過日。
ある方の葬儀に参列してきました。
かかりつけの病院のY先生が亡くなったのがこの間のことなのに、また……。
やはり、全体的な空気として、そのようなことが起きやすいのでしょうか(土星・天王星のハードアスペクトは)。
亡くなられたのは、Kさん。
私が作家としてデビューする前、大変お世話になった方でした。
享年62歳。
あまりにも早すぎる死。
癌でした。
葬儀は某カトリック教会にて行われました。
私はキリスト教の葬儀に参列するのは、生まれて初めてでした。
冬とはいえ、なにか日差しのほの暖かい日。
ステンドグラスから差し込む光とパイプオルガンの音色、聖歌の歌声に礼拝堂は包まれ、ひそやかにKさんは神の元へと召されていきました。
Kさんは不思議な人でした。
荒れることのない穏やかで深い海のような人でした。
だからこそ、これというつかみ所もなく、なにかこの世との関わりに、どこかで一線を引いたような生き方をなさっていました。
穏やかで博識な人柄で、みんなに愛されていましたが、私はKさんの生き方にみずから好んでいる孤独の影を見ることがありました。
孤独さと引き替えに得た魂の自由。
Kさんはそんなものを携えた人でした。
癌の末期にカトリックに入信し、洗礼を受けたのも、もしかするとそんな気持ちの表れかも知れません。
キリスト教の世界では、神、そしてイエス・キリストと個人の関係は、きわめてダイレクトです。
仏教のように、その後の法要とか、現世に残った人々の供養などを要求しません。
ただ自分があり、そして主がおわせられる。
そして召される。
そこにはごまかしのない明白な構図があります。
Kさんらしい選択だったのかも知れません。
残された若い奥様への気遣いだったのかも知れません。
Kさんがいなければ、ある意味、作家としての私の誕生はまったく違ったものになっていたでしょう。
Kさんのきわめて多岐にわたる深い知識、蘊蓄。それらはいつもユーモラスで、人に感銘を与えるものでした。
それに大きく刺激されました。
未熟だった私は、小説の中にKさんをモデルとした人物を登場させても、そのわずかな魅力しか描くことができませんでした。
いつかまたKさんのような人物を描きたい。
そう思います。
今はお別れを。
さようなら、Kさん。
安らかに。
さようなら、Kさん。
ありがとうございました。
さようなら、Kさん。
またお会いしましょう。