「椰子の血」を拝読する |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

昨年の12月だったと思うのですが、作家の司凍季さんから著書をお送りいただきました。

「椰子の血」というタイトルの小説です。


じつは以前にも司さんから、この御本の前身である「地獄蛍」という本を頂戴し、このブログに書評を書かせていただいたことがあります。

今回、「地獄蛍」に加筆修正され、原書房からちゃんとした形で刊行されたとのこと。

加筆したところだけでも、というようなメッセージが添えられていましたが、私は書き手の一人として、やはりちゃんと最初から最後まで読ませていただきたかった。

作家がいかにして一本の作品を仕上げるか、その苦労や思い入れも知っていますし、こうして製本された本を刊行できる喜びも、非常によくわかります。
ましてや
この作品は司さんの家族の物語であり、今や私たちには資料や様々な物語でしか事実を伝えてくれない時代の、きわめてリアルな小説だからです。

司さんの祖父母を中心とした物語。
とても大切な、人生にかかわる物語。

それをあだやおろそかに、加筆や修正されたところだけ読んで済ませるというのは、とても失礼なこと。

しかし。
早くにUPしたかったのですが、仕事(特にミュージカルの)があまりにも山積みで、
「きっと正月には読める」
とか思っていたのですが、実際その時になると、まったく読めず。
ようやく最近になって集中的に読む時間が取れました。

この「椰子の血」
戦前から戦時中にかけ、フィリピンに移民した日本人家族の物語です。

ダバオというところが物語の中心なのですが。

当初はその移民先へ嫁ぐ日本人女性の物語として始まります。

現地の気候、風習、食べ物、そしてフィリピンの人々とそこへ植民した日本人たちとのかかわり。
これはまさにその移民当事者であったお祖母さんから、司さんが直接に話を聞き、そして当時の状況を知る多くの人から情報提供を受けて、緻密に作られた物語で、

非常にリアルです。

その土地の匂い、暑さ、食べ物の味まで、なにか伝わってくるものがあります。

中には、たぶん物語のためにまったく創作された人物もいるでしょう。

しかし、その背景にあるすべては、「生きた証言」から作られたものです。

人々は物語の中で、生きています。どうやって過酷なジャングルを開拓していったのか、日本人たちは現地でどのような選択を迫られていたのか。

それでもその地は、閉鎖的な日本と異なり、互いに助け合うことでコミュニティーが築かれ、肥沃な土地で採れる椰子を中心とした様々な自然の恵みにより、そこは本当に希望、未来の見える楽園だった……

が、ご周知のとおり、太平洋戦争がはじまり、フィリピンも戦場となっていきます。

そしてこの地を支配しようとした日本軍が何をしたのか。

どのようなことが実際に行われていたのか、この物語の中にもつづられています。



以前、もう今は他界された村のある老人の一人に、私も聞いたことがあります。
その人は従軍され、中国大陸にいたそうなのですが……

ここに詳しく記すのも躊躇われるような蛮行を、その人はほかの兵隊たちと行っていたようです。
それは娘を犯すとか、赤ん坊を銃剣で刺すとか、そのような話です。
「狂っていた」と自らを顧みておられました。
集団的な狂気。


私は思います。
よく日本の政治家たちは、うかつな発言を繰り返して、周辺国の顰蹙を買っています。

何事にも功罪はあります。戦争でさえ。
欧米が植民地化していたアジアの国々。
その国々を解放したとか、あるいは近代化を促したとか、そんなことは客観視できる研究家たちに任せておけばよい話で、政治家たちは残らず全員が、一度この「椰子の血」を読んでみるべきです。

戦争という愚かな選択が、何を破壊し、現地の人々はもちろん、植民していた同胞たちの幸せも、粉々に打ち砕いた事実を、はっきり知るべきです。
少なくとも政治家であれば。


この小説を持ち歩いて読んでいる時、私はある二十代の女性に、「その本は」と問われ、内容を説明しました。
彼女は「わたし、そういうの苦手なんです。戦時中の話とか」と答えました。

戦争の話を嫌がったというより、おそらく辛いもの(話)を見たくない、といったニュアンスでした。


たしかに、「椰子の血」を読めば、現代人なら誰でも感じることがあるでしょう。

私も戦争など知らない世代です。

読後、そんな自分に負い目を感じるのです。この負い目は、つまり「平和な時代に安穏と生きている自分」が、とてつもない凄惨な体験をされた先人の世代に対して抱く気持ちという意味です。

こんな安穏とした時代に生まれ、いろいろと個人で体験する苦難や、それこそ死にたくなるような出来事はあったけれど。
でも。

この人たちが味わった地獄に比べれば、はるかにましだと。

日本軍に見捨てられ、誰も入ったことのないようなジャングルを踏破しようとするくだり(軍の命令で、それが絶対でしたから)など、私がここにどのように表現しても、上っ面のことでしかありません。

作品の中身にしか存在しないものです。

生き残った登場人物たち(それは司さんの祖父母たち家族ですが)は、「生き残ったこと」に負い目をもって、生きていきます。

しかし、これほど「生きる」ということが描かれた作品もありません。


「永遠の0」などもそうですが、私たち戦争を知らない世代が、これを語ること。
その語り継ぐ行為そのものは否定されるべきではないと思います。

「知りもしないのに」というのは、確かにそうです。
それを言ったら、何かを体験しない物語は書くことが一切できなくなります。

この世には体験した小説しか存在しなくなります。

どうか、これを受け継ぎ、語り継ぐことは、やはり否定しないでほしい。

そして、多くの人に知ってほしいと思います。

戦争がいかに愚かな行為で、いかに無残なものを生み出すのか。


これほどのリアリティを、作品に注ぎ込むことができた司凍季さんの才能に脱帽すると共に、やはりこれは「血」なのかとも思います。

祖父母から受け継いできた血。



現地の伝説では、椰子は

小鳥



この三つの動物の血によって育ったのだという説話が紹介されています。

物語もまた、やはり血がつなぐこともある。
育て、世に芽吹かせることもある。


時代の中で生まれるべくして生まれるもの(小説)がある。

たとえば松本清張先生の作品群もそうでした。

今だからこそ、この「椰子の血」も必要とされて、こうした形で世に出たのではないか。

戦争をニュースでしか知らないからこそ、私たちはこうした本当の証言に基づいた物語を通じて、知っておくべきではないのか。
いや、、私は知っておきたい。

そう思います。