あまりにもあっさり、あっけらかんとした老人の言葉に、麻衣は拍子抜けした。
「やり直しがきく?
本当ですか……それ」
「ええ、もちろんですとも」
麻衣は自分の人生にもう良いことなどなくなってしまったに違いないと思っていた。
それほど自分のしでかしたことは罪深いことだ。
そんなふうに思えていたからだ。
このまま人間関係の波及法則を受けて、報いを受け続けないといけないと。
「ど、どうすればよいのですか。
どうしたら、やり直しができますか」
かつてないほど真剣に麻衣は尋ねた。
「要するにあなたもごく普通の暮らしや幸せを得たいということですよね」
「も、もちろんです。
こんなふうになってしまって、人は健康で、何かに脅かされることなく、ただ普通に暮らせるだけで幸せなんだと痛感しました」
今では麻衣は、病院で処方してもらった薬の世話になっている。
それなしでは夜、眠ることもできないのだ。
「それだったらまずしてもらわないといけないことが、いくつかあります」
「はい。なにをしたら」
居住まいを正した。
「まず第一に、今野さんのことです。
彼は心を病むに至りました。
私はその後、人づてに彼のことは聞いているのですが、このごろでは実家に戻り、少しずつですが日常生活も送れるようになってきたそうです。
以前は、一人で外出することさえできなくなっていたそうです」
麻衣は自転車でコンビニに来ていた今野の姿を思い出した。
目に力がまったくなかったが、それでもまだ良くなっていた方だったのだ。
「今野さんに対して、自分がなにかできることがないか考えてみてください」
「なにか……」
「彼が立ち直るためにできるなにかです」
しばらく考えたが、麻衣はなかなか良い考えは思いつけなかった。
ただ――
「あたしが会って、謝ったら……」
「勇気ある考えですね。
確かにそれもまた有効です。
察するに、あなたはインターネットなどの間接的な手段を使って、彼を追いつめましたね?」
「はい」
「具体的にどういうことだったのか、お話願えますか」
かなり抵抗があったが、麻衣は正直に話した。
その「話す」という課程で、いかに自分が非人間的で、ひどいことを相手に行ってきたか、改めて認識した。
「なるほど。それならば、あなたが彼の前に現れて、事実関係を正直に述べて、謝るということも役立つかもしれません。
なぜなら、彼は誰ともわからぬ存在から攻撃されることを恐れて、このような精神状態に至ってしまったと考えられるからです。
いつ、どこから来るか、どういうやり方で来るかもわからない脅威が、人間の心をもっとも脅かすのです」
ふっと麻衣の心に、伊藤実奈のことが思い出された。
地震はいつ起きるかわからない。
どこから来るのかわからない。
それが怖い。
怯える少女。
彼女を脅かしていたもの。
あたしのしていたことは、あの子をあんなふうに怖がらせていた地震と、同じなんだ。
閃光のようにその考えは、麻衣の脳裏を貫いた。
「だからこそ、その正体がわからなかったものが、あなたなんだと知らせることで、少なくとも彼を理性的にさせることができるかもしれません。
ゆえなく自分が攻撃されていたわけではないと、理解できるわけですからね」
「そうですね」
「しかし、このやり方は多少危険が伴います。
というのは、彼が病んでいるのは心だからです。
彼のコンディションいかんでは、あなたが彼を刺激することで、より精神状態が悪化する可能性もあります。
うかつにはできないでしょう」
「はい。あたしもそれが心配です。
もし、もっと悪くなったらと思うと、怖くて……」
「この件は実行できるかどうか、医者に判断してもらう必要があるでしょう。
さいわい、彼が通院している病院の院長が、私の知り合いなので相談してみます」
「本当ですか」
「この商売をしていると、顔だけは広くなりましてね」
老人はにっこり笑った。
「もしそれをやるとしても、お医者さんに立ち会ってもらってしてもらうか、あるい間接的なメッセージを渡すようにするか、まあ、そのようないくつかの方法が考えられます。
しかし、一番理想なのは、あなたも彼に会って、謝ることです。
そうしないと、なかなかあなた自身の幸せを得にくくなってしまう」
「あたし自身の……?」
「あなたにしてもらうことはいくつかあると申しましたが、その二つめが『自分自身を許す』ということです。
人間感情の中で自分を責めることこそ、一番たちが悪い、自分自身の人生を破壊的にしてしまう要因なのです。
この感情を強く持っていると、どんなに良い運気が巡ってきても、元々良い運勢を持っている人間でも、不幸になります」
「そんなに影響が大きいものなんですか!?」
驚いた。
「世の中には、このホロスコープならもっと幸せになっていてもいいのに、と思えるような運勢なのに、ひどい状況にある人がいます。
こういう方の何割かは、今言ったような原因を持っていることがあります。
だから、勇気を持って自分を許してしまいなさい」
強い言葉で断言した。
麻衣はその言葉の力に打たれたようになり、心が震えた。
「勇気を持って……」
そんなことしていいんだろうか。
あたしはもっと罰せられるべきなのではないか。
「誰でも生きているうちに、多かれ少なかれ罪を犯します。
真っ白な人間はこの世にいない。
小さな嘘をつくこともあるでしょうし、人を陥れることもあるかもしれない。
しかし、一度そのようなことをしでかしたら、もう幸せになることはできないのか?
いやいや、そんなことはない。そんな権利は誰にも奪えない。
それは、周囲にはいろいろ言う人間もいるかもしれない。
けれど、間違いを犯したらいつまでも不幸の中でのたうち回れ、という言うのは、別な形での復讐、冥王星のダークサイドです。
そのようなことを他人に強要できるのなら、その人自身がまた冥王星に復讐されるでしょう。
どこかでその連鎖は断ち切らないといけない。
勇気を持って、その連鎖を断ち切りなさい」
涙が。
あふれ出た。
「先生……」
麻衣は自然に言っていた。
「涙が止まらない……止まらないよぅ」
この物語はフィクションです。