最後の五匹・回想録2 |  ZEPHYR

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 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

時間が経過すると、ある程度はっきり見えてくるものというのがあります。

一つでもパーツがかけていたら、こうはなからなかった。
あれもこれも、それも、なにもかもちゃんとそろっていたからこそ出来上がっていった。
それがすべて、なぜかうまくそろってしまう。

そういう奇跡的な展開というのが、この世にはあります。

「最後の五匹」はそんな流れを、最初から持っていました。

結果的には大成功を収めることができたのですが、そのストーリーはいかにして作られたのか。


じつは今にしてはっきり分かるのですが、演出をしてくださるのがM先生だった。
これが最初から分かっていたからこそ、私は何の遠慮もなくあの物語を書くことができた。

構想も壮大なものをぶちあげることができた。

これがもし、何の面識もなく、本当に素人に近いような市民が演出するのなら、私はとてもではないけれど、あの物語は書けなかっただろう、と思うのです。

要するにM先生を信頼していたのです。

参加した役者の中には、「このままじゃ、素人芝居程度になってしまって、お金を取れるものにはならないのでは」と危ぶむ声もありましたが、私は「M先生がやるからには、そんなものには決してならない」と断言、確信もしていました。

私はかつて、M先生が脚本演出をなさった「モンスーンによろしく」という、これもミュージカル的な要素の強い舞台を観たことがありました。
これには私の娘の出演していました。

その舞台もやはりスケールの大きなお芝居で、素人の域など完全に超えていました。
というより、そのような比較表現自体が失礼に当たる。

いえば、過去に何度か大阪や岡山で、観劇をしたことがあるのですが、その数多くはない経験の中では、ダントツにおもしろかったし、迫力があった。

「あれだけのものが作れる人なのだから、私が少々、大げさなストーリーを書いても、大丈夫。かならずちゃんとした舞台にしてくれる」

そういう確信的な安心感があったからこそ、私はかなり大胆な構想に入ることができたのです。

つまり、「最後の五匹」に関して絶対に欠けてはならない重要なパーツがあったとすれば、それは私ではなくM先生なのです。
私でなくとも、時間さえあればM先生は、違ったものにはなったかもしれませんが、立派な脚本も書かれたでしょうし、立派な舞台を作り上げたに違いない。

役者もM先生の教え子たち、あるいはすでに社会に出ている教え子たち、またさらに上の世代で、教え子たちが自分の子供まで連れて参加してくれた。

M先生が積み重ねてきた歴史、数多くの舞台関係のつながり、人のつながりが今回のミュージカル成功の、もっとも大きな要因だった。

こういったものが背景にあることを感じていたからこそ、私は安心して構想を練ることができたのです。

M先生がいなければ、「最後の五匹」はあのようなストーリーにはならなかった。


とはいえ。

私は私になりの、この「市民創作」のミュージカルに、やや危機感は持っていました。
なにせ、大半は素人です。

まあ、舞台関係者、役者はいる。
探せばいるし、M先生の関係でも引っ張り込める。
が、ミュージカルまで対応できる役者がどれほどいるか。

踊りは練習できても、歌も重要。
歌はこれも練習で何とかなるとはいえ、天賦のものも大きい。

どこかに安心できる駒を揃えておきたかった。

それで仕事上の仲間であり、バンド活動も役者活動も、そしてミュージカルに出た経験もあるHさんに声をかけ、引っ張り込むことにしました。

彼女は役者としてだけではなく、別な重要な働きもしてくれるのですが、それは後述します。


昨年の1月。
ミュージカルの実行委員会に出席した私の元には、地元の児島を題材にした伝承の数々や名産品とかいった情報が集められていました。

倉敷市の児島は、「日本のジーンズ発祥の地」として知られています。
近年になって、よく知られるようになってきたようです。

ジーンズや学生服。
被服関係。
この生産で産業の、かなりの部分が成り立っているような町です。

この地のオリジナルのミュージカル。

このミュージカル制作は、市の事業の一環として行われ、過去にも同じ倉敷市エリアの数カ所で、持ち回りで行われてきたということ。
そして今回が児島。

どんな物語を作ったらいいのか。

ただおもしろおかしく、地元の何かを取り上げたミュージカルに……?

そんなものは、私は最初から書く気はさらさらなく、実行委員会で

「児島の土地柄や伝説を取り上げたものにするのは当然なのですが、ただそれにとどまらず、これからの未来に向かって、この児島から発信できるメッセージ性のあるものにしなければ意味がない」

というような、えらっそうなことを申し上げましたあせる

そして、中心に据える題材としては、児島の由加山に伝えられる「鬼退治伝説」を取り扱いたいということを提案しました。

細かいことまでまではこの段階では構想できていなかったのですが、児島に存在している素材の中でも、この伝承がもっとも物語性があり、発展させやすいということはあきらかでした。

この鬼伝説は、以下のようなものです。

「昔、児島の由加山に阿久良王という鬼がいて、人々を苦しめていた。征夷大将軍、坂上田村麻呂が軍勢を率い、由加大権現の加護も得ながら、これを退治する。鬼は悪行を悔い、これまでの罪滅ぼしに、自分の魂を七十五匹の狐に分け、その後狐は世の中のために働いた」

実際には討伐の課程で、いろんな伝承があるのですが、ざっくりとした流れはこのようなものです。

私はそもそもその由加山に住んでいて、この伝承は既知のものでした。

最初からこれになるのではないかと思っていましたし、集められた児島の素材の中でも、やはり飛び抜けていました。
こういうことを考えるときに、私が普段やっているミステリー・イベントの原作小説を書く、という作業は非常に役立ちしました。

要するに慣れていたのです。
どこに目をつけ、物語として発展させるか。
こういう作業のプロでもあったのです。

そうして私は、さらに構想に入っていきました。
1月中は大学の採点作業などがあるので、大学が休みに入ってから、2月にはプロットを発表すると実行委員会の方々に約して。

そうして、不思議なことの第2弾が起きたのです。

続く。