一人だとすべてを背負い、世界と関れば分かち合う |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

多くの人のホロスコープを拝見していると、はっきり実感されることがあります。

たとえば。

個人のホロスコープの中でも、火星なら火星という星が、非常に際立った特徴を持っているとします。

この火星を、暴力として使う人もいれば、スポーツとして使う人もいます。
また非常に積極果敢、だけどせっかちな性格として持つ人もいます。

また自衛隊とか警察に入っているとか。
あるいは自動車の会社に勤めているとか、バイク屋で働いているとか。

使い方は人によって様々です。

占星術の天体というのは、かならずしも性格で表現されるわけでもなく、かといって出来事だけに限定されるわけでもない。

それは対人関係の中に出現したり、職場となって出現したりもする。

ホロスコープはその人個人のものとして、出生時に表示されるものとなります。

しかし、それには確かに意味があるのですが、その星々の表現方法を選択するのは、かなり個人の選択にゆだねられています。

火星のハードアスペクトが非常に強いとしても、それをあえて使ってスポーツ選手として活躍する人もいれば、荒々しい火星のような人間関係を周囲に引き寄せ、ヤクザの世界に身を投じる人もいる。

こうした運勢を、人はみな、それぞれ固有の特徴として持っています。

火星だけではない。
すべての星について、それぞれの意味や価値がある。

もし、ですが。

こういった星々すべてを、自分一人でしか使わないとしたらどうなるでしょうか?

例えば無人島へ行き、自給自足をしたとしたら。

そうすると、この人の運勢は、すべてこの人個人のものとなります。

きわめて極論ですが、そうならざるを得ない。


良いことも悪いことも、すべて自分で背負うのです。


火星が強い時には、煮炊きをしていて火傷するかもしれないし、うっかり島で火事を起こすかもしれない。

土星が猛烈に強い時、漁がうまく行かず魚も取れず、作っていた作物もないかの理由で全滅してしまうかもしれない。


しかし、この人がもし社会の中で暮らしていたら?

火星が強い時に危うく事故を起こしそうになるかもしれないし、あるいはプロのスポーツマンと知り合いになれるかもしれない。

土星が強い時は、職場で責任のある仕事を任され、プレッシャーを感じるかもしれないし、非常に権威ある人物と遭遇するかもしれない。



社会の中で生きていくということは、すなわち、自分のホロスコープの星々も、自分だけではなくその社会の中で反映させ、生かしていくということでもあるのです。

もし自分一人だけの世界にこもっていたら、ハードアスペクトの強い人はそれを自分だけでしか消化できないので、ときには自壊的な働きをすることもありますし、家庭内暴力とか、あるいは家庭内での不和とか、きわめて限定されたエリアで出生図の星やその後の後天的な星を消化していくしかなくなります。

人は人と交わってこそ、多様な星を体験できる。
もちろんその中には好ましいこともあれば、課題となることもある。

嫌な人間とも遭遇するけれど、それをとことん拒否したら、今度は嫌な自分としか遭遇できなくなる。
頑張って人と交われば、嫌な人と遭遇した分だけ、星は消化され、どこかで好ましい人とも遭遇できる可能性が広がる。

みんな、それぞれの課題をもって生まれてきている。

その中でもやはりすごくつらいのは、孤独な状態になってしまうこと。
人の受け入れられないこと。
認めてもらえないこと。

そんなことがあったとしても、一人になってしまっては、やはりいけない。
それはきっと、特殊な精神修養をする人だけで十分(山奥の修道院とか修験者になるとか)。

勇気を出して、人と関ったほうが、たとえ傷つくことがあったとしても、少なくとも自分一人で星々を背負うことはない。
自分の星を分かち合うことができる。

いや、そもそも星の力は、すべて一人で背負えるほど小さなものではない。

私たちは、人と交わり、世界と交感してこそ、ホロスコープを輝かし、回していくことができる。

ぐるぐる回る星々。

ぐるぐる回る命。

それと出会い、自分のものにし、あるいは手放し。

人と出来事と、

そして自分自身と。




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