「しかし、あなたが自分を許すためには、対価を払う必要があります」
しばらくたってから老人は言った。
「なにもせず、ただ忘れるというのは、人間には難しいことなのです。
忘れたつもりでも、心のどこかに残っていることもしばしば。
だからこそ、あなたは今野さんに対して今、自分ができることをしなければなりません」
麻衣はようやく泣きやんでいた。
真っ赤にした目で、老人を見つめた。
「そうですね……。
あの、今、ちょっと考えたんですけど、今野さんはきっと周りに敵ばかりいるような気がして、教師を続けられなくなったんだと思うんです」
「おそらくそうでしょう」
「だったら、逆のことをしてみたらどうでしょうか」
「ほう。というと?」
「たとえば、今野さんの以前の教え子たちから励ましの寄せ書きをしてもらうとか」
「いいアイディアです!」
老占星術師は感心したように声を上げた。
「すばらしい。それ、是非やってみてください。
きっと、今野さんが立ち直るいいきっかけになるでしょう」
「今野さんは大丈夫でしょうか?
立ち直れるでしょうか」
「大丈夫です」
あっさりと言う老人は、パソコンのホロスコープを見ていた。
「彼はここ数年、非常に強いハードアスペクトを受けていて、まさに試練の時でした。
しかし、ちょうど今年の春頃からそれがゆるんできているのです。
今は冥王星のソフトアスペクトが発生しつつあります」
「冥王星ですか。
それって、復讐の神なんですよね。また……」
「いやいや」と、笑う。
「冥王星はなにも悪さばかりはしませんよ。
破壊と創造、死と再生の星ですから、確かに出方は強烈なことが多い。
しかし、この場合はソフトアスペクト、調和の座相ですし、おそらく『再生』『復活』のために使用できます。
この後、さらに状況が悪くなるなんてことは、私はないと思っています」
「よかった」
心底、安堵した。
あれほど憎んでいた相手なのに、不思議なことだが、今はすっかりそんな気分はなくなっていた。
「彼自身にとっても、それだけの時間が必要だったのかもしれません。
彼の方から見たら、これは彼自身の人間関係の波及法則ですからね」
こんな人間が学校の先生などやっていていいのだろうか。
ふと麻衣は、いきなり自分のことも含め、客観視できるようになっていた。
今野もお世辞にも、人間として、男として立派なことはしていない。
自分もそうだ。
こんな人間たちが教師など。
「最後にもう一つ、あなたにお教えしておかねばならないことがあります」
老人の言葉に我に返った。
「は、はい。なんでしょうか」
「冥王星の使い方です。
冥王星は人間関係の波及法則を体現するような、非常に因縁めいた星です。
この世の中では核やプルトニウム、地震といった根源的なエネルギーとも関わっています。
劇薬と同じだと思ってください。使い方を誤れば、とんでもないことになってしまう。
破滅、絶滅といった言葉も、冥王星の中には意味としてあります」
「恐ろしい星ですね。
あたしはそれの影響が強いんですね」
「そう。だからこそ、これを復讐の力として使うと、あなた自身は因果応報を受けて破滅してしまいかねない。
しかし、この復讐の神をなだめる方法はあるのです」
「どうすればいいんですか」
老人は笑い、うなずきながら言った。
「惜しみなく人を愛しなさい」
「!」
「人を裁くのではなく、受け入れ、惜しみなく愛や親切を注ぐのです。
見返りを求めず、ただその人のためになることを考え、してあげること。
それだけが冥王星の脅威を和らげる。
それどころか冥王星の創造的な力を、自分のものにできる方法なのです。
あなたはそのために最適な職場にいるじゃなりませんか」
はっとした。
「子供たちに惜しみなく愛情を注ぐことです。
そうすることで、あなたは今後の良き種を自分の中で育てることができる」
はあっ、と肩が落ちた。
すとんと、何もかもが収まるべきところへ収まっているのだと感じた。
「もちろん子供たちだけがその対象ではない。
隣り合ったご老人でも、町で見かけた困った人でも」
「あたしも幸せになれるでしょうか」
「もちろん、なれます。
どんなハードアスペクトの強い人でも、幸せになれます。
ましてあなたは因果応報を受けていたに過ぎません。
その負債を払ってしまって、これから貯金することですね」
老人の穏やかな笑顔の中に、麻衣は自分の未来を見つけることができた。
希望の光を。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
今野の職場復帰には、それから半年がかかった。
老占星術師の力添えで、麻衣は自分の過去を告白し、詫びる機会を得ることができた。
それはとてつもない勇気がいる行動だったが、麻衣はそれをやり遂げた。
今野はただ黙って聞いていたが、一緒に麻衣が持ってきた生徒の寄せ書きを見るや、泣き出した。
そして「自分の方こそすまなかった」と言った。
モンスターペアレントの麻衣への攻撃は、それからもまだ続いていた。
すぐに魔法のように消えてなくなるということはなかったが、以前に比べるとかなりトーンダウンしていた。
冬休みに入る頃には、攻撃すること自体に疲れてしまったのか、あきらめたのか、ほとんどなくなった。
そして新しい年度に入ると、受け持ちのクラス自体が変わってしまった。
「先生ー!」
伊藤実奈の声。
振り返ると、実奈がほかに女の子二人と一緒に駆け寄ってきた。
今年は実奈は四年生で、やはり麻衣の担当クラスだった。
そして麻衣の担当するクラスには今年、転校してきた女の子がいた。
実奈と一緒にやってきたのは、その転校生の女の子と、もう一人、若干年下の女の子だった。
「先生、早紀ちゃんとお友達になったの。
妹の有紀ちゃんも一緒に帰ることにしたの」
そういえば、転校生は姉妹だという話だった。
なんでも離婚した母親が子供を引き取ったため、学区が変わっての転校という話だった。
早紀はぺこっと、礼儀正しく挨拶した。
「先生、さようなら」
その後ろで、ちょっと背の低い女の子も頭を下げた。
「はい。気をつけてね。
実奈ちゃん、仲良くしてあげてね」
「はい」
実奈も転校生だった。
だから、同じ境遇の子供同士で、なにか分かり合えるのかもしれない。
三人の子供たちはそれぞれのランドセルを背に、校庭横の道を歩いていった。
転校生のことは気にかかっていたが、この分ならあまり心配しなくてもいいかもしれない。
麻衣は子供たちの後ろ姿を見つめながら、ふと自分の胸にふわっと広がるものを感じた。
自分勝手で、自分の心の傷ばかり見つめていたときにはなかったもの。
それはあの子らへの愛情だった。
空を仰ぐ。
その青々とした空間には、覆うようにピンクの桜の花が満ちていた。
<The end>
<この物語はフィクションです>