海王星で無になれば part.1 |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

電話が鳴っていた。

今朝、何度目の電話だろうか。執拗に、出るまで鳴り続ける。

「はい。山之上でございます……はい、はい。わかっております」

 階下で母が応対している声がする。孝司はベッドを抜け出して、部屋を出た。あくびをしながら階段を下りて行く。

 ちょうど一階では、母の奈津子が受話器を置いたところだった。

「なに?」

「あ、ああ、おはよう」

 顔をそむけて朝の挨拶をする母。

「朝っぱらから何度も電話が鳴ってたけど」

「べつに何でもないよ。うるさいセールスとか投資の勧誘」

「ふうん」

 奈津子は66才。小柄で肥満しており、かなりの高血圧だ。
 性格的にも非常にきついところがあるので、孝司は普段、好んで話もしない。

 ダイニング・テーブルには孝司の朝食の用意がしてあった。
 妻の広子が出かける前に用意していってくれたものだ。

 テーブルではしかめっ面の父、清司が、老眼鏡をかけて新聞を読んでいる。
 母と同い年。とうに定年を迎えての年金生活で、最近では自宅の庭で小さな菜園を作るくらいのことしかしていないが、それも最近は悪化してきた糖尿病のせいでさぼりがちである。

 孝司は無言で、みそ汁とご飯を自分で用意して、妻のつくっておいてくれたハムエッグで朝食を取った。

「今日は休みかい」と、奈津子。

「いや、C勤だから5時出」

 孝司は地元のガソリンスタンドで働いている。24時間営業のスタンドで、勤務は交代制で夜勤もある。
 が、その割には給料は安い。

 今日も出勤か、と思うと、ちょっと憂鬱になる。
 最近、職場での人間関係が良くない。新しく店長になった人物は、自分と同期入社の人間で、おまけに最近入ってきたアルバイトの若者と、孝司は馬が合わなかった。
 一方で、店長とその若者は意気投合している。

 仕事、変えようかな、とも思う。
 もともと車が好きで、整備士として大手の企業で働きたかった。
 資格も持っている。
 しかし、なぜか就職時にことごとく失敗し、人の紹介でガソリンスタンドで働くようになった。

 もう十数年、同じ仕事をしている。
 そして今年、34才。

 もし転職するなら、年齢的にも今しかないように思えた。

 せめて今回の人事で、店長に抜擢されていたら……。

 孝司は当然、そうなるだろうと思っていた。能力的にも実績でも。

 が、そうはならず、同期の浜田に出し抜かれてしまった。

 この人事は、孝司にとっては自分の足下が崩れ落ちるようなショックだった。

 浜田は愛想こそいいが、仕事でもミスは多いし、作業の早さや正確さなど、自分とは比べものにならないと思いこんでいたからだ。

 テーブルの上にある新聞チラシに、求人広告があった。

 手に取らず、目でその文字を追った。

「おはよう」

 いつの間にか、パジャマ姿の息子、史也が起きてきていた。

「ああ、おはよう」

 史也は5才。幼稚園の年少。
 今日は祭日だから、幼稚園は休みだ。

 孝司と妻の広子、そして史也がこの家で両親と同居するようになったのは、四年前である。
 子供が生まれたら、実家を改築して、同居しようという話には、昔からなっていた。
 共働きでもあるし、子供の面倒を見てもらえる、ということで。

 二人目の子供を作るという考えはなくはなかったが、今の孝司にはそんな心理的な余裕がなかった。
 いや、現実的な余裕というべきかもしれない。

 改築費用はすべて孝司のローンだったし、その一方でGS業界も締め付けが厳しくなってきて、サラリーはUPするどころか、むしろここへ来て人員削減や給与カットの話まで出てきている。

 こんな状態で二人目の子供など、考えられなかった。
 この日常を維持していくだけでやっとだ。


 また電話が鳴り始めた。
 
 癇に障る響きで、孝司は舌打ちしながら席を立ち、電話に出た。

「もしもし」

「山之上さんですか」

 ハッとなるほど不愉快で高圧的な男の声だった。

「そうですが」

「奈津子さん、いますかね」

「失礼ですが、どちら様でしょう」

「○×ローンの加藤といいます。奈津子さんを出してください」

 ばたばたと母親が階段を下りてきた。洗濯物を干していたらしい。

「あたしだろ。変わるから」

 奪い取るように孝司の手から受話器を取った。
 応対する態度。
 異常なほど低姿勢で、見えない相手に何度も頭を下げている。

 それを見て、孝司は冷たいものを背筋に感じた。

 彼にとって、本当の意味で足下が崩れ始めた、その始まりの日だった。


 この物語はフィクションです。