔を突き出し、笑った。人間のものとは思えないほどの犬歯が覗く。「おまえらに何かするほどの時間はない」
不意を突いて、モルデは相手に殴り掛かろうとした。一撃でも浴びせて、この場から逃亡するつもりだった。
が、カガチの動きはそれをはるかに凌駕していた。剣を持っていない左手が下から蛇の鎌首のように持ち上がり、モルデの身体を後方の柱に当たるほど跳ね飛ばした。下に落ちたとき、モルデは泡を吹き、気絶していた。
カガチは哄笑した。圧倒的な〝力〟がみなぎっていた。それはこの場のキビの者が、かつて見知っていたカガチのものではなかった。そして、その〝力〟を目の当たりにしたとき、アナトとヨサミでは取る反応がまったく異なっていた。
「カガチ様!」裏返るような声でヨサミが、カガチの巨体に駆け寄った。「こやつらを皆殺しにしてくださいッ!」
「ヨサミ……」アナトは信じられないといった表情で、子供の頃からの友人の変貌を見た。
ヨサミはすでに心を病んでいた。そのためか、まるで今この瞬間に明から暗に反転するような、異常な変化を遂げたのだった。
「おまえはカヤの巫女だったな」
「はい。どうか、カナンの者どもを皆殺しに」
「言われるまでもない。お前の国は取り戻してやる」
「国などいりませぬ。もはや国はありませぬ……」
はっとしてアナトは幼馴染の娘を見た。ヨサミは全身を震わせ、拳を握りかため、その手からは血が滴っていた。爪が皮膚を破るほど握っているのだ。体中が抑えがたい衝動で、暴れ馬のようになっている。憎しみのオーラが、鼓動のように彼女の全身から発せられ、それがカガチの恐ろしい邪気と結びついていた。二匹の巨大な蛇がのたうち、交わるように。
「もし傲慢なカナンの者どもを打ち滅ぼしてくださるのなら、わたしはなにもいりませぬ」
「よう言うた」カガチは凄絶な笑いを浮かべ、ヨサミの顎に指をかけ、顔を上向かせた。「国もないのなら、わがものとなれ。そうしたら、おまえの望みをかなえてやろう」
「喜んで……」
冷水を浴びたような心地とともに、「ヨサミ!」とアナトは叫んだ。だが、カガチから向けられた怒気が、熱風のように彼女を圧倒した。
「貴様ら……わが国をないがしろにして、カナンの使者となぜ会おうとした」
「…………」
返答ができなかった。アナトの心境には、カガチと袂を分かつことも一つの選択としてあったからだ。むろんヨサミの心情を思えば、安易にそのような選択は取れない。しかし、国の主としては考えなければならない問題だった。
この場でモルデの心まで見通すことで、カナンと同盟を結ぶという選択肢はなくなったが、そうでなければあるいはこの先に……。
「まあ、いい」カガチは言った。「明日、カヤに陣取っているカナンに攻勢をかける。すべての兵を集めておけ。いいか。明日からの戦には、おまえたちも参加するのだ」
「わたしたちも!?」
「そうだ。国の主であるおまえたちが先頭に立てば士気も上がろう。――このカナンの者を拷問にかけろ。交渉に出てきたほどの者だ。カナンの内情は詳しく知っておるはずだ」
「待って」数刻後、アナトは、一人、カガチについて祭殿を去ろうとするヨサミに呼びかけた。「ヨサミ、考え直して」
ヨサミは振り返って言った。「なにを?」
今まで一度も見たことがないほどの凍ったような表情だった。
「カガチについていけば、あなたは何もかも失ってしまう。巫女としても」
「なにを? もう失っているわ、何もかも」
「お父様やお母様が悲しむわ」
その言葉は、いくばくか、ヨサミの胸に食い込む力を持っていた。だが――。
「そんなことはわかっている……」地の底から吹き出すような憎悪が、眼と口元にみなぎった。「でも! わたしはカナンのやつらが憎くて憎くてしかたないのよ! 悲しくて悲しくて、どうしようもないのッ! この悲しみや怒りをどうしたらいいのッ!!」
最後は絶叫だった。
アナトはもはや言葉を失った。
「もういい……」ヨサミは静かに言った。「アナトも、みんなも、もういらない。あなたたちは、本当はカガチと手を切りたいのでしょう。わたしにはわかる。きれいごとばかり」
ヨサミは背を向け、歩き出した。その場にしゃがみこんだアナトの眼から涙があふれ出した。
カガチは言葉通り、翌日にはカヤに再建しつつあった砦を攻めた。川を遡上するルートだけではなく、東の山側からも大軍を押し寄せ、カナンの中核である精鋭部隊を数で圧倒した。しかし、それは数の問題だけではなかった。
指揮を執るだけではなく、カガチは自ら先頭に立ち、砦攻略の先鋒に立った。大将が先陣を切るなど、あり得ない戦略だったが、カガチは降り注ぐ矢を払いのけ、押し寄せる防衛隊を蹴散らしてのけた。
そこへオロチ・キビの連合軍が攻め込んだ。
カナンに油断があったわけではなかった。が、これまでありとあらゆる戦局で、その眼となり耳となってきたモルデが失われてしまったのは、現実的にも心理的にも大きなダメージだった。戻らないモルデの身を案じる暇もなく、不意打ちで攻撃をかけられた形となった。
エステルはモルデを交渉に送り出したことを心底後悔した。カナンの守りは機能せず、連鎖的に崩れ続けた。
「ユダの部隊が全滅しました!」カイの絶望的な知らせが届いたとき、砦は陥落寸前だった。
「エステル様、このままでは……」ヤイルが言った。「砦を捨てましょう。今なら間に合います」
「しかし……」
この場を去ってはモルデが……というのは私情だった。
「イズモまで引き、体勢を立て直しましょう」
「アロンがしんがりを務めます。エステル様」アロンも同様に進言した。
苦渋の決断だった。
「わ、わかった……」
そのとき幕屋のそばで騒乱が起きた。見れば、そこには十数名のカナン兵に取り囲まれた、黒頭巾の巨漢がいた。巨漢はにたにた笑いながら、手にした剣の血糊を舐めた。カガチだった。
うお――! と口々に声を上げ、兵士たちが斬りかかった。
爆発が起きたようだった。
そしてエステルは奇妙な既視感(デジャヴュ)を覚えた。それはスサの地でスサノヲが見せた圧倒的な〝力〟そのものとしか思えなかった。暴力的な嵐が渦巻き、カナン兵の肉体は寸断された。鎧の装備があろうが、まったく問題ではなかった。
あの剣は……。
「エステル様!」ヤイルが二の腕をつかみ、引っ張った。
カガチは荒々しい踊りを踊っていた。その舞踏はすべてを破壊し、踏み荒らす足が着地するたび、世界が鳴動し、命が奪われた。
破壊の神。
カガチは吠えた。それは猛々しい破壊の欲望が、殺戮を重ねることでさらに高揚したためだった。
激しい動きによって、黒頭巾がほどけ、ずれていた。
半ばあらわになったその頭部に、エステルは見た。逃げ惑いながらも、はっきりと。
その頭部には二本の角が生えていた。
化け物……。
凍りつくような恐怖がエステルの身体をこわばらせ、動きを鈍らせた。これまでどのような戦場でも、死に瀕したスサでさえ、このような恐怖を味わったことがなかった。
あまりにおぞましさにエステルは吐いた。えづきながらも逃げた。
「そこか……」
その言葉が悪霊のように背後から迫ってきて、エステルの両肩をつかんだ。脚をわしづかみにした。
それこそ悪夢の中でしか体験できなかったものだった。黒頭巾の鬼神が発する黒い霧のようなものが、エステルを囲繞(いにょう)し、身動きさえ鈍くした。それはほとんど物理的な力を持っていた。そのために思うように逃げられなかった。
非常時用の階段を辛くも登り切り、緊急用に作らせていた西側の渓谷へ抜ける吊り橋へ向かう。野獣の咆哮が下から迫ってくる。
しんがりのアロンの一つ前にいたカイは、そのとき兄の命令で作っていた仕掛けを眼にした。ほとんど考えることもなく、その仕掛けを作動させるための綱を引っ張った。
消火機能を兼ねた貯水樽がいくつも一気に裏返り、下へ向かって水を放出した。階段を上って来ていたカガチは、それで一度足を取られ、落下した。ずぶ濡れになりながら起き上り、階段を上がるというよりも、飛び上がっていく。
「エステル様! 早く!」アロンが叫び、剣を取った。
エステルとヤイルは数名の衛兵たちと共に吊り橋を半ばほど渡っていた。カイがそれに続く。
「邪魔だ!」迫るカガチ。
アロンは剣をまともに合わせることもできなかった。カナンで屈指の剣客である彼が、ただ一振りを受けただけで跳ね飛ばされた。吊り橋の蔓にしがみつき、体勢を立て直す。
カガチは無造作にさらに二度、剣を振るった。最初の一撃でアロンの剣は折れた。そして次の刃が彼の首をはねた。
「アロン! アロ――ン!!」
エステルが叫ぶのと、ヤイルが吊り橋の蔓を切り落とすのは同時だった。
橋は落ちた。
さすがのカガチも、その渓谷を飛び渡ることはできなかった。
だが、彼は笑いを浮かべ、剣をエステルに向けた。そして言った。
「カナンのお姫様。俺から逃げられると思うなよ。どこまでも追いかけて、おまえのはらわたを食らい尽くしてやる! 覚悟しておれ!」
その夜、ヨサミはカガチに連れられ、砦に戻った。カナンによって再建されつつあったカヤの砦に。
そこはもはやヨサミの知る懐かしい場所でもなんでもなかった。累々たる屍が満ち、死にゆく人々の怨念や悲しみが満ちた空間だった。
エステルが臥所に使っていた寝台に放り投げられ、カガチの巨体がのしかかってくるのを、ヨサミは他人事のように感じていた。飢えた獣に四肢を食われるようだった。やがて訪れた身を二つに引き裂かれるような激痛に、ヨサミは悲鳴を上げた。泣き、喚き、そして暴れた。
脳裏を父や母、そしてアナトたちの顔がよぎって行く。裏切った。そんな想いが、抑えようもなく湧いた。すべて裏切り、すべてなくした。
巫女としての使命より、おのが激情に身を任せることを選んだ。それこそがヨサミの、自らへの裏切りだった。味わったことのないようなこの苦痛。その痛みは倒錯した喜びでさえあった。
一人、生き残ってしまった。その根深い悔悟と罪悪感を打ち消してくれるのは、この苦痛だけだった。
苦悶にのたうちながらヨサミは血を吐くように口走った。「カナンを……あの女を……八つ裂きにして! 八つ裂きに……!」
カガチはその大きな手で、ヨサミの顔をつかみ、眼を覗きこんだ。
「ならば捧げろ。すべて」
「……〝力〟をすべてあげる。わたしの全部を」
「愛いやつじゃ」
カガチは鬼神だった。それは黒頭巾に隠されていても、もはや明白な事実として知れていた。何人もの人間が彼の頭部に屹立するものを畏怖を持って目撃していたし、ヨサミにとっては彼の持つ〝力〟が鬼神のそれであることは、自明の理だった。
その〝力〟と同化する。
恐ろしさに身が震えた。その恐怖がカガチからくわえられる激痛と相まって、彼女を狂わせた。
「目障りな」カガチは鬱陶しそうに言い、ヨサミの胸に光っていた勾玉をつかみ、首飾りを引きちぎった。
放り投げられ、床に転がった勾玉は、淡い光を放ち、そしてその光を消した。
――カヤの砦の外。
落ちかかった半月が、西の空にあった。アナトたち四人の巫女が、星空の下、集まっていた。彼女らは手に首飾りの勾玉を載せていた。
「ヨサミ……」アナトの声は震えていた。
四つの勾玉は悲しげに明滅を繰り返した。
――タジマの国。
アマ族の巫女であるアカルは、同じ月を見ていた。月はなぜか赤く染まって見えた。
勾玉が細かく、怯えるように震えていた。明滅を繰り返す。
「これは……」アカルは胸元を抑えた。
鋭いもので貫かれるような痛みが襲ってきた。
「誰なの……。誰が……」
見開いたアカルの眼の中に、幻視が生じた。
「カガチが……」
――カヤを北上した山中の洞窟。
かろうじて逃げ延びたエステルたちが身をひそめていた。
洞窟の中で焚かれる火の周囲に集まるたったの七名が、カヤを生き延びた生存者だった。
信じられなかった。誰もが、たったの一日前まで、このような事態を迎えるとは想像していなかった。
傲慢な彼らの思惑は、ことごとく打ち砕かれていた。
洞窟の一番奥で、エステルは膝を抱え、ただ火を見つめていた。が、本当にその眼の中で見ているのは、昼間のカガチによる殺戮の光景の再現だった。幾度も幾度も、それは繰り返された。
恐ろしい……。
心底、思った。この東洋の島国に至るまで、辛酸を舐めつくしたはずだった。だが、ここへ来て、エステルの心の中にあった強固な芯が、ぽきりと折れてしまっていた。それほどのショックを、あの鬼神はもたらしたのだ。
――俺から逃げられると思うなよ。どこまでも追いかけて、おまえのはらわたを食らい尽くしてやる!
胸の奥から突き上げてくるものがあり、エステルは口を押えた。洞窟の奥の方へ駆け込み、背を波打たせる。もはや吐くものもなく、黄水だけが鼻の奥を痛くした。
「エステル様」ヤイルが背をさすった。
そのとき彼には、エステルの首から下がっている宝珠が、淡く光っているように見えた。
――トリカミの里。
スノサヲは夜、気配を感じて外に出た。冷え込みが厳しくなり、吐く息は白かった。
西の空に半月はあったが、澄んだ空には星々があふれ出て、零れ落ちるように広がっていた。
前の満月の夜、語り合った二つの岩のそばに、クシナーダの背中が見えた。
「どうした、こんな夜中に――クシナーダ?」
スサノヲは気づいた。彼女の丸められた背が震え、嗚咽を彼女が洩らしていることに。
「どうした、どこか痛むのか」
まさにそのように見えた。クシナーダはうなずき、そして首を振った。
「どうしたというのだ」と、肩に手をかけた。
振り返った彼女の眼から、はらはらと涙が零れ落ちていた。その表情のあまりの悲しみの深さに、スサノヲは息がつまった。彼女は自分の勾玉を両手で握りしめていた。
驚くべきことに、勾玉は光を放っていた。青く悲しい光を明滅させている。
「御霊(みたま)が……泣いております」クシナーダはそう言い、たえかねたようにスサノヲの胸に顔を押し付けてきた。
わずかな逡巡の後、スサノヲはクシナーダの身体をそっと抱いた。
――この娘(こ)を守りたい。
それはこれまで、この地上でどのような存在にも抱いたことのない、熾烈な想いだった。
そして……。
あと二人、勾玉の明滅を見守る巫女がいた。
そのうち一人は、その夜、船上にいた。
「ナオヒ様、寒くありませぬか」
声をかけられた老いた巫女は、冷たい潮風を心地よさそうに浴びていた。甲板の上に座ったまま、「案ずるな」と言った。
「いや、しかし、お風邪でも召されては」
「無粋なことを言うでない」皺を引き延ばすように顎を上向け、東の上空にあるオリオンの三ツ星を見つめた。「せっかくの美しい星を楽しんでおるのじゃ」
そういうナオヒの掌でも、勾玉は明滅していた。
もう一人は生駒から葛城へつながる峰の向こうに消えかかる月を見ていた。
「シキが泣いている……」ぽつりとその背が発したように思えた。
「シキ様が?」巫女の背後で待機している男の黒い影が答えた。
「カーラ、わたくしはキビへ行きます」
「カガチの要請をお受けになるので?」
「表向きは。明日、皆を集めておくれ」
「はい」
「よくお聞きなさい、カーラ」
「はい」
「これから起きることは、このヤマトにも、ワの国全体にも大きな意味を持つであろう」切れ長の目を持つ巫女は振り返った。「いや、きっと生きとし生けるものすべてにかかわること。この大きな玉の上で生きるすべての者の未来に。それを心しておくのだ」
「はい。イスズ様」
ヤマトの巫女はカーラの横を通り過ぎて行った。
その胸元でも、勾玉が明滅していた。
――第2章 了
ノベライゼーション・ヤオヨロズを読まれる方へ
ポチしてくださると、とても励みになります。ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
このブログの執筆者であるzephyrが、占星術鑑定の窓口を設けているのはFC2ブログにある<占星術鑑定に関して>の記事のみです。