それ以上語ることはできなかった。
バッグから出したハンカチで、涙と鼻水を拭き取るのだが、後から後から絶えることがない。
「育美さん」
「あぅ……は、はい……」
「もう十分ですよ」
「なにがですか……」
「あなたは十分に苦しんでこられた。
これ以上の不幸な土星とのお付き合いは、必要ありません」
老占星術師は立ち上がり、そして背の低い棚にあったカップを取り出し、なにかを用意し始めた。
小屋の中に、すっとした香りが立ちこめ始めた。
ミント・ティーだった。
ガラスのポットからそれを、二つのカップに注いだ。
「さあ、どうぞ」
育美は差し出されたカップを、震えの残る手で取り、口に運んだ。
まだ子供みたいに嗚咽がついている。
陶器のカップの縁に歯が当たった。
「おいしい……」
本当に美味しかった。
それに飲み下すと、胸の中がミントの風味ですっとした。
「ホロスコープ・チャートというのは、あなたの人生の設計図のようなものです。
そこに示されていることが、しかるべき時を得て、しかるべき形で起こってくる。
あなたはもうここまでの人生で、土星を中心としたいくつものプランニングされたものを体験してこられています。
だから、もう十分です」
「土星とは……もう付き合わなくていいというのは……?」
「いえ、土星とは生涯縁は切れません。
あなただけではなくてね。
私が申し上げたいのは、不幸な土星とのお付き合いは、もういいということです。
逆に言うと、幸せな土星とのお付き合いというのもあるわけで」
「あたしにそれができるんでしょうか。
あたしは、土星の良くない部分をいっぱい持っていると思うんですけど」
「できますとも」
にっこりと、老占星術師は笑った。
「私はあなたよりもずっと土星とのハードアスペクトが強いのに、けろっとして幸せな人生を歩んでいる人をいっぱい知っています」
「あたしには自信がありません」
本音だった。
「正直、ここふた月ほど、自分というものがどれだけダメな女か、ダメな母親か、思い知ってきました。
だけど、それを思い知っても、あたしは自分が変われるとは思えないんです」
「いいですよ、無理に変わらなくても」
え?
完全に意表を突かれた答えだった。
老人はミントティーを口に運びながら言った。
「今は別に変わらなくても結構です。
というか、あなたが変わるには長い時間が必要なんです。
インスタントラーメンみたいな即席の悟りと変化は、あなたには難しい。
そんなお手軽な変化や成長は、あなたには不向きですから、今すぐ悟ってくださいなどとは申しません」
「では、どうしたらいいんでしょうか」
老人はカップをソーサーに置くと、穏やかに言った。
「自分を許し、好きになってください」
「自分を好きに……」
「あなたはあなたのままでいいっていうことですよ」
育美はその言葉に救われた心地がした。
少なくともこの老占星術師は、育美のダメな部分も全部分かった上で、「それでいい」と言ってくれていると思えた。
「ただ逆に、ずっと変わらずにいることも人間はできません。
放っておいても、人間、変わっていくものです。
今の自分を否定するのではなく、今のあなたのまま変わっていけばいい」
「なんだか、とんちみたいですね」
くすっと育美は笑った。
「問題はどう変わっていくか、です。
育美さん、一つ、重要なことをお伝えしておきたい」
「なんでしょうか」
「人間関係にはいくつかの法則があります。
その中の一つに、『同じものが引き合う法則』というものがあります。
俗に『類は友を呼ぶ法則』とも言えます。
要するに同じタイプの人間が集まることです。
あなたに関しては、まずこのことをよく理解しておくといいでしょう。
あなたと建彦さんは、じつは非常に似た人間だった。
これはホロスコープ上、明らかです。
あなたは結婚相手として、土星の影響を強く受けたそんな男性を選択してしまった。
しかも、それは今のあなたが感じているように、とても厄介で難しい男性だった。
これはそのときのあなたのコンディションが、ふさわしい鏡存在としての相手を引き寄せてしまったのです。
なぜだと思いますか?」
「あたしがダメな女だから、ダメな男の人を引き寄せたということですか」
「いや、まあ、ダメダメというのはやめましょう。
しかし、仰ることの意味はだいたい当たっています。
でもね、あなたは確かに土星が強いが、本来はもっと良い人生を歩んでいてもおかしくないのです。
『良い人生』というのも、ちょっと語弊がありますが、世間一般的に言うところのね。
しかし、そうならなかった。
その理由です」
「分かりません」
「お父さんの失踪後、あなたの心には自分を責める気持ちが深いところに根付いてしまったのだと思います。
ある程度、物心付いてきた子供なら、悪いことをした後、そのことについてちゃんと叱られなかったら、自分で自分に罰を与えるような心理作用が起こってしまい、一種の自傷行為を働く場合があります。
それと同じです。
あなたは心のどこかで自分を責め、裁き続けてきた。
それが根深いところで、あなたを傷つけ、苦しめるような男性を引き寄せ、選択させるという原動力となったのです。
だから、まず自分を許しなさい。
お父さんもあなたのことを決して責めてはいないと思いますよ」
また涙ぐみそうだった。
「もう一つ知っておいてほしいのは、『人間関係の波及法則』というものです」
「人間関係……波及?」
「自分のしたこと言ったことが、巡り巡って自分に返ってくるという法則です。
仏教で言う、『因果応報』というものです。
たとえばあなたが誰かを悪く言って傷つけたりすれば、それは傷つけた本人からでなくても、かならずどこかからあなたの元に返ってくる。
誰か人を殴れば、暴力という形でなくても、相応のダメージが戻ってくる。
建彦さんは、あなたがこれまでの人生で周囲に行ってきたことを、あなた自身に返す存在しとして、あなたの前に現れたとも言えるのです」
ああ、と育美は嘆息を漏らした。
自分の行ってきた激しい決めつけ、威圧的な言動。
たしかに育美は、「怖い人」と周囲に認識されるほど、それを行ってきていた。
「しかし、この人間関係の波及法則は、良い形でも適応されます。
善意や親切、温かい気持ちを人に与え続けていれば、自然とその人のまわりには善意や温かさが満たされるようになります。
あなたにとっては、とても重要なことです」
「よく、分かりました。
その二つのことは決して忘れません」
「いい子だ、育美さんは」
老人はにっこり笑い、育美は少し照れたような心持ちになった。
「これからのあなたがすべきことは二つあります。
まず自分を許し、好きになること。
そして、お子さんを取り戻す努力をすること。
土星はあなたにとって重要な学びであり、それはあなたのチャートでは子供に関係している。
もしこのままお子さんを取り戻せなかったら、あなたはその学びをするためにまた大きな迂回路を歩まねばならない。
しかし、ここで頑張って取り戻せたなら、土星はあなたの人生の中に結実し、ちゃんとそばに置いておけるものになります」
「そうしたら、どうなるんですか?」
「子供があなたを育ててくれます」
「早紀や有紀が……あたしを……」
なにか、淡い感動のようなものが胸にあった。
「子供たちとの関係の中で、あなたは土星の良きエッセンスを自分の中に取り込み、成長することができます。
そうすれば、あなたも自然と変わり、引き寄せる人間関係も変わってきます」
「分かりました。やってみます」
「建彦さんを説得することです。
時間をかけて、根気よく、忍耐強く。
時間も根気も忍耐も努力も、すべて土星です。
でも、かならずできます」
「本当にできますか? 取り戻せるでしょうか?」
「可能性は非常に高いと思います。
以前のあなただと難しかったかも知れない。
しかし、今のあなたは建彦さんがあなたと同じ人間なのだと知っている。
出てくる言葉も違ってくると思います。
それにもう一つ、ホロスコープ上で重要なことがあります」
「なんでしょう」
「あなたのチャートの中ではここしばらく、出生の太陽に進行の海王星が重なっています。
太陽はあなた自身ですが、女性の場合は配偶者も示すのです。
もう離婚しているとはいえ、この太陽はあなたにとって建彦さんをある程度表示しています。
海王星の効果に、『無にすること』『解消すること』というのがあります。
つまり運気的には、あなたは建彦さんとの関係を本当の意味で解消することができやすいはずなのです。
あなたが今、彼に関わり続けている一番大きな理由は子供です。
子供が戻ってくれば、関係は解消に近づきます」
「彼との関係を解消できる運気があるのだから、子供を取り戻せるかもしれない、ということですね」
「はい」
育美はじっと老占星術師を見つめた。
不思議な時間が流れていた。
育美はもうここで、何日も何週間も過ごしたような気がした。
変わらなくていいと言われた一方で、なにかすでに育美の中では大きな変化が起こってしまった気がした。
「あなたは価値ある人生を歩んでいます」
老人は言った。
「ダメな人生などない。
満天に星は無数にありますが、くず星など一つもない。
その一つ一つに意味と価値があるし、じつは星々全部があなた自身でもあるのです」
その言葉に、育美の心は大きく突き動かされた。
「あたし、やってみます」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
それから春が来て、梅雨が過ぎ、夏が訪れた――。
「さあ、行くよ」
育美は自宅の庭で、ネズミ花火に着火した。
パチパチという音がはじけ、とたんにネズミ花火が高速回転しながらあちこち走り回った。
きゃあきゃあ、言いながら子供たちが逃げまどう。
そして早紀が、有紀が育美に抱きついてくる。
――こんなに可愛かったっけ。
育美は今さらのように思った。
子供たちが可愛い。
老占星術師の元を二度目に訪ねてから半年後。
育美は子供たちの親権を得ることができた。
建彦を説き伏せることで。
理性的に、諭すように。
あるとき拍子抜けするほどのあっけなさで、建彦は「分かった」と言った。
信じがたい変心だった。
親権譲渡のための書類を持っていくと、意外なことを建彦は告げた。
「ついさっき、あいつが言ってきたんだけどな、子供ができたらしいわ」
建彦の家に出入りしている女性が、ちらっと育美を見た。
「おまえの電話のすぐ後、あいつが病院から帰ってきて子供ができたって……。
ふん。
なんか、不思議なもんやな」
育美はなにか奇跡的なことが起きているのを実感した。
でも、それは決してとんでもない幸運による奇跡ではなかった。
積み重ねてきたものの先に生じた、何かの祝福に思えた。
あの老占星術師の穏やかな顔が浮かんだ。
それからはとんとん拍子に話が進み、子供たち二人は育美が引き取り、完全に面倒を見ることになった。
自分一人で子供を養育していく苦労はもちろんあったが、そんなものに勝る報酬があった。
それは子供たちの笑顔だった。
そしてそれを見て、愛おしいと感じる自分だった。
「じゃあ、お母さん、最後は線香花火ね」
早紀が袋から線香花火をわしづかみにして取り出す。
「有紀がつける~」
「ダメよ、危ないから。お母さんにつけてもらうの」
三人で線香花火を垂らし、その輝きを見つめる。
幸福。
そんな言葉がそのオレンジ色の光の瞬きの中にあった。
「あ~あ、終わっちゃった」
有紀が残念そうに言う。
「さあ、片づけたら早くお風呂に入ろうね」
と、育美は促す。
子供たちは花火の残りかすを水の入ったバケツに入れる。
そして子供たちを自宅の中に入れて、もう一度庭を点検したとき。
東の空に土星が浮かび上がっているのが目に入った。
久しく見なかった土星だった。
「……あなたが導いてくれたの?」
ふと、そんな言葉を育美は漏らしていた。
夜空には雲一つなく、満天に星がきらめいていた。
くず星など一つもない。
一つ一つが命の輝きを宿していた。
満天の一つ星。
すべての一つ星が、満天に広がっていた。
<The end>
この物語はフィクションです。
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