土星の育み part.5 |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

「これ、お願いします」
 ぶっきらぼうな声。

 耳にするだけで、すぐに誰か分かって身体がこわばる。

「例の新しい合成樹脂サンプルの請求書なんですけど」

 荒尾だった。

「はい。そこに置いといてください」

 目を上げず育美は応えたが、パソコンのキイを叩く手が震えるのを自覚した。

 荒尾は請求書の入った封筒を置き、立ち去っていった。
 2年――育美と荒尾が付き合ってきたこの時間は、決して短くない。
 今37才の育美が、女としてももう一度やり直しが利くかどうか、その瀬戸際の時期だと考えていた。

 建彦との離婚が成立してしばらく後、荒尾の方からアプローチがあった。
 突然の告白だった。

「前から好きだったんだけど」

 天に舞い上がるような気持ちだった。
 これでようやく自分の幸せがやって来るのだと感じた。

 少なくとも荒尾はまじめで、自分には誠実でいてくれたと育美は感じている。
 人見知りの激しい性格で、職場ではいろいろと苦労しているようだが、二人でいるときに見せてくれる笑顔が好きだった。
 同じ会社の荒尾は製造、育美は経理。
 おおっぴらな交際ではなかったが、やはりどうしても広まってしまうものである。

「大丈夫? 育美ちゃん」

 ちょっと離れた席にいた同僚の美幸がやって来て、声をかけてくれる。

「大丈夫」

 頷いて、美幸は立ち去った。自分のカップを持っていたから、お茶でも入れに行くのだろう。

 口ほどには、まったく大丈夫ではなかった。

 毎日毎日、四六時中、荒尾のことばかり考えている。
 どうしても脳裏を離れない。
 食欲もなく、体重は一気に3キロ落ちた。

 こんな状態で、子供のことを考えろと言われても無理だった。


「……そうなの? そんなこと言われたの?」

 休憩時間になって、一緒にご飯を食べているときに、昨日の占いの話をした。

「あたしは土星にやられてるんだって。
 試練の星だって。
 どうあがいても幸せになんかなれないみたい」

「ホントにそんなこと言われたの?」

「いや……まあ、そうは言われてないけど」

 違う。あの老占星術師は、子供を取り戻すことで育美は本来の学びができるのだと言っていた。

 ――その学びをキャンセルしてしまっては、幸せになれませんよ。

 そう。そんなことも言っていた。
 荒尾との関係が終わっていると告げられた後だったので、むしろそのことばかりが頭を巡っていた。

「子供を取り戻すって言われても、絶対無理よ」

「そうねえ。あの旦那の性格じゃねえ」

「もと! 元・旦那」

 育美は訂正した。
 あんな男と自分が結婚していたこと自体が、今は信じられない。
 母親は反対した。
 親のいうことは聞くものだと思った。
 
 その日もろくに食事は喉を通らなかった。
 会社の食堂などにいると、おどおどしながら、どこかに荒尾の姿を探している。
 いつもいつも。

 帰宅時、会社の駐車場へ向かって歩いていると、かなり先の方に荒尾の後ろ姿があった。

 ドッキーン、と胸が鳴った。
 そして締め付けられた。

 発作的に育美は駆けだしていた。

「ねえ、荒尾さん! どうしてもダメなの?
 あたし、もっと荒尾さんにとっていい女になるから!
 お願い! もう一回だけ、チャンスをちょうだい!」

 血を吐くような言葉が脳裏を駆けめぐっていた。

 が。
 育美は途中で足を止めた。いや、突然、釘打ちでもされたようにその場に止めさせられた。

 一人の女が、荒尾の方へ近づいていくのが目に入った。
 手を挙げ、笑顔を見せているその横顔。

 同じ会社の庶務課の女性だった。
 たしか昨年、入社したばかりの若い娘。

 したしげに話しかけ、その場で二人は笑い合っている。
 二人並んで歩き出す。
 そのときに娘の手が、荒尾の左腕に軽く絡まった。

 育美の足下で、地面がふうーっと傾いて、異様な形に湾曲するようだった。

 そうか。
 そういうたことだったんだ……。

 
 どうやって帰宅したのか、記憶にない。

 帰った後、居間で呆然としていた。
 テレビがかかっているが、目にも耳にも入らない。

 母が仕事から戻ってくるのはいつだったろう。
 晩ご飯を作るべきなのだが、そんな気にもなれない。

 世界が全部、蒼白に見えた。

 携帯電話が鳴り始めた。
 それだけが今も色を持っている。

 なぜかと言えば、育美は荒尾からの連絡を今も待ち続けているからだ。
 あの娘との関係が生じているのだろうと理解した今でも。

 だから、携帯が鳴るたびに、荒尾からの連絡ではないのか、メールを返してくれたのではないか、と期待を持って握りしめる。

 が。

 違った。
 早紀の名前が表示されていた。

「はい……」
 空虚で、乾いた声で育美は電話に出た。

「お母さん! お母さん! 助けて!」


この物語はフィクションです。

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