多忙な年の瀬、そして正月が過ぎた。
父は一命を取り留めた。奇跡的にというべきか、右半身に軽い麻痺が残る程度の後遺症で済み、年明けには退院することができた。
日常生活に大きな支障はなさそうだった。
なけなしのボーナスは、父の入院費ですべて消え、なお不足するほどだった。
広子は史也と共に実家に戻ったまま、帰ってこなかった。
電話やメールでは対話は続いていたが、どちらかと言えば日常的な必要事項のやりとりに終始していた。
「結婚させるんじゃなかったよ、あんたのところがこんな家だったら」
広子が実家に戻った翌日、実家の両親から電話がかかってきた。
「もう、広子と史也はうちで預かりますから。絶対に返しませんから」
義父と義母の厳しい言葉。
それが毎日、幾度も幾度も脳裏に蘇って、消せなかった。
「もう死にたいわ」
その後、毎日のように母、奈津子はこぼした。
死にたいのはこっちだ、と孝司は思った。
死にたいという母、そして父が今の状況のすべての原因を作ったのではないか。
孝司はそんな自分の苦境を、周囲にはまったく見せなかった。
仕事場でも普段通り、いや、普段以上に客にも同僚にも愛想良く振る舞った。
気にくわなかったアルバイトの高橋にも、自分の持っている知識や技術を、惜しみなく、事あるごとに教えた。
「すげえ」という賛美の言葉を、高橋はよく孝司に投げるようになった。
同時に整備士として高い技術を持ち、また自分の客を多く持つ孝司に、しだいに気持ちを開くようになっていた。
今まわりにいる人に、自分のできることを最大してやろう。
孝司はそう思うようになっていた。
心は決まっていたからだ。
自分の持っているささやかなもの。
それをまわりの人に少しでも残しておこう。
後はいつ実行するかだけ。
ある日、帰宅すると自宅の電話が鳴っていた。
正男叔父だからだった。
孝司が出た。
「ああ、孝司か……こないだの話だけどな……」
すぐに叔父は切り出してきた。
父が退院して、生活が落ち着くまでは話は待ってくれと頼んでいた。
「もう少し待ってくれませんか。父の入院費なんかの支払いで、今手元にまったくお金がないんです」
叔父は不満そうだったが、孝司は今はどうにもならないということを繰り返した。
仕方なく叔父は折れた。
電話を切ると、孝司は二階に上がり、広子が普段、書類入れなどに使っている引き出しを空けた。
一番上に広子がやっている生命保険の証書の封書がある。
孝司はその中身を引っ張り出した。
「死亡」の欄に、5000万円という金額がある。
死亡原因は、どのような事由であろうと問わないものだ。
証書を元に戻すと、孝司はあれこれ思案し始めた。
絶対に、確実に死ねる方法を。
広子と史也が出て行った夜、はじめてに母がその言葉を漏らした。
「死にたい」と。
それを聞いた瞬間から、孝司に湧いた考えだった。
広子と史也のいない家に帰るたび、その考えは色濃くなっていった。
二人の存在しない人生など、自分にはあり得ないのだと思った。これまで日常の中で、当たり前に思っていた。
妻と子がどれほど大切か。
今、広子は自分名義で借りたローンの一部を、いまだに払い続けてくれている。
それをやめたら、この家が破綻することが分かっているからだ。
広子の名前で借金させてしまったこと、それが最大の後悔だった。
彼女にも、それに子供の未来にも、これ以上の迷惑はかけられない。
とすればもう、今の自分には手段は一つしかなかった。
保険金の受取人は広子だが、遺言を残しておけば、今の家にある借金はきっと整理してくれるだろうと思っていた。
「母さん、ちょっと人と会う約束があるから、出てくるから」
孝司は言い残して、家を出た。
さしたる考えはなかった。
ただ、ささやかだが、最期に好きだったラーメンを食べたかった。
広子や史也と、よく一緒に行ったラーメン。
電車でひと駅。
町の飲屋街のはずれにあるラーメン屋である。
「久しぶりだね」
店主が笑顔で言った。
「おじさん、いつもの中華そば」
「はいはい。奥さんや子供は元気かね」
「ええ、元気ですよ」
涙が出るほど、うまかった。
汁の一滴まで、孝司は飲み干し、店を出た。
ポケットの中には、わずかな千円札と小銭だけ。
さて、どうしよう。
人に迷惑のかかるやり方は避けたかった。踏切への投身自殺とか。
車の排気ガスや練炭のようなものから出る二酸化炭素を車内に充満させる方法は、睡眠薬でも飲んでおけば楽に死ねそうに思えたが、場所を選ばなければ途中で発見される恐れもあった。
死に損なうのは、あってはならなかった。
海に入るとか、水死は自信がなかった。孝司はなまじ泳げるので、土壇場で心が折れて、助かりたがる可能性もある。
高いビルから飛び降りるか。
簡単で、一瞬で終わりそうに思えた。
周囲にはそんなビルは、いくらもある。
「ありがとうございました。ホントに、ホントにありがとうございました」
女性の涙声。
振り返ると、小さなユニットハウスみたいな小屋から、ロングヘアの女性が出てくるところだった。
幾度も小屋の中の老人に、頭を上げ、そして涙をぬぐいながら去っていった。
涙で顔は濡れていたが、不思議にその表情には満ち足りたもの、安らぎのような笑みがあった。
孝司は老人を見た。
白髪、白髪の老人だった。
小屋には看板が出ていた。「占い」とシンプルに。
「あの……」衝動的に孝司は、老人に声をかけた。
小屋に戻りかけた老人が、足を止めた。
「占いで見てもらえるんですか」
「もちろん」
「いくらで見てもらえるんですか」
老人は金額をいった。
安いのかどうか、孝司には判断できなかったが、ポケットの残金で払える金額だった。
この後の自分が所持していても、使い道はないお金だった。
「あの、見てもらえませんか」
老人は孝司を見つめ、「入りなさい」と言った。
この物語はフィクションです。